ジャガタラのVoでリーダーだった江戸アケミコミュです。
+ 江戸アケミ +
本名 江戸正孝
JAGATARAのリーダーでVo 作詞 作曲を担当
高校時代生徒会会長で文学青年だった。
上京後1979にじゃがたらお春を結成。
以後 財団法人ジャガタラに名前を変えるが本当は財団法人じゃないのにこの名前使っててまずくねぇの?と突っ込むと
「いや、オレのは法人のほうが阿呆の呆なんだよ」
てコドモみたいいワケをかます。
記憶が正確ではないが1981年頃
斜眼帯(山本政志、奥村キンジ 飯田ジョウジ等による自主製作映画集団)の溝口を通じて新宿モダンアート金曜深夜劇場に主演交渉
新宿モダンアート金曜深夜劇場で、ジャガタラライブ敢行。
おそらくこの時にはじめてステージ上でのハダカになり小便を飲む 額をフォークで突き刺すなどの過激なパフォーマンスを演じる。
これが初期のジャガタラの名前を一気に有名にするきっかけになる
(当時写楽に記載されジャガタラの名を一気に広めた写真はここと後のアシベのもの。)
吉祥寺のマイナー 新宿ロフト 屋根裏等でライブの日々
ジャガタラ女バージョンということで「闇のカーニバル」 「ロビンソンの庭」 主演女優の太田久美子をVoに仕立てたパンクバンド「生理不順」を臨時結成。
楽曲は「少年少女」「ヴァギナファック」の2曲だったが太田久美子が常規を逸したリズム音痴だったために3ステージほどで解散。
(その流れの中で当時練摩にあった大駱駝館でのライブで多少舞踏系の人間と関わったことでジャガタラのイメージを混乱させているようですが直接暗黒舞踏集団とからんでいたというわけではありません。)
「闇のカーニバル 山本正志監督」に出演。
でもメインで使われた音楽はコクシネル。
この頃ドラムも変わりOTOが参加。
それまでのパンクな音に厚みがでてアフロロックへと変化。
ここで最初のCD「南蛮渡来」発売。
1983年
アケミ発症
アケミの住居でもあったスタジオ駒場での奇行が目立ち神をからめた意味不明な発言が目立ち極度な情緒不安定に。
以後3年間の入退院を繰り返す闘病生活。
1985年「君と踊りあかそう日の出を見るまで」発表。
退院後「裸の王様」「ニセ予言者ども」など次々に新しい楽曲を発表。
1987年山本政志監督「ロビンソンの庭」ジャガタラ音楽と出演
1989年メジャーデビュー「それから」を発表。
1990年1月27日 自宅風呂場で安定剤を飲んで風呂に入りそのまま眠ってしまい溺死
享年36才