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東大寺

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詳細 2024年3月8日 23:47更新

人影奈良の大寺、東大寺のコミュです。
当コミュでは東大寺に関するすべての話を対象にしています。
東大寺境内のすべての堂院、東大寺でとり行われるすべての行事、東大寺が育んだ教学や文化および芸術のすべてと、東大寺に関することは余すことなくこのコミュは取り上げます。
 えんぴつ東大寺は日本を代表する寺院として、また観光地として
   内外を問わず多数の参拝客から親しまれています。
 えんぴつ東大寺は国家鎮護の祈りの場として
   古くから国家からや庶民からの信仰があります。
 えんぴつ東大寺には大仏のお身拭いや二月堂のお水取りといった、
   関西の季節を感じる行事があります。
 えんぴつ東大寺には1200年を超える歴史があり、
   各時代を代表する仏像などの文化財があります。
 えんぴつ東大寺には緑あふれる広大な境内で鹿が草を食み、
   初夏には蛍が舞う心和む風景があります。

そんな東大寺について、語ってみませんか。
本格的な学術論だけではなく、修学旅行で大仏を仰ぎ見た思い出など、「あなたにとっての東大寺」を、ご自身の日記に書くようにコメントをしていただければ幸いです。語れば語るほどその魅力が深まるのが、日本最大の寺院である東大寺なのです。

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当コミュに来られた方は、まず「INDEX(索引)」をご覧下さい。
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本由緒・沿革(検索ワード集を兼ねています)

華厳宗大本山である東大寺は別名を金光明四天王護国之寺、大華厳寺ともいいまして、古都奈良の文化財の一部としてユネスコの世界遺産にも登録されました。
◎奈良時代 ─ 平安時代・創建期
建立発願は聖武天皇。河内国の知識寺の盧遮那仏に感銘を受けた天皇は、天平15(AD743)年に「大仏造顕の詔」を発し、大仏鋳造を目指します。大仏を造りたがった背景には、唐で巨大石仏を見た玄ぼうや吉備真備といった帰国遣唐使からの影響もあったのでしょう。
一年かけて奈良では無く近江国甲賀郡に開いた紫香楽宮で近くの甲賀寺に大仏の造営を試みました。しかし天平17年には、天皇の皇子であった基皇子の菩提を弔う金鍾寺があった平城京東の外京地域へと変更されます。大仏造像はあまりに壮大な計画であり、その実現は困難を極めました。
そこで朝廷は大衆より支持を集めていた行基を大僧正に立てて、勧進を担わせました。発願より9年後の天平勝宝4年に晴れて大仏の開眼法要が、インド僧の菩提僊那を開眼導師にして執り行われたのです。記録によると東大寺造営に携わった労働者は260万人で、これは当時の日本人口の半分とされている膨大な人数です。開眼法要には退位していた聖武上皇の他、娘の孝謙天皇や太后光明子(光明皇后)も参列しました。聖武天皇、行基、菩提僊那、そして東大寺の初代別当の任に就いた大僧正良弁の四人を、東大寺では「四聖」(ししょう)と呼び、祖として尊んでいます。
この大寺は「総国分寺」として全国の官寺の要とされ、朝廷には東大寺を建築するための「造東大寺司」という専門の役所まで設けられ、仏教国家として大成しつつあった奈良時代の仏教の中心として絶大な権威を揮っていたのです。 寺の中心になる金堂(大仏殿)は、創建当初は桁行86m、梁行50m、高さ47mで、正真正銘世界最大の木造建築物。また天平の世にはその高さ96mと推定される七重の東西両塔が並び立ち、64万平方メートルにも及ぶ寺域に居並ぶ伽藍群は、官寺の頂点にふさわしい空前絶後の規模で人々を圧倒したのでした。
しかし聖武天皇の血筋からの皇統が途絶えると、都も奈良から平安京へと遷都し、南都仏教は朝廷からの庇護を失うことになり東大寺にも試練の時代が訪れます。大安寺や元興寺といった官寺が廃れて行く中、東大寺はそこでそれまでの華厳教学のための寺院から、八宗兼学を名乗り様々な宗派を受け入れるようにし、寺の危機を乗り越えようとしました。真言宗開祖の空海や、醍醐寺を建てた聖宝を招いて平安初期に盛んになった真言宗を積極的に受け入れるなどし、東大寺の権威を守ったのです。

◎源平時代 ─ 鎌倉時代
その後、伽藍は焼失と再建を繰り返しました。特に東大寺にとって激動の時代であったのは源平時代の治承4(1180)年の平氏による南都焼き打ちと、戦国時代中期の永禄10(1567)年の三好と松平久秀とによる東大寺大仏殿の戦の二回。
平氏が実権を握っていた平安末期、東大寺が興福寺と共に源氏に加担したことを重く見た平清盛は平重衡ら平氏軍を南都に送り、南都一帯を焼き討ちにしました。東大寺は大仏殿、回廊、東塔、講堂、三面僧房、鑑真和上が創建した戒壇院などの建物が焼失し、特に講堂に安置されていたという天平時代の多くの仏像が失われたのが大きな損失だったといいます。
この罹災からの再興は清盛死後の平安末期から鎌倉時代で、復興の勧進を担ったのは俊乗坊 重源でした。重源は大仏殿再建を果たし、また重源の没後は臨済宗開祖の栄西や、北条政子の戒師として知られる行勇らが勧進職を継ぎ東大寺再興の功を残したのです。今の大仏の胴体の一部や大仏様(天竺様)建築の代表として名高い南大門などはこの時代のもの。仏師の運慶・快慶といった慶派の仏師が名を馳せたのもこの頃です。鎌倉時代の大仏開眼法要には後白河法皇が自ら開眼導師の筆を取り、源頼朝、政子夫妻も参列をしました。
歌舞伎の演目として有名な「勧進帳」とはこの時の東大寺勧進のことで、東大寺勧進僧を装った弁慶が、無地の巻物を東大寺勧進帳のように読み上げる場面は有名。

◎戦国時代 ─ 江戸時代
戦国時代には東大寺に陣を張った三好三人衆と筒井順慶の連合軍と松平久秀が東大寺境内を戦場にしたいくさをし、大仏殿をはじめとする主な堂塔は、南大門を除いてほぼ焼失してしまいました。南大門からは調査によって、この戦の時のものと思われる銃弾が発見されています。大仏も頭部が焼け落ち、順慶の叔父にあたる奈良の武将、山田道安によって復興の寄進が行われいち早く大仏再建は着手されたものの、頭部は木造に銅板を貼った仮修理にとどまり、大仏殿どころか一切覆屋が無い露座のままの痛々しい姿を永らくさらしていたのです。松尾芭蕉は「野ざらし紀行」で、東大寺を訪れた際に「初雪や いつ大仏の柱立」と、野ざらしの大仏の姿を嘆く句を詠んでいます。
また、織田信長の伊賀攻めによって東大寺は広大な荘園を失うことになり、また豊臣秀頼の太閤検地以後、寺領がことごとく没収されるなどして、経済力は大きく失墜することに。信長が正倉院の至宝の香木である蘭奢待を求めた話も、強大な権威を持っていた東大寺を制することによって、権力を誇示することになったのでしょう。
江戸時代の復興の勧進を担ったのは、龍松院 公慶上人でした。公慶は貞享元(1684)年に幕府から勧進の許可を得ると、鎌倉の復興の祖の重源が愛用していた杓を手に日本全国を勧進に回りました。こうして5年後に頭部が新たに鋳造され、奈良の大仏は元の姿を取り戻したのです。
さらに大仏殿の復興を目指した公慶は大僧正隆光の力を借りることとしました。5代将軍徳川綱吉とその母である桂昌院からの信望の篤かった隆光が奈良の出身だったというということから、勧進に大いに賛同すると公慶は考えたのです。
公慶の意向を受けて隆光が将軍とその母に勧進の話を仲介したことにより、東大寺の復興は大いに進むこととなりました。しかしそれでも大仏殿を元通り復元するには及ばず、苦渋の末に創建時の三分の二の規模で建てることに。しかも公慶自身も宝永2(1705)年に志半ばで没してしまいました。しかし再建は高弟に託され、宝永6(1709)年3月21日、大仏殿落慶法要の日を迎えたのです。法要には1万3千人の僧が参列し、一般参拝者は20万人にも及び、古都奈良は空前絶後の賑わいになりました。

このように東大寺は幾度も戦乱に巻き込まるなどで、天平の建築物や多くの寺宝を失いました。それでも3宇の天平時代のものを含む8宇の国宝と、天平時代のもの2宇を含む17宇の重要文化財建築物、23件の国宝の美術工芸品、その他国指定の重要文化財約100件が残されています。(いずれも手向山八幡宮を含む)
また、正倉院も今は宮内庁の管轄ですが、かつては東大寺の宝物庫として朝廷ゆかりの世界の宝とも言うべき貴重な御物を、今日まで伝えて来ました。
そして、二月堂で毎年3月に行われる修二会(お水取り・お松明)は、天平の時代より千二百年以上一度も絶やされたことの無い「不退の行法」として長い伝統を今に伝えています。

公式HP
http://www.todaiji.or.jp/index.html

正倉院HP
http://shosoin.kunaicho.go.jp/

奈良国立博物館HP
http://www.narahaku.go.jp/

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トップ画像文字は正倉院文書・古文書正集第七巻
法師道鏡牒より、弓削道鏡の自筆。

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2009年6月10日

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