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細川護煕

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詳細 2021年12月21日 19:24更新

細川 護熙(ほそかわ もりひろ、1938年(昭和13年)1月14日 - )は、日本の政治家、陶芸家。肥後熊本藩主だった細川家の第18代当主。

内閣総理大臣(79代)、衆議院議員(2期)、参議院議員(3期)、熊本県知事(第4代、2期)、日本新党代表、フロムファイブ代表を歴任。

1993年7月の第40回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選して非自民連立政権の首班となり、38年ぶりに自由民主党からの政権交代を実現させた。


生い立ち
関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国武将細川忠興の子・熊本藩主細川忠利から数えて15代目の侯爵細川護貞と、首相経験者近衛文麿の娘である温子との間の長男として東京都千代田区に生まれる(本籍地は熊本県熊本市)。栄光学園中学校、学習院高等科を経て上智大学法学部卒業後、朝日新聞に入社。鹿児島支局を経て社会部記者となり、金嬉老事件などを取材した。


政界へ
その後、朝日新聞社を退職し衆議院議員総選挙に出馬、落選するも、1971年の参議院議員選挙で全国区から石原慎太郎などの支援を得て当選するが、石原とは袂を分かち田中角栄率いる七日会に所属したため、2期目は熊本県選挙区から出馬し当選、大蔵政務次官などを歴任した。


地方自治へ
その後、熊本県知事選挙への出馬を表明、現職の沢田一精と自民党の公認を争った末の調整で公認候補となり、1983年に当選、2期8年勤める(当時全国最年少の知事)。この間、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進。また知事在任中、何をするにも国(中央省庁)に権限を握られていることを痛感し、地方分権を推進するためには国の中枢に入って改革をする必要があると考えるようになる。引き合いとしてよく使った「バス停の設置場所を数メートル移動させるだけでも運輸省の許可を得るのに大変な手間がかかる」という例は話題になった。


新党結成
3期目の知事選も当選確実と誰もが考えていたが、「権不十年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え2期8年で知事を辞めた後、1991年2月に活動の本拠を東京に移して、「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長を務めた。

1992年、文芸春秋で「自由社会連合」結党宣言を発表。東西冷戦終結の国際潮流とリクルート事件をはじめとする政治腐敗、既成政党不信、政治改革・行政改革の遅滞を背景に、政権交代の可能性がほとんどなくなっていた保守政党(自民党)と革新政党(社会党)の二大政党制(1.5大政党制)を捨て、政権交代可能な保守の二大政党制を打ち立てるべきだと訴えた。新党は公募により党名を「日本新党」とし、10年以内に政権獲得を実現するという目標を掲げた。同年、参議院選挙に比例区から立候補し、日本新党は細川を含めてミニ政党としては過去最高の4議席を獲得した。

ところで、中央政界ではリクルート事件や金丸信の東京佐川急便事件などによってますます強まる国民の政治不信を背景に、政治腐敗防止のために政治資金規正や政権交代を容易にする小選挙区制度導入といった政治改革の期待が高まっていたが、自民党内の激しい対立によって関連法案は廃案となり、海部内閣は退陣に追い込まれていた。続く宮沢内閣の下でも一向に実現の目途は立たず、1993年5月、ついに宮沢首相がテレビの特別番組で「政治改革を必ず実現する」「どうしてもこの国会でやる」と決意を示したものの党内のいわゆる「守旧派」の反対の前に再び断念に追い込まれた。自民党からは改革推進派議員が離党して新生党、新党さきがけを結成し、宮沢内閣に対する不信任案が衆議院で可決された。これを受けて宮沢は衆議院を解散した。

この間、細川は日本新党代表として全国を遊説して政治改革・地方分権を訴え、無党派層の支持を集めていった。6月、総選挙の前哨戦と位置付けられた東京都議会議員選挙で大躍進する。


細川政権
衆議院の解散による第40回衆院選で日本新党は躍進し、細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選。この選挙で野党第一党の社会党は大敗し、与党で第一党の自由民主党も過半数に達していなかったため、日本新党と新党さきがけがキャスティングボートを握る。新党さきがけ代表の武村正義は、細川とは滋賀県知事時代以来のつきあいがあり、その縁で日本新党を引き込み自民党との連立政権を模索したが、新生党代表幹事小沢一郎がこれに対抗して「細川首相」を提示。細川は「自民党を政権から引きずり下ろすためには悪魔とも手を結ぶ」と言って非自民連立政権の首班となることを受諾した。

1993年8月5日、政治改革を最大の使命として掲げる細川連立内閣が誕生した。細川は公選知事経験者としては初の総理大臣となった。閣僚を経験していない首相としては1945年の東久邇宮稔彦王以来48年ぶりである。細川政権誕生によって、1955年から38年間続いた、自民党長期政権、55年体制は崩壊した。日本新党、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社民連、民改連の8つもの政党・会派が連立を組んだ細川内閣は、連立各党間の調整の困難が予想され、8頭立ての馬車と揶揄されることもあった。

細川は、折からの冷夏によって起こった記録的米不足を背景に、自民党政権下で長年の懸案でもあった日本のコメ市場の部分開放を決断した。11月にはAPEC首脳会議に参加した。

その一方で政治改革関連法案の成立は難航した。連立与党の衆議院選挙制度改革案は、当初の小選挙区250、比例代表(全国区)250、計500議席を、小選挙区274、比例代表(全国区)226と自民党へ譲歩したものの受け容れられず、新制度によって従来の議席を維持できなくなることを怖れる社会党の一部参議院議員も造反したため、1994年1月に廃案となる。ここで細川は、一度否決されたにもかかわらず、自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開き、再び改革案成立への意欲をアピールした。細川は、河野洋平自民党総裁との党首会談で修正を話し合い、今までよりもさらに自民党案に近い小選挙区300、比例代表(地域ブロック)200の小選挙区比例代表並立制とする案を呑むことで合意を取り付けた。こうして長年にわたり何度も頓挫してきた新たな選挙制度を実現させた。

政治改革関連法案が曲がりなりにも成立し、細川内閣は空前の内閣支持率を得た。2月、これに意を強くした小沢一郎と大蔵事務次官斎藤次郎のラインに乗った細川は、消費税を福祉目的税に改め税率を3%から7%に引き上げる国民福祉税構想を発表した。しかし、これは深夜の記者会見で唐突に行われたもので連立与党内でも十分議論されていないものであったため、世論はもとより官房長官武村正義など与党内からも反対の声が沸き上がり、すぐに撤回することとなった。さらに政権を支える与党実力者小沢と武村の対立が表面化。細川は内閣改造によって武村外しを図るがこれも実現できず、さらに細川自身の佐川急便借入金未返済疑惑が野党・自民党に追求される。細川は熊本の自宅の門・塀の修理のための借入金で既に返済していると答えていたが返済の証拠を提出することが出来ず、国会は空転。政権は一気に下り坂に向かった。4月5日、参議院議員コロムビア・トップ、同西川きよしとの会食の席で「辞めたい」と漏らしたことが報じられ、一旦は否定したものの政権はもはや死に体となってしまい、8日に退陣を表明。1年に満たない短命政権となった。28日には、細川内閣で副総理であった羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。このとき社会党と新党さきがけを除く連立各党が新選挙制度への対応と政権安定化のために院内統一会派「改新」を結成したが、かえって両党は反発して連立を離脱。羽田内閣は少数与党政権としてスタートした。与党が少数となった国会は借入金未返済についての細川の証人喚問を決定、6月に喚問を受けた。


新進党から民主党まで
1994年6月、羽田内閣総辞職・村山内閣誕生により、統一会派「改新」に参加する日本新党・新生党・公明党・民社党などは野党に転落したが、新選挙制度の下では中小政党は不利になることに鑑みて、12月、新進党を結成した。1995年7月の参院選で、細川は党首海部俊樹、羽田孜とともに首相経験者3人組で政権交代可能な二大政党の一つであることをアピール(三総理作戦)、勝利に導いた。しかし、この選挙で新進党比例候補として当選した友部達夫がオレンジ共済組合事件で逮捕されると、その比例名簿順位の決定に関わった細川は追求を受けることとなる。

新進党では12月に新たに党首に就任した小沢一郎の党運営が強権的であるとの不満が大きくなり、1996年の総選挙前には鳩山邦夫・船田元・石破茂らが離党し、敗北後はさらに離党者が続出。細川も1997年6月18日に離党、新進党解党直前の12月には新党「フロム・ファイブ」を立ち上げた。

さらに1998年1月には、羽田孜らの太陽党、国民の声との三党合併により民政党を結成。その後も、新進党解党後の二大政党の一翼を担いうる新党の結成を目指し、旧民主党、新党友愛、民主改革連合との新党設立を協議する政権戦略会議の議長を務める。協議は難航したが、4月、「民主党」の名称をそのまま呑むことでとりまとめ、面目を躍如する。

しかし、新 民主党の結党を見届けた後の1998年5月7日、還暦(60歳)を迎えたことを区切りとして衆議院議員を辞職した。


現在
1998年還暦を機に政界を引退し、陶芸家として神奈川県足柄下郡湯河原町宮上に居(不東庵)を構えている。陶芸の師は辻村史朗。また、細川家の所蔵品を保管展示する財団法人永青文庫の理事長を務める。現在、唯一政治に関わる活動として、「女性のための政治スクール」顧問を務める(名誉校長は妻の細川佳代子)。

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