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李箱

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詳細 2024年3月11日 08:07更新

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 ‘박제(剥製)가 되어버린 천재(天才)’를 아시오?나는 유쾌하오.이런 때 연애까지가 유쾌하오.


 욕신이 흐느적흐느적하도록 피로했을 때만 정신이 은화(銀貨)처럼 맑소.
 니코틴이 내 횟배 앓는 뱃속으로 스미면 머릿속에 의례히 백지(白紙)가 준비되는법이오.그 위에다 나는 위트와 패러독스를 바둑 포석(布石)처럼 늘어놓소.가공할 상식의 병이오.

 나는 또 여인과 생활을 설계하오.연애 기법에마저 서먹서먹해진,지성(知性)의 극치(極致)를 흘깃 좀 들여다본 인이 있는,말하자면 일종의 정신분일자(精神奔逸者)말이오.이런 여인의 반-그것은 온갓 것의 방이오-만을 영수(受領)하는 생활을 설계한다는 말이오.그런 생활 속에 한 발만 들여놓고 흡사 두 개의 태양처럼 마주 쳐다보면서 낄낄거리는 것이오.나는 아마 어지간히 인생의 제행(諸行)이 싱거워서 견딜 수가 없게 끔 되고 그만둔 모양이오.긋바이.


 긋바이.그대는 이따금 그대가 제일 싫어하는 음식을 탐식(貪食)하는 아이러니를 실천해 보는 것도 좋을 것 같소.위트와 패러독스와…….
 그대 자신을 위조하는 것도 할 만한 일이오.그대의 작품은 한 번도 본일이 없는 기성품에 의하여 차라리 경편(軽便)하고 고매(高邁)하리다.(『날개』1936)



■李箱の短編小説『翼』(1936)の冒頭


■トップ画像は具本雄が描いた李箱の肖像画

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●李箱(이상/Yi・sang/イ・サン/1910〜1937)の人と作品を語り合うコミュニティ。

●李箱は韓国で広く知られた作家であり、その名前を冠した李箱文学賞は1977年に創設され、韓国において最も権威ある現代文学に贈られる賞として知られています。

●李箱の作品は、申建の編訳による『朝鮮小説代表選集』金素雲の『朝鮮詩集』(1943年・興風館)以来、日本でも翻訳が多数出されており、近年では、長璋吉氏、高演義氏、蘭明氏、金時鐘氏らの翻訳もあります。また、多数の著作、論文でも論じられていますが、まとまったものを探すことは一般的には困難がともなうとも考えられます。このコミュニティでは、『李箱詩集』蘭明 訳編 (2004年・花神社 ・定価2625円)『李箱作品集成』崔 真碩 編訳(2006年・作品社・定価3800円)を主に使用し、読みこむことによって李箱の人と作品を味わっていきたいと考えています。無論、朝鮮語で原書で読まれている方も是非。

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【李箱紹介】

李箱(이상/Yi・sang/イ・サン/1910〜1937)

詩人・小説家。本名は金海卿。ソウル生まれ。京城高等工業学校建築科を卒業後、朝鮮総督府内務局建築科などで技師として勤務した。1930年に処女作品である長編小説『十二月十二日』を『朝鮮』に連載することで作家活動を始め、その直後に『朝鮮と建築』誌に日本語詩「異常な可逆反応」「烏瞰図」などを発表する。同年に肺結核にかかり、33年には総督府の技師を辞職。34年に金起林、李泰俊、鄭芝容らが中心となったモダニズム文学団体「九人会」に参加、同年に『朝鮮日報』に奇抜な詩「烏瞰図」を連載して読者の非難を浴びる。その後立て続けに短編小説「蜘蛛、豚に会う」(36)、「翼」(36)「逢別紀」(36)、「童骸」(37)などを発表した。日本滞在中の37年に挙動不審で検挙・拘禁され、保釈で釈放されたものの、その直後に東京帝大病院に入院、病死した。その作品は30年代モダニズムの特性を先鋭に表しており、「烏瞰図」のように不安や恐怖を主題としながら現代人の内面を描く。また小説では伝統的な様式の解体を通じて現代人の生の条件を示し、「翼」ではいかなる日常的な現実とも関係を結べない破片化し物化した現代人の疎外が示される。日本語作品を原語のまま収録した『李箱全集』全三巻(李成社、1956)や最近までの注釈作業を成果を収めた『李箱文学全集』全四巻(文学思想社、1989〜95)などがある。

■ここまでの李箱紹介は『韓国の近現代文学』(李光鎬編・尹相仁、渡辺直紀訳・法政大学出版局・2001)の人物紹介308ページよりの引用。

●wikipediaでの李箱の検索結果

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%AE%B1

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【李箱の年譜】

1910年(0歳)

陰暦八月二十日(陽暦九月二十三日)の朝、金永昌と朴世昌の長男として生まれた。本名は金海卿(キム・へギョン)で戸籍に書かれる出生地は京城府北部順化坊半井洞六号。父親は旧韓国宮内府印刷所に勤めていたが、仕事中に指を三本切ってしまい、印刷所をやめて理髪店などを経営した。母親は孤児だったという。本貫(祖先の地)は江陵金氏。

1912年(二歳)

伯父の金演弼(キム・ヨンピル)の家(通仁洞百五十四番地)に養子に出される。李箱は本籍地であるこの家で二十年以上生活する。伯父は平北慈城の普通学校の訓導。後に朝鮮総督府商工科の下級官吏となった。伯父の経歴は京城高工に進学したり朝鮮総督府に就職した、李箱の経歴にある程度の影響を与えているように思われる。

1916年(六歳)

李箱が自分を理解してくれるたった一人の人間であるといった妹の玉姫(オッキ)が生まれる。

1917年(七歳)

楼上洞にある新明学校(四年制)に入学。このときから模写などを始める。色白で体操を嫌う少年であったという。

1921年(十一歳)

新明学校を卒業(四年生)し、朝鮮仏教中央教務院が経営する東光学校に入学。成績はずっと優秀であった。

1924年(十四歳)

四月、東光学校が普成高等普通学校に合併され、四月に編入する。このときから、絵描きの天賦があらわれ、二十五年(十五歳)には校内の美術展に油絵「風景」を出展し、優等賞を受賞する。普成高等普通学校には李箱の親友である金起林も通っていた。

1926年(十六歳)

普成高等普通学校を卒業し、東崇洞にある京城高等工業学校建築科に入学する。合格者計十二名中、京城高工で唯一の朝鮮人学生として三年間席次一位であった。京城高工とは、当時の朝鮮では美術を学ぶにもっとも恵まれた環境であった。このときから美術部で絵画に没頭する。

1927年(十七歳)

京城高工文芸回覧誌『難破船』を編集する。表紙のデザインも目次も自ら作り、文章も発表していた。

1929年(十九歳)

京城高等工業学校第八回生として卒業し、四月から朝鮮総督府建築課技手として勤務しはじめる。俸給は五十五円。十一月に官房会計課営繕係りとして異動。十二月七日朝鮮建築会誌『朝鮮と建築』の表紙図案懸賞公募に応募し、一等と三等に入選する。以後、結核の悪化による体調不良のため辞職する三十三年まで勤めた。京城高工を卒業するとき、李箱自ら装丁と編集を担当した朝鮮人学生十七名のための卒業アルバムに、すでに李箱という名前が明記されている。

1930年(二十歳)

処女作長編小説『十二月十二日』を『朝鮮』(二月〜十二月号)に連載する。結核を患っていた李箱はこの年に最初の喀血をする。

1931年(二十一歳)

「甫山」というペンネームで小説「休業と事情」を『朝鮮』(四月号)に発表。日本語詩『異常な可逆反応』『烏瞰図』『三次角設計図』をそれぞれ『朝鮮と建築』の七号・八号・十号に発表。朝鮮美展(第九回)洋画部門に「自画像」を出展し、入選。

1932年(二十二歳)

『朝鮮と建築』表紙懸賞公募に応募し、四位で入賞。『朝鮮』三月号に「地図の暗室」を発表。『朝鮮と建築』七号に『建築無限六面角対』を発表。伯父金演弼が脳溢血により死去。

1933年(二十三歳)

結核のために朝鮮総督府を辞職し、画家具本雄(グ・ポンウン)と黄海道白川温泉に療養に行く。そこで「翼」や「逢別記」などにも登場する妓生、錦紅(クモン・本名は蓮心・ヨンシム)と出会う。同年伯父の一周忌のために京城に戻った李箱は、七月から鐘路にて喫茶店「燕」(チェビ)を経営する。その後、錦紅をマダムとして迎え、二人は以後、三年間同居生活をした。李箱は、喫茶店を経営するかたわらで創作活動を行う。李泰俊、朴泰遠、金起林をはじめとする文学サークル「九人会」のメンバーが「燕」に出入りするのをきっかけに、文壇の交友が始まる。

1934年(二十四歳)

「九人会」に参加する。李泰俊の紹介で『朝鮮中央日報』に『烏瞰図』を七月二十四日から八月八日まで連載するが、読者からの抗議により中止される。「河戎」というペンネームで朴泰遠の「小説家仇甫氏の一日」(『朝鮮中央日報』八月一日〜九月一日)の挿絵を書く。

1935年(二十五歳)

錦紅とともに喫茶「鶴」「69」「むぎ」を経営するが失敗した。この前後から錦紅は家出をくり返す。私生活においては、ちょうどこの頃、「鶴」の女給である権純玉をめぐって鄭人澤と三角関係になる。鄭人澤の自殺未遂騒動の後、李箱の司会で鄭人澤と権純玉が結婚することになった。李箱はこの時の出来事を「幻視記」の題材としている。八月、普成高等普通学校時代の同級生の故郷である平安南道成川(ソンチョン)に旅行し、一ヶ月を過ごす。この時の成川行きが後に「山村余情―成川紀行中の幾節」(『毎日申報』九月二十七日〜十月十一日)や「倦怠」(『朝鮮日報』一九三七年五月四日〜十一日)の題材となった。

1936年(二十六歳)

具本雄の父親が経営する出版社、彰文社に就職して「九人会」の同人誌『詩と小説』(創刊号三月)を編集する。この同人誌は一集で終わった。六月、具本雄の庶母の妹卞東琳(ビョン・ドンニム)と結婚し、笠井町で同居する。十月、「翼」を発表した翌月に、李箱は新天地を求めて生まれて初めて東京に行く。東京神田区神保町三丁目一0一の四、石川方に寄宿する。「蜘蛛、豚に会う」「翼」「逢別記」「童骸」などの作品を含め李箱はこの年もっとも精力的に創作活動をした。

1937年(二十七歳)

「不逞鮮人」として日本警察に検挙され、思想犯の嫌疑を受けて二月十二日から三月十六日まで西神田警察署に拘禁される。持病である結核の悪化のために病保釈で釈放される。東京帝大付属病院に入院、妻卞東琳が東京へ向かう。四月十七日午前四時に「千疋屋のメロンが食べたい」と言って死去した。享年二十六歳七ヶ月。卞東琳は遺骨を受け取り、五月四日に帰国。親友たちが集まったところに同年三月二十九日同じ肺結核で死去した金裕貞と合同告別式を行い、六月十日彌阿里(ミアリ)共同墓地に埋葬した。東京で李箱は、「終生記」「失花」「倦怠」「東京」などの作品を書き残し、それらは死後に遺稿として出版された。

■ここまでの李箱の年譜は『李箱作品集成』崔 真碩 編訳(2006・作品社)329ページ〜332ページよりの引用。

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【李箱作品年譜】

1930年
『十二月十二日』(小説、『朝鮮』二月〜十二月号)
1931年
「休業と事情」(小説、『朝鮮』四月号)「過剰ナ可逆反応」『烏瞰図』『三次角設計図』(詩、『朝鮮と建築』七号・八号・十号)
1932年
「地図の暗室」(小説、『朝鮮』三月号)
1933年
「一九三三・六・一」「花木」「このような詩」「鏡」(詩・『カトリック青年』二号・五号)
1934年
「普通記念」(詩、『月刊毎申』六月号)「血書三態」(随筆、『新女性』六月号)『烏瞰図』詩第一号〜第十五号(詩、『朝鮮中央日報』七月二十四日〜八月八日)「杖の轢死」(小説、『月刊毎申』八月号)「素栄為題」(詩、『中央』九月号)
1935年
「現代美術の揺籃」(随筆、『毎日申報』三月十四日〜二十三日)「正式」?〜?(詩、『朝鮮中央日報』九月十五日)「紙碑」(詩、『朝鮮中央日報』九月十五日「山村余情―成川紀行中の幾節」(随筆、『毎日申報』九月二十七日〜十月十一日)
1936年
「詩碑」一、二、三(詩、『中央』一月号)「社会よ、文壇にも一顧を送れ」(随筆、『朝鮮中央日報』一月六日)『易断』(詩、『カトリック青年』二月号)「街外街伝」(詩、『詩と小説』創刊号、三月)「西望栗島」(随筆、『朝光』三月号)「早春点描」(随筆、『女性』四月号)「明鏡」(詩、『女性』五月号)「私が好きな花草と私の家の花草」(随筆、『朝光』五月号)「薬水」(随筆、『中央』七月号)「EPIGRAM―誰も知らない私の秘密」(随筆、『女性』八月号)「美しき朝鮮語」(随筆、『中央』九月号)「翼」(小説、『朝光』)九月号)「秋の探勝所」(随筆、『朝光』十月号)「幸福」(随筆、『女性』十月号)『危篤』(詩、『朝鮮日報』十月四日・六日・八日・九日)「秋燈雑筆」(随筆、『毎日申報』十月十四日〜二十八日)「逢別記」(小説、『女性』十二月号)
1937年
「童骸」(小説、『朝光』二月号)「黄牛と鬼(トッケビ)」(童話、「毎日申報」三月五日〜九日)「十九世紀式」(随筆、『三四文学』四月号)「恐怖の記録」(小説、『毎日申報』四月二十五日〜五月十五日)「倦怠」(随筆、『朝鮮日報』五月四日〜十一日)「終生記」(小説、『朝光』五月号)「破帖」(詩、『子午線』一号、十一月)
1938年
「正式?〜?」(詩)「幻視記」(小説)(『青色紙』六月号)*「正式」は『カトリック青年』一九三五年四月号の再収録。「文学と政治」(随筆、『四海公論』六月号)
1939年
「無題」(詩、『獏』二月号)「失樂園」(随筆、『朝光』二月号)「失花」(小説、『文章』三月号)「断髪」(小説、『朝鮮文学』四月号)「金裕貞―小説体で書いた金裕貞論(小説)「病床以後」(随筆、『朝鮮文学』五月号)「東京」(随筆、『文章』五月号)
1943年
「蜻蛉」「一つの夜」(詩、『朝鮮詩集』金素雲訳、八月)
1956年
「自画像」(『平和新聞』三月二十日)「隻脚」「距離」「囚人の作った箱庭」「肉親の章」「内
科」「骨片ニ関スル無題」「街衢ノ寒サ」「朝」「最後」(詩、『李箱全集』林鐘国編、七月)
1960年
「遺稿」「一九三一年」(以上詩)「僅かの弁解」(随筆)(『現代文学七一号』、十一月)「暮色」「この子たちに玩具を与えよ」「遺稿」(随筆、『現代文学』七二号、十二月)
1961年  
「靴」「愚かな夕飯」(随筆、『現代文学』七三号、一月)
1966年
「悔恨ノ章」(詩)「哀夜」(以上随筆)(『現代文学』一三九号、七月)
1967年
「断章」「習作ショーウィンドウ数点」「無題」(詩、『現代思想』四五号、六月)「不幸なる継承」(小説)「初めての放浪」「喀血の朝」(以上随筆)「與田準一」「月原橙一郎」(以上詩)(『文学思想』四六号、七月)
1977年
「無題」(詩、『文学思想』五五号、四月)「散策の秋」(随筆、『文学思想』五九号、八月)
1986年
「恐怖の記録(序章)」「恐怖の城砦」「夜色」「断想」(随筆、『文学思想』一六九号、十月)

■ここまでの李箱の作品年譜は『李箱作品集成』崔 真碩 編訳(2006・作品社)333〜336ページよりの引用。

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2007年12月30日

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