「傷みて なほも ほほえむ 芽なれば いとど かわゆし こころよ しずまれ しのびて しのびて しのべよ」
田中恭吉(1892-1915)
1892年和歌山で生まれる。
18歳のとき画家を志し、上京。
白馬会研究所にて東京美術学校の翌年の試験に
備える。
1911年東京美術学校 に入学
しかし西洋画と日本画、ひいては美術という枠組みの中で悩み、次第に美術、文芸の分野へ身を投じる。同じような考えを持つ仲間達と回覧雑誌「ホクト」を作り初め、絵だけではなく詩歌の発表を行う。
1913年 2号しか続かなかった「ホクト」の後にペン画や文字原稿をまとめた回覧雑誌「密室」を作り始める(〜翌年の3月まで刊行)。この年の10月初めての喀血。病床でも作品を制作、徐々に体力を回復。木版画を取り入れる。
1914年新たに仲間達と版画の雑誌「月映」(つくはえ:9月〜翌年11月まで。計7冊)を発行することが決まり、作品を作り続けるも病状が悪化。故郷の和歌山へ療養のために帰郷。次第に体力の必要な木版画の制作はできなくなり、詩歌とペン画の制作に没頭していく。
1915年「月映」によってその存在を知った萩原朔太郎が自分の第一作目の詩集の挿絵を依頼するも志半ばで恭吉は10月に肺結核のためこの世を去る。
享年23歳
その後恭吉の遺志を組んで「月映」の仲間恩地孝四郎によって装丁される。
1917年 2月 萩原朔太郎 第1作目詩集「月に吠える」刊行
画 「冬蟲夏草」 1914年