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ジョン・スカリー

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詳細 2013年3月16日 14:59更新

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋


1939年、アメリカ合衆国に生まれる。彼の自伝のなかでは、14歳の時テレビのブラウン管に関する発明をしたが、すでに特許が出ていた。それが後のソニーのトリニトロンであったと語っている。
ブラウン大学に進学。ペンシルベニア大学ウォートン・スクールで MBA 修了後、ニューヨークの広告代理店に職を得た。その後、当時の妻の父でペプシコーラの要職にあったケンドールの誘いを受けペプシコ初のMBA修了者として入社する。
スカリーは、ペプシのコマーシャルにマイケル・ジャクソンを採用したり、ペプシ・チャレンジと言われた、ブランド名を隠して複数のコーラを飲ませて、ペプシのコーラがおいしいとつたえるコマーシャルなどの手法を使った。ダイエット・ペプシなどがヒットし、ついにはコカ・コーラを抜いてアメリカの炭酸飲料マーケットで首位を取る原動力となった。
アップルコンピュータの社長を探していた創業者のスティーブ・ジョブズは、当時ペプシコーラの事業担当社長をしていたスカリーに白羽の矢を立て、18ヶ月に渡って引き抜き工作を行った。このとき、スカリーを口説くために彼が述べた言葉、「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかみたいか。」(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)は有名である。
1983年、スカリーはアップルの社長の座に着き、ジョブズとのダイナミック・デュオと呼ばれた体制に移行した。1984年1月には、マッキントッシュのデビューに立会い、順調に経営が進行するように思われた。
しかし、1984年のクリスマスシーズンは、需要の予測を誤り、マッキントッシュの過剰在庫に悩まされることになった。この第4四半期で初の赤字を計上、従業員の1/5にあたる人数の削減を余儀なくされた。アップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになったスカリーは、1985年4月にマッキントッシュ部門からの退任をジョブズに要求、取締役会もこれを承認した。スカリーはこれで穏便に済むと考えていたが、ジョブズはスカリーが中国に出張している間にアップルから追放することを画策した。このことはジャン=ルイ・ガセーにより事前にスカリーに密告された。1985年5月24日の取締役会で、ジョブズの画策をスカリーが問いただし、スカリーとジョブズの一方を選ぶように他の取締役に告げた。取締役のほとんどはスカリーを選び、ジョブズは5月31日にアップルでのすべての仕事を剥奪された。
ジョブズがアップルを去ったのに前後して、1985年6月25日にスカリーとハード担当責任者であったガセー当てに、マイクロソフトのビル・ゲイツからAT&Tやヒューレット・パッカード、ソニーなど有力メーカにマッキントッシュのOSをライセンスするべきで、ゲイツ自身もその手助けを惜しまないという内容のメールが送られた。ゲイツは自社でのOS開発凍結も考えていたほど本気だったようだ。スカリーはOSライセンスの可能性の調査を指示したが、ガセーを筆頭に技術陣から猛反対を受けてこの提案は闇に葬られた。この判断は後々、スカリー最大の失策とも言われた。
スカリーは、マッキントッシュ以外にアップルの柱となる製品が必要だと感じていた。スカリーは、1987年に自著のなかでコンピュータの未来像としてナレッジ・ナビゲータというものを描いていた。一方、ガセーの許可を受け1987年ごろニュートンとよばれるPDA開発のプロジェクトが始まっていた。スカリーはこのニュートンに自身のナレッジ・ナビゲータを感じ取り、ニュートン開発に力を入れるようになっていった。
技術担当のガセーは、アップルはマックの開発に集中すべきだと考えていた。彼はマッキントッシュの外部ライセンスに反対の立場を一貫してとり、またニュートンの開発にも批判的(自身が開発許可を与えたにも拘らず)で、スカリーと対立して失脚。1990年アップルを去ると、スカリーは自身が技術者でないにもかかわらず、CTO(最高技術責任者)に自分を任命した。
1991年には、アメリカ合衆国大統領選挙でビル・クリントンの応援演説も行った。彼は元々は共和党支持者であったが、クリントンの掲げる政策がシリコンバレーおよびアップルの利益になると考えての行動であったと本人は述べている。一時、副大統領候補にも彼の名前があがったが、噂であるが2回の離婚歴が問題になったともいわれている。1992年には、大統領の座についたクリントンの就任の一般教書演説の際、ヒラリー・クリントン夫人の隣に陣取っていた。さらにクリントンから商務次官の誘いがあったが、スカリーはこれを断っている。
1993年、アップルをAT&Tに売却する交渉をする一方で、自身はIBMやアメリカン・エキスプレスからトップ就任のオファーを受けていた。また、1993年8月にボストンで開催されたマックワールドエキスポでニュートン・メッセージパッドを出荷すると、このプロモーションに力を入れるようになった
ニュートンや政治など、マッキントッシュに力を注いでいないスカリーの行為に、アップルの取締役会は、不信の目を向けるようになった。1993年に業績が大幅に悪化すると、1993年6月18日、ストックオプションなど約1000万ドル相当の退職慰労金を手にスカリーはCEOを退任し、マイケル・スピンドラーに譲った。
スカリーは、スペクトラム社の会長兼CEOに就任する。しかしスペクトラムは株主訴訟の真っ只中にあり、株価不正操作の疑惑がもたれている会社であった。1994年2月にスペクトラムを退社。
1995年、彼の弟らと共に、投資コンサルタントの「スカリー・ブラザーズ」を興した。

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