スイス、ル・ロックルで時計製造業を営む家庭に誕生したフランソワ・ペ
ルゴは、スイス時計を広めるため、幕末の混乱した日本へと横浜から入港
した。
そのとき携えていたのは12個の懐中時計だったと伝えられている。
1860年代から70年代にかけて、フランソワ・ペルゴによって日本に輸入さ
れた懐中時計が現在でも残っているが、ムーブメントには鶴のデザイン細
工が施されているのが見てとれる。その精巧な作りは、F.ペルゴが当時
からいかに日本を愛し尽力したかを物語っている。
フランソワ・ペルゴが来日したのは、
日本がまだ混乱の真っ只中であった江戸時代末期の不安な時代だった。
自国の誇りとする時計技術、スイス時計を広めるために、
現在の横浜中華街にあった、外国人居留区の一画に商館を置く。
これが正規スイス時計販売のはじまりである。
1877 横浜外国人墓地に眠るスイス時計を広めるべく精力的に活動して
いたフランソワ・ペルゴだが、享年43歳という若さの志半ばで息を引き
取る。
日本に初のスイス時計をもたらしたF.ペルゴは、現在も、彼が愛してや
まなかった横浜山手の外国人墓地で静かに眠りについており、傍らには
小さな墓がひっそりと寄り添うように建っている。
1852年、コンスタン・ジラールはジラール社を設立して二年後、マリー
・ペルゴと結婚し、二人の姓を組み合わせたジラール・ペルゴ社を1856年、
ラ・ショー・ド・フォンに誕生させる。
「マニュファクチュール」(自社一貫生産)の製品とは独創的な作品に
対する総括的な技量概念を示す。この独創性はデザインへの情熱と熟練
した技術の、両者の調和から成り立っており、この理念をモットーにジ
ラール・ペルゴは大・小のコンプリケーションや様々なムーブメントの
生産など、研究開発作業に日々、全力投球している。
その結果、時計製造産業界でも独自の草案やムーブメントを持つ貴重な
存在となっている。
日本にゆかりの深い「ジラールペルゴ」について、語り合いましょう。