新田義貞は、鎌倉末期に現在の群馬県太田市(新田郡新田町)に生まれ育ち、わずかな手勢で鎌倉幕府打倒に決起し、ついに強靭な幕府を打ち倒した名将です。
輝かしい功績を残しながらも歴史上の表舞台には立たなかった名将、生誕の地、東毛では愛され、郷土の誇りとなっている英雄。
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新田義貞(1301~1338)は、鎌倉幕府を倒し、建武の新政に功のあった武将。その家系は、源氏の礎を築いた源義家に連なる家柄です。
元弘三年(1333)、鎌倉幕府の専制政治は頂点に達していました。そこに、天皇の新政復活を目指す後醍醐天皇の動きが活発化し、討幕の兵を募りました。その声に応じた一人が上野国(群馬県)の新田義貞でした。
元弘三年五月八日に新田荘を発した義貞の動きは、実に目覚しく、越後、甲斐、信濃の軍勢を合流しながら、九日に武蔵へ侵入。十六日には、分倍ヶ原を突破。十八日には、鎌倉攻めに入りました。
義貞は、兵を三手に分け、極楽寺坂、巨福呂坂、化粧坂から攻撃を開始。各所での幕府軍の反撃は激しく、特に極楽寺坂の戦いでは、新田軍に多くの犠牲者が出ました。新田軍はなかなか突破できない為、二十一日夜半に稲村ガ崎から干潮時に海つたいで鎌倉に突入しました。
翌二十二日、激しい戦いの後、北条高時一族は東勝寺に追い込まれ、もうこれまでと一族八百名が自害し(高時腹切やぐら)、終に百五十年に渡る鎌倉幕府は滅亡しました。
しかし戦後の評価は尊氏の方が高く、功績は尊氏に集まってしまいます。義貞は関東を離れ後醍醐天皇の側に仕え、天皇に反抗した尊氏を討つ為、鎌倉に向いますが、箱根で敗戦。その後も尊氏と戦いますが、湊川でも破れ北陸へ走ります。しかし越前藤島で尊氏軍と戦い、無残に戦死してしまいました。
輝かしい功績を残しながら、不運な生涯を遂げた武将です。
義貞公資料(chat黒猫noirさんより紹介)
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