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「色と形を以つて、心を表現するのが、本来美術の純粋形態である筈だ。それが、美術は形を模さねばならぬものといつのまにか定められて了つてゐる。(中略)凡そ、知解にうつたへる芸術ほど下等なものはないのだ。すべての中間作品、通俗作品がそれである」(恩地孝四郎/版芸術1932年 4月創刊号)
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恩地孝四郎 (1891-1955)
版画家。東京に生まれる。1910年(明治43)東京美術学校西洋画科に入学、一時彫刻科に転じ、のち中退。在学中の14年(大正3)田中恭吉らと詩と木版画の同人誌『月映(つくはえ)』を創刊し、日本最初の抽象作風を試みた。16年室生犀星(むろうさいせい)、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)らと同人誌『感情』を創刊し、その装丁も手がけた。装本図案の分野でも大いに活躍する。18年日本創作版画協会が発足して会員となり、31年(昭和6)日本版画協会の創設に際して常務委員となる。官展出品のほか、36年国画会版画部に会員として加わる。第二次世界大戦後サンパウロ・ビエンナーレ展ほかに出品、日本版画の国際的進出に貢献した。抽象、具象の両系列があり、『ポエム』『フォルム』『アレゴリー』『リリック』『オブジェ』ほかのシリーズ制作が多い。『日本の現代版画』ほか多数の著書がある。
[執筆者:小倉忠夫] 小学館『日本大百科全書』
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1891年に東京都新宿区に生まれる。当時父は東京地方裁判所の検事であるが、後に東久爾宮や明日香宮の教育係に任ぜられていることからも恩地家の名家ぶりが伺える。孝四郎は医者になるべく独逸協会中学校から第一高等学校を受験。
1909年受験に失敗、白馬会洋画研究所に通う。この年に発行された『夢二画集 春の巻』に感銘を受け、以来竹久夢二のもとへ出入りするようになる。夢二との交流は同人雑誌『桜さく国』(1911,1912)への詩文の寄稿、詩画集『どんたく』(1913)や『抒情画選集』(1926)の装幀、「どんたく図案社」(関東大震災により頓挫)の共同企画等この後も続くことになる。
1910年東京美術学校洋画科予備科に入学、翌年彫刻科塑造部に転科し、数ヶ月後退学、1912年洋画科予備科に再入学し、1915年中退。
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版画家として、装幀家として、詩人として、写真家として、また日本における抽象美術の先駆けとしてなどさまざまな顔がありますが、ここでは特定の表現に限ることなく恩地孝四郎について、ならびに彼に関連する事物について幅広く取り扱いたいと思います。知識の多少に関わらず、どのようなかたちであれ彼を知り、興味をもつもの同士楽しく交流していきましょう。
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参考サイト
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