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佐野元春サークル

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詳細 2016年5月20日 13:49更新

佐野元春をこえよなく愛する人のコミュニティーです。
みんなで若き日を語りませんか?これからファンになる人もいるでしょう!大歓迎です。
[編集] 経歴
立教高等学校(現:立教新座高等学校)、立教大学社会学部卒業。血液型はB型。大学在学中に「スパイ」でブレイクする佐藤奈々子とユニットを組む。大学卒業後は広告代理店のJ・ウォルター・トンプソンに就職するも、研修期間中の4月に退社。その後、東宝系列の広告会社東宝アドに勤務。ラジオ番組のディレクターを勤める。バブルガム・ブラザーズのブラザー・コーンとは中学校の同級生。

1980年にEPIC・ソニーのレーベルプロデューサー小坂洋二に才能を見出されメジャーデビュー。日本語でのロックは可能かが真剣に議論されていたこの時代、疾走感にあふれたビートに言葉を詰め込んだ曲作りは当時の音楽シーンに大きな衝撃を与えた。その後も社会的メッセージを込めた曲作り、ラップ・ポエトリーリーディングなどの新しい手法、インターネットを通じた活動など先駆的な活動を続け、音楽界に大きな影響を与え続けている。


[編集] プロフィール
中学生時代から、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ランディ・ニューマン、トム・ウェイツなどを愛好。音楽のみならず、彼らの歌詞の内容からも大きな影響をうける。
1974年、「バイバイCボーイ」でヤマハのポプコンの関東・甲信越地区代表に。間奏にホルン二重奏を配した斬新なアレンジだったが、「つま恋本選会」は入賞せず。
1977年、佐藤奈々子のアルバム「Funny Walkin'」、「Sweet Swingin'」に作曲家として参加。これらの作品で佐野は、奈々子とともに、ランディ・ニューマン、マリア・マルダーやダン・ヒックスらのバーバンク・サウンドを髣髴とさせるような、ジャジーでドリーミーなグッド・オールド・タイム・ミュージックの世界観を作り上げている。
1978年ヤマハのポプコンに出場。「Do What You Like―勝手にしなよ」で最優秀作詞賞を受賞。
1980年3月21日、当時のEPICソニーレコードからシングル『アンジェリーナ』でレコードデビュー。疾走感に溢れたビート、斬新な言語感覚など「日本語によるロック」の新しい方向性を提示した曲であるが、当時はまだ一部のファンと業界関係者にしか受け入れられなかった。所属事務所がヤングジャパン(ニューミュージック界の大手事務所)だったため、アリス、岸田智史等のオープニングアクト(前座)をつとめるなど、苦労を重ねる。最初のライヴはこの年、東京・名古屋・大阪を廻ったクリストファー・クロスのツアーの前座だった[1]。4月21日、1stアルバム「Back To The Street」を発表。ロックンロール、バラッド、ジャズなど様々な音楽ジャンルを網羅し、その後の多彩な音楽性の片鱗がすでに現れている。8月から約1年間、新宿ルイードを拠点に活動を行う[2]。
1981年2月25日、初期の代表作である「ガラスのジェネレーション」「ハートビート」や、現在でもライブの定番曲となっている「君をさがしている」を収録した2ndアルバム『HEART BEAT』発表。4月からNHK-FMで音楽番組「サウンドストリート - 元春レィディオショー」のディスクジョッキーを担当、以降、87年3月まで続ける。5月には結成したばかりのバンド「ザ・ハートランド」を率いて、ホールクラス級の全国ツアーを行う。6月25日、代表作の一つとなるシングル「SOMEDAY」をリリース。
1982年1月から半年におよぶ全国ツアー「Welcome To The Heartland Tour」(全41公演)を開始。3月、大瀧詠一、杉真理と『ナイアガラトライアングルVOL2』を発表。シングルカットされた「A面で恋をして」は化粧品のCMに使用されスマッシュヒットとなる。
1982年5月、初のセルフプロデュースのアルバム『SOMEDAY』をリリース。オリコンアルバムチャートで4位を記録。商業的にも成功したこのアルバムで、「都市に暮らす少年少女」を描くという初期のスタイルを完成させる。前ツアーからほとんど間を開けず、9月から渡米直前の1983年3月までコンサートツアー『Rock & Roll Night Tour』を全国40ヶ所で行い、大きな反響を起こした。このツアーを観た吉川晃司や尾崎豊等、多くのミュージシャンが感銘を受けたと語っている[3]。ツアーの最終公演である東京・中野サンプラザのステージで、突然のニューヨーク行きを発表。
1983年単身渡米。この時はそもそも、「音楽業界をまるごと革命するために、ビジネスマンたちと同じ能力、スキルを見につけないと」という考えての、渡米であった[4]。ニューヨークでアパート生活をしながらクラブシーンなどに交遊関係を築き、現地のミュージシャンとともに新曲をレコーディング、のちにアルバム『VISITORS』として完成する。ちょうどこの時期にラップ・ミュージックの誕生を間近で目撃することになった。ニューヨークでの生活の様子は自身の番組「元春 RADIO SHOW IN NEW YORK」でよく語られていた。なお渡米中に編集盤『No Damage』がオリコンで1位を記録し、本人不在ながらも日本国内では佐野元春ブームが起き、ロックファン以外にもその名が浸透する。
1984年帰国。渡米中に制作したアルバム『VISITORS』を5月にリリース。オリコンで1位を記録する。冒頭の「コンプリケーション・シェイクダウン」を含む数曲でラップを取り入れ、当時の音楽業界に大きな衝撃を与えた。これはメジャーレーベル系・ミュージシャンとしては初の日本語ラップと言われており、現在も国内ラップミュージシャンから大いにリスペクトを受けている。佐野はコンサートツアー『VISITORS TOUR』を全国で展開するが、チケット申し込みの電話回線がパンクする事件がおきるほどの人気を博した。この年、松田聖子の「ハートのイアリング」を作曲。そのときのペンネーム「Holland Rose」は、佐野がDJを務めるラジオ番組に小学生リスナーが送ってきたリクエストハガキで「ホール&オーツ」を間違えてホーランドローズと書いていた微笑ましいエピソードをヒントに付けたという。
1985年2月、国際青年年のテーマ曲として「Young Bloods」が発表される。渡米期間中におこったMTVの人気に影響を受け、プロモーションビデオを制作。佐野自身初のトップ10ヒットとなり、印税をアフリカ難民救済のチャリティーとして寄付するなどで話題を呼んだ。5月、音楽に載せた自作詩の朗読(ポエトリー・リーディング)と詩集・写真集などを併せたカセットブック『ELECTRIC GARDEN』を小学館から発表。7月、LIVE AIDに日本代表として参加。
1986年 プライベートレーベル「M's Factory」を立ち上げる。責任編集の雑誌「THIS」を扶桑社より発刊するなど多岐にわたるメディア活動を展開。「Young Bloods」を含むアルバム『Cafe Bohemia』を発売。「冒険者たち(Wild Hearts)」「奇妙な日々(Strange days)」などシングルカットされTOP10入りを果たす。
1988年、ライブアルバム「Heartland」を発売、オリコン1位を記録。初期の曲もアレンジを変えて加えられている。原子力発電所の建設反対を訴え、シングル「警告どおり計画どおり」を発売。アルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」のレコーディングのため渡英。ブリンズレー・シュウォーツ、ピート・トーマス等、パブロック周辺のミュージシャンとのセッションを行う。
1989年、アルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」発売。シングル「約束の橋」発売。
1990年、デビューからのシングル曲とカップリング曲一部を収録した「MOTO SINGLES」を発売。アルバム「TIME OUT!」発売。素朴な音作りの曲が並んだ。オノ・ヨーコと子息のショーン・レノンとで「エイジアン・フラワーズ」をレコーディングし、12月にはオノ・ヨーコの提唱によって行なわれたイベント「Greening Of The World(G・O・W)」で共演。
1991年、過去のバラードの再アレンジも含めたアルバム「Slow Songs」発売。
1992年、2年ぶりのオリジナルアルバム「SWEET16」を発売、明快なロックが詰まったこのアルバムは日本レコード大賞の優秀アルバム賞を受賞。またドラマ主題歌に「約束の橋」が選ばれたことから、カップリングに「SWEET16」を伴って再リリース、オリコン4位を記録。急遽、「VISITORS」以降「約束の橋」を含むヒット曲の詰まった「No Damage 2」を発売。
1993年、アルバム「The Circle」発売。「RAIN GIRL」はトヨタ・カルディナのCMに使われ、佐野自身もCMに登場した。シングル「彼女の隣人」もコンビニのCMに使用される。
1994年、長年苦楽を共に歩んできた自身のバンド「THE HEARTLAND」を解散させる。9月に解散ライブを横浜スタジアムで行う。
1995年3月、神戸震災の被災者チャリティ・コンサートに出演。3月13日にはインターネット時代の本格到来に先駆けて国内初のアーティスト・ホームページMoto's Web Serverを開設。以降インターネットを通じて音楽流通やプロモーションの新しい形を提示。
1996年1月、自身の新しいバンド「INTERNATIONAL HOBO KING BAND」を結成(その後何度か改名の後「THE HOBO KING BAND」という名称に落ち着く)。年初に「INTERNATIONAL HOBO KING Tour」を行い、7月にはアルバム「Fruits」を発売。このアルバムはミュージック・マガジン誌で年間ベストアルバムNo.1に選出された。9月から年末にかけて「Fruits Tour」を、12月には日本武道館、大阪城ホール、横浜アリーナにて「FruitsPunch」を敢行。日本武道館では国内初のインターネット・ライブ中継を行う。また8月には、グルーヴァーズ、川村かおり、GREAT3、ヒートウェイヴ、プレイグスらにより、佐野のトリビュートアルバム「BORDER」が制作・発売された。同じく8月に、ロック・イベント「THIS!」を東京・赤坂BLITZで主催。優秀な新人のショーケース・ライブとして、1998年まで3回開催した。
1997年、夏にHobo King Bandとともに渡米。ジョン・サイモンをプロデューサーに迎え、ウッド・ストックにてアルバム「The Barn」を製作し、12月に発表した。ガース・ハドソン、ジョン・セバスチャン、エリック・ワイズバーグらがゲスト参加したこのアルバムは、その完成度もさることながら、ザ・バンド等のアメリカン・ロックに対するリスペクトの念に溢れたものであり、そうした姿勢は音楽評論家筋から高く評価されることになった。
1998年、1月から4月にかけて、「The Barn Tour」を行う。3月29日の大阪フェスティバルホールでのライブでは、ジョン・サイモンとガース・ハドソンが来日、ゲスト参加した。8月、国内初の有料インターネットライブ「The Underground Live」を開催。12月、シングル曲「イノセント」がソニー・ミュージックエンタテインメントより国内初の有料音楽ダウンロードとして販売。
1999年8月、アルバム「Stones and Eggs」を発表。「GO4 Impact」でのDragon Ash降谷建志とのコラボレーションが話題となった。
2000年、1月にコンピレーション・アルバム「The 20th Anniversary Edition 1980-1999 his words and music」、11月に「GRASS The 20th Anniversary Edition's 2nd」を発売。また、9月にはこれまで発表された主要なクラブ・ミックス・ヴァージョンを集めたコンピレーション「Club Mix Cllection 1984-1999」を、12月にはこれまでに発表されたスポークン・ワーズ作品を集めた編集版「Spoken Words Collected Poems 1985-2000」を発売し、この頃から自身の過去の作品のリイシューにも力を入れていくことになる。
2001年3月、坂本龍一の呼びかけの元、地雷廃絶を訴えるキャンペーンに参加。TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。坂本龍一氏による地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」の制作にも参加する。9月11日に勃発したアメリカ同時多発テロに衝撃を受け、「光―The Light」を書き下ろす。この曲は、9月18日〜30日に佐野の公式ウェブ・サイトで無料ダウンロードというかたちでネット配信され、10万件近くのダウンロードを記録した。9月21・22日に、井上鑑らとスポークンワーズライブ「In Motion 2001-植民地の夜は更けて」を行う。
2002年、5月に「Someday Collector's Edition」を発売。
2003年、エピックレコードジャパン25周年記念イベント「LIVE EPIC 25」に参加。
2004年 デビュー以来所属していたEPICレコードを離れ、プライベートレーベル「Daisy Music」を立ち上げる。同レーベルからの第1弾アルバムが『The Sun』である。
2005年9月、埼玉県狭山市で開催されたハイド・パーク・ミュージック・フェスティバル2005に参加。
2006年11月4日 Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2006に出演し、ビートルズの「カム・トゥゲザー」を歌う。
2007年6月13日 アルバム『Coyote』発売。9月、立教大学文学部客員講師に就任(2007年度後期「文学講義412〜詩創作論2〜」: ポエトリー・リーディング)。(-2008年2月)。12月、小田和正の「クリスマスの約束2007」に出演。
2008年1月22日から3月29日まで、全国22公演のライブツアー「Sweet Soul Blue Beat」をTHE HOBO KING BANDと行う。

[編集] 人物像
ボソボソとした口調で淡々と平板な、それでいてリズミカルな独特の語り口で、若手ミュージシャンにものまねされることが多い。インタビューなどで『.....そうだね...』と答えるのが口癖。一方で、「個性を全面に出して無理に盛り上げる」口調のミュージシャンが多い中、佐野の「テンションが低くて聞きやすい」話しぶりは、ラジオDJとしては、最適でもある。
誕生日は、エルビス・プレスリーのデビューアルバム「ELVIS PRESLEY」の発売日と同じ日である。
少年時代は、夢と現実の区別があまりはっきりしない情緒不安定な子供だった。
高校時代、家出をし横浜で暮らしていたことがある。
「クリスマス・タイム・イン・ブルー」の、自ら書いたライナーノートでは「クリスマスといえば、パーティでピアノを弾いて演奏するだけで、楽しい思い出はない」とある。
基本的にテレビに出演することは少ないが、そこで繰り出される独自の視点でのトークは非常に印象的でHEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMPに出演した時はダウンタウンの松本人志に(トークについていけないので)「佐野さんホンマ勘弁してくださいよ」と泣きを入れられた。
この時、海岸を散策していた時に佐野を遠くから見つめる野生動物に向かって「こっちへ来いよ」と呼びかけたことをダウンタウンに激しく突っ込まれ、年末の特番では「動物愛護賞」を授与されていた。
再度同番組に出演した際には「時々、何突っ込まれているのかわからない時がある」と言い放ち、松本・浜田をコケさせた。
2006年から2007年9月まで、DonDokoDonの山口智充が司会を務める「MusiG」(よみうりテレビ製作・日本テレビ系)にて、レギュラー出演をしている。2007年、佐野と山口、山本耕史の3人によるユニットThe Whey-hey-hey Brothersを結成し、1枚のシングルを出した。
インターネットに対する意識が高く、1995年には早くもオフィシャルサイトを開設。日本では最も早くウェブサイトを持ったアーティストの一人となった。ネット経由での作品販売などに関しても先駆的な取り組みを見せている。
『SWEET16』は、日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞した。しかし、本人がこのことを知ったのは、受賞から2年後。マネジメント事務所の隅にひっそりと置いてあったトロフィーを見てはじめてその事実に気づいたという。
エピックレコードの全盛期、同レーベルの大ボスとして、同所属歌手(渡辺美里や大江千里など)から敬意を表されている。渡辺美里は自身のインタビューが編集者によって編集されて、自身の発言とまったく違った言葉が雑誌に載っていたことを悲しみ、佐野にその事を告げると、「あっ、そういう事がこれからあったら僕に言って」と渡辺美里に話したと言う。後輩のよき相談相手でもあったようだ。
スポーツ界にも佐野を支持する人が多く、松井秀喜、野茂英雄、吉井理人、武豊は佐野のファンであることを公言している。
株式会社ロッキング・オン社長の渋谷陽一は、ROCKIN'ON JAPANを刊行する際「第一号の表紙は絶対に佐野元春しかいないと思っていた」と語っている。一方で渋谷は、デビュー前の佐野に教育的見地からの苦言を呈してもいる(『ロックは語れない』新潮文庫)。
「霧の中のダライラマ」の曲名が示すとおり「チベット自由と人権の集い」に賛同者として名を連ねており、中国によるチベット侵略に抗議しチベット民族に対する人権侵害に反対している。
2007年の著書『ビートニクス』は、佐野の愛好するビート派の作家・詩人たちについての本である。ジャック・ケルアックが旅した地を再訪した文章や、アレン・ギンズバーグ、グレゴリー・コルソ、ゲイリー・スナイダーへのインタビュー等が収録されている

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2007年9月23日

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