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††Mc Solaar††

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詳細 2016年4月15日 02:58更新

★?? Who is Mc Solaar ??★


発音ですが、フランス語の為、”MC Solaar”は、”エム・シー・ソラー”ではなく、”エム・セ・ソラー”と呼びます。

M.C.ソラー、本名クロード・ムバリ(1970年パリ郊外ヴィルヌーヴ・サン・ジョルジュに生まれる)は、ファーストアルバム『QUI SEME LE VENT RECOLTE LE TEMPO』(1991年作品)の中の数曲("BOUGE DE LA", "CAROLINE")から広く知られるようになった。

日本では、アシッド・ジャズ隆盛の立役者的レーベル:”トーキング・ラウド”からデビューを果たし(現在は彼はイーストウエスト・フランスへ移籍)、大きな注目を浴びた。その他、コンピレーション・アルバム『ジャズマタズ』にも彼の曲が収録されている。

デビュー以降の彼の作品は、アメリカにおけるラップ・アーティスト達と同じく、社会や政治の矛盾に対するメッセージ性の非常に高いものが多く、”硬派なラッパー”として、非常にリスペクトをフランス国内では受けている。例えば、1994年のセカンド・アルバム『PROSE COMBAT』では、あらゆる彼の特徴を示しており、非常に凝った文体と溌剌たるラップ、そして、都市周辺の郊外をとりまく暴力問題に立ち向かい、聴衆に建設的なモデルを提供しようとしている。
M.C. ソラーはフランスのラップでの一つの例外的な、そして突出した存在であり、あたりを照らし出す人物であるといえよう。
その言語への取り組みは最大級の詩人と呼ぶにふさわしく、またヴィデオクリップを思わせるコンサートの舞台演出は傑出している。これらのアーティスト性、文学性・芸術性の高さが、彼を、”ラLルプ・シーンのセルジュ・ゲーンズブール”と言わしめているのである。

上記以外のアルバムとしては、3作目『PARADISIAQUE』を1997年に、そして4作目『MC SOLAAR』を1998年にリリースしている。




〜上記Warner Music Japan 引用〜



****より詳しく知りたい方、以下参照****


『その人はきっと現れるだろう、そして現れたのだ。。。中世南仏の詩人、トロヴァドゥールの如く語彙や韻が豊富になって以来、フランス歌謡界では一見遠い存在に思われるこのラップがはやりだした。しかし、そのインスピレーションを持つだれかの到来を待っていた。そして、なんという歴史の皮肉だろうか、その人物は、セネガルを経由して、チャドからやってきたのであった。

フランスに多く存在が見られるタイプの人間であるが、彼らはフランス文化というものは常に自分たちの力で豊かにしていかないといけないと信じており、その偏狭な精神はちょっとした失敗を招いたりした。こんな話の断片も、アフリカ人であるMCソラーに我々フランス人が与えた試練である。

1969年3月5日ダカールで、チャド人である両親から生まれたクラウド・ンバラリ(Claude M'Barali)またの名をMCソラーは生後6ヵ月でパリ郊外のサンドニに来た。父親は学業を終えたのちチャドへ帰国し、看護助手である母親が彼の扶養した。

ヴィルヌーヴサンジョルジュ、ここは彼が家族と暮らしたもうひとつの郊外であるが、未来のラッパーはここで大きくなった。フットボールの才能があったようだ。学校において、彼が宿題に手間取るといったことはなく、素晴らしい記憶力のお陰で成績も良かった。

12歳で彼はエジプトのカイロに住むおじのところに行く。そこでフランス人学校に登録して9ヵ月滞在した。彼自身も言うように、そこでの日々が、フランス帰国後に彼の才能を開花させるきっかけになったようだ。バカロレアにとおった彼は、英語、スペイン語そしてロシア語の勉強をはじめる。

「そこから立ちあがれ」(Bouge de la) 彼が音楽、とりわけラップを聞くようになってから長い時間がたっている。彼の芸名だが当時の彼は大きなフェルト帽子をかぶってスプレーを持ち、壁には、SOAR、のちにSOLAARとサインをした。

1990年の夏、相棒のジミー・ジェイ[Jimmy Jay]とともに、彼はデモテープを作成した。そのなかに、かのヒット曲[Bouge de la]も収録されている。そのCDは売り出されてから、フランスのトップ50ランキングで5位の座を占め、音楽界での勝利を勝ち取った。

1991年9月、MCソラーはアメリカのラップグループであるデ・ラ・ソウルのパリ・オランピア劇場でのライブの前座を務める。91年末には、アルバムQui seme le vent recoltele tempoを発売し、400万枚が売れた。

彼の奏でるラップは音楽的で、詩から引用されたその歌詞は繊細に刻まれ、言葉遊びの要素も添えられている。MCソラーは文学の愛好家として、新聞の飽くなき愛読者であり、語彙の収集家でもあることが知られる。

1991年12月、彼はアムネスティ・インターナショナル(AI/人権擁護団体)の30周年に行われた大きなイベント「忘却に対抗する30の映像」に参加する。彼はフランスのレゲエグループ、サイサイ[Sai Sai]とともに、映画演出家、コスタ・ガブラスCosta Gavras氏による、北朝鮮の政治囚であるキム・ソン・マンKim Song Man氏の釈放を求める映画に出演した。1992年6月には、ポーランドとロシアにてツアーを敢行した。同年の12月には、西アフリカの12の国に招かれ、一連のコンサートを行う。

彼の他アーティストとの共演実績は多数にわたるる。たとえば、親友のジミー・ジェイとは93年4月にアルバムCool sessions、アメリカ人、グルとはle bien ou le malとタイトルをつけた二枚組のアルバムを同年の6月に出している。

[編集] 国境破り
94年2月に発売された彼のセカンドアルバムProse Combatは約80万枚、しかもそのうちの10万枚は10日で売れた。ラッパーとして調子が出てきた彼は、真の国際的名声を獲得した。今やCDは20カ国で入手できる。しかもその中には、フランス系アーティストが受け入れられていないアングロサクソン市場も含まれている。

二枚目の作品からは、ヒット曲Nouveau Western,そしてObsolete、さらにLa concubine delHemoglobineがシングルカットされた。こららの曲はいずれも啓蒙的であり、MCソラーの世界に対する見方がわかるものだ。

95年2月、第10回フランス音楽大賞の受賞候補として、ベスト男性アーティスト賞を与えられた。その年の終わりまでに、彼はフランス・ヨーロッパツアーを行う。1997年6月、Paradisiaqueという3枚目のソングアルバムを出し、その中でユベール・ブラン‐フランカール氏の音楽に歌詞をつける。いわゆるBoom Bass氏 やフィリップ・ザール氏のものをファンクモブにアレンジしたものでありジミー・ジェイ氏が参加していない初めてのアルバムとなった。

言葉に情熱を感じ、彼は作詞系のアーティストの仲間入りをしたかった。たとえば、ゲンズブールやラッパーでいえばtchatcheursや政治や現代社会を歌い込むNTMやIAMのようなグループに没頭した。彼にとって、ラップブームと一線を画するラップはとても重要なものなのだ。

パリのゼニスにおいて、1月9・10の二日にわたり、MCソラーは98年ツアーにのりだした。一人のDJとたくさんのダンサーに囲まれて、その歌手はとても洗練された舞台装置で、とても詩的で彼の個人的な想像に一番近い、新たなエンターテイメントを創出した。前座では幼なじみであるミュージシャンで振付家のバンビ・クルースBambi Cruzの助けを借りた。その舞台の最後は、ソラーがはじめて手がけたジュンヌレーベルのアーティスト、センティネル・ノードSentinelle Nordが飾った。

98年5月11日、MCソラーはパリ・オランピア劇場の舞台にたち、そのライブの模様を初ライブアルバムに録音した。その二日語、第51回のカンヌ国際映画祭にも彼は参加した。教養ある映画愛好家として、MCソラーは正式コンペ作品の審査員として招待されたのだ。この名誉ある任務だが、この年は審査委員長がアメリカ人映画監督マーティン・スコセッシだったことでまずます権威あるものとなった。フランス音楽界では無視できない存在として、ラップを大衆に支持される流行音楽に育てた人物としてMCソラーは容認されているのだ。

[編集] ソラーは泣く
「問題のツアー」を歌った後、2000年12月、ソラーはオフェリー・ウインター(歌手)との4年間のメディアティック恋愛に終止符を打った。そして、ソラーは新しいアルバムの製作に取り掛かる。その年の終わり、シングル「ソラーは泣く」を出し、同じ名前のサイトを作る。(www.solaarpleure.net)

アルバム「5番目のエース」は2001年4月に出た。ソラー自身でディレクターを務め、無名の作曲家、DJマック、DJクルザー、DJサンプルを起用した。歌詞に関しては、軽いダンスもの(ベビーラブやアスタラビスタ)と重いものの(コロニーや、アラカンサス)間を揺れ動いている。

ソラーは、このアルバムでたとえ自分自身の告白になろうとも硬いラップに落ち着こうとした。(一番目の曲「ソラーは泣く」のように)しかし、比類なく強く博打打ちのソラーは、他のラッパーのように硬いラッパーにはなりたくなかったし、なれなかった。

「5番目のエース」が発売されて数ヵ月後、ソラーは、フランスを巡るツアーを始めた。11月14,15, 16のゼニスで本当のショーを見せてくれた。この一連のコンサートは、ソラーの成功を完成させるものだ。「アスタラビスタ」と「RMI」の二つのシングルは、このアルバムを9月からフランスで売上トップテンに入った。ソラーは、「5番目のエース」を6ヶ月で500,000枚売った。発射台に火をつけたこのカンバックは、純粋で難解なラッパーと批判されるものの、ソラーを音楽界の偉大なフランスのアーティストにした。

[編集] その他
2002年、ソラーは「心のレストラン」を支援するコンサートのためにマルセイユで「愚か者」軍団の傍らにいる。次に、「天使の地獄」というミュージカル・コメディーの仕事をする。

当時ポリグラムの子会社で、のちにヴィヴァンディーユニバーサルとなるポリドールとの5年間の戦いは、ソラーの勝利となる。ソラーは、97年1月以後始めの4枚のアルバムはこの会社によって商業的に利用できないと宣言した。裁判所は、損害額と使用料をアーティストに支払うようにレコード会社に命じた。

「5番目のエース」は、850000枚売れ、次に新しいアルバムを出したとき、ソラーはかなりの利益を得た。「マッハ6」は、2003年12月に発売された。ブラック・ローズ・コーポレイションによって製作され、エリックKロズ&アランによる指揮の新しい16曲が収録されている。ソラーは彼らと一緒にモスクアに行き、弦楽器の部分を録音し、ヒップオップにソラーらしいよりメロディアスで洗練された様相を与えている。テキストについては、いつもの能弁さだ。ヴィルヌーヴ サン ジョルジュ界隈の人生の思い出とともにフィクションを練る。

あるタイトルは、警官の取り締まりがますます悪化している最近の経験を思い起こさせる。しかしアルバムの最初の曲名は「人生は美しい」だ。PRのためにソラーは、CD-roms300,000枚を大都市の地下鉄の出口で、無料で配った。特別なしかけのおかげで、ディスクの寿命は6日間に限定された。このキャンペーンは、海賊版の問題にたいして、世論を敏感にさせた。

ソラーは2003年12月7日にクレオ・ベンスムンと結婚して、2004年7月ロマンと名づけられた男の子の父親となった。 』



*"http://www.paris.cd/MC_SOLAAR" より作成*


追記

管理人もまだまだ彼に関して詳しくありません。ただその謎めいた感じがいいのではないかと。甘いフロウ、フランス語のライム、彼の#Obsolete 1994  でのバーバリーチェックのシャツが可愛かったという方はぜひ。

まだまだ国内では知られていないかもしれませんがお試しあれ。

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