「千里眼でなければならぬ、千里眼にならなければならぬ、と僕は言うのだ。詩人は、あらゆる感覚の、長い、限りない、合理的な乱用によって、千里眼になる。恋愛や苦悩や狂気の一切の形式、言うに言われぬ苦しみの中で、彼は、凡ての信仰を、人間業を超えた力を必要とし、又、それ故に誰にも増して偉大な病者、罪人、呪われた人、或いは又最上の賢者となる。彼は未知のものに達するからである。彼は、既に豊穣な自分の魂を、誰よりもよく耕した。彼は未知のものに達する。そして狂って、遂には自分の見るものを理解する事が出来なくなろうとも、彼はまさしく見たものは見たのである。彼が、数多の前代未聞の物事に跳ね飛ばされて、くたばろうとも、他の恐ろしい労働者達が、代りにやって来るだろう。彼らは、前者が斃れた処から又仕事を始めるだろう」(ランボー、千里眼の手紙)。
「ランボー?」の中で小林秀雄ははっきり明言する「――彼は河原に身を横たえ、飲もうとしたが飲む術がなかった。彼はランボーであるか。どうして、そんな妙な男ではない。それは僕等だ、僕等皆んなのぎりぎりの姿だ。」と。
拙著『小林秀雄論』より