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張学良

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詳細 2023年8月14日 07:18更新

獅子座奉天軍閥(東北軍閥)の首領

1901年06月03日
遼寧省海城生まれ。字は漢卿。
1904年02月06日【日露戦争】
1905年09月05日【ポーツマス条約】
1911年10月10日【辛亥革命】   
1915年
第27師師長(第27师师长)
1916年06月06日(袁世凱 歿)
1916年07月(張作霖、奉天督軍 兼 奉天省長に就任)
1918年09月(張作霖、東三省巡閲使に就任)
1919年(張作霖、東三省全域を支配下に置く)
1919年3月
東三省陸軍講武堂第一期砲兵科に入学(7月卒業)
1919年7月「カラハン宣言」(ソ連が東支鉄道以外の利権を返還)
1919年7月17日
陸軍砲兵上校(陆军炮兵上校)
1919年12月
奉軍第三混成旅第二団団長(奉军第三混成旅第二团团长)
1920年
巡閲使署衛隊旅長(巡阅使署卫队旅长)
1920年07月(張作霖、蒙彊経略使を兼務)
1920年07月14日【安直戦争】(直皖戦争)
1920年10月
奉軍第三混成旅旅長(奉军第三混成旅旅长)
1922年04月28日【第1次奉直戦争】 
1922年05月
東三省陸軍整理処処長(东三省陆军整理处处长)
東三省陸軍航空処総裁(东三省陆军航空处总裁)
奉軍第二旅旅長(奉军第二旅旅长)
1922年05月12日(張作霖、東北保安司令を自称して東三省の独立を宣言)
1922年06月(北京政府、張作霖の奉天督軍 兼 奉天省長の職を剥奪)
1923年01月(奉天省庁・王永江が満鉄野村正課長に「奉海線」建設の希望を伝える)
1924年05月31日(中ソ国交樹立)
1924年09月
奉軍第三軍軍長(奉军第三军军长)
1924年09月15日【第2次奉直戦争】 
1924年09月20日「奉ソ協定」東三省自治政府がソ連の東支鉄道利権を承認
1924年10月23日【北京政変】(馮玉祥、曹錕を幽閉)
1924年11月5日(馮玉祥、溥儀を紫禁城から追放)
1925年03月12日(孫文死去)
1925年07月(「奉海線」建設開始)
1925年10月16日【浙奉戦争】(奉天軍閥と孫伝芳との争い)
1925年11月22日【郭松齢の反乱】 
1925年11月28日(郭松齢の反乱軍、山海関を占領)
1925年12月07日(郭松齢の反乱軍、錦州を占領)
1925年12月08日(関東軍、郭松齢に警告)
1925年12月25日(郭松齢処刑)
1926年07月06日(国民政府、『北伐宣言』)
1926年07月09日(蒋介石、国民革命軍総司令に就任)
1926年09月17日(馮玉祥、国民革命軍に参加)
1926年10月10日(国民革命軍、「武昌」攻略)
1926年11月01日(国民革命軍、「南昌」攻略。孫伝芳軍主力壊滅)
1926年11月(張作霖、孫伝芳(東南軍閥)や張宗昌(山東軍閥)らと共に安国軍を組織)
1926年12月01日(張作霖、安国軍総司令に就任)
1927年04月12日【上海クーデター】 
1927年05月28日【第1次山東出兵】 
1927年06月18日(張作霖、北京で安国軍政府樹立。陸海軍大元帥と称する)
1927年06月27日【東方会議】
1927年07月25日(張作霖、米国鉄道王ハリマンの協力により鉄道「奉海線」を開通させる)
           奉天−海龍
          →「満鉄併行線建設禁止条約」違反危険・警告
安国軍政府陸軍大将(安国军政府陆军大将)
1928年04月19日【第2次山東出兵】 
1928年05月03日【済南事件】 
1928年05月08日【第3次山東出兵】 
1928年05月30日(張作霖、全軍に北京総退却を命令 6月3日北京を出発)
1928年06月04日(張作霖、皇姑屯付近で列車もろとも爆破される)
1928年06月08日(国民革命軍、北京に無血入城 北京→北平と改称)
1928年07月02日
安国軍政府東三省保安総司令(安国军政府东三省保安总司令)
1928年08月19日
安国軍政府東北大学校長(安国军政府东北大学校长)
1928年10月08日
国民政府委員(国民政府委员)
1928年12月29日
易幟
1929年01月04日
東北辺防軍司令長官(东北边防军司令长官)
東北政務委員会主席(东北政务委员会主席)
1929年01月10日 
楊宇霆を麻雀に誘い、やって来たところを刺客・高紀毅に射殺させる。
1929年01月23日
首都建設委員会委員(首都建设委员会委员)
1929年01月31日
財政委員会委員(财政委员会委员)
1929年05月27日
東三省特別区警察を通じてソ連総領事館を襲撃させる
1929年07月17日(ソ連、中国に国交断絶を通告)
1929年08月16日(ソ連軍、満州里周辺で越境、ジャイライノールを攻撃)
1929年10月24日(米ウォール街、株価大暴落)
1929年11月17日(ソ連軍、満州里・牡丹江・ジャライノールを爆撃)
1929年11月21日(ソ連軍、ハイラルに進駐)
1929年12月12日「ハバロフスク協定」(中ソ紛争の解決)
1930年10月09日
中華民国陸海空軍副総司令(中华民国陆海空军副总司令)
1930年11月15日
国軍編遣委員会常務委員(国军编遣委员会常务委员)
1931年02月09日
禁煙委員会委員(禁烟委员会委员)
1931年07月【万宝山事件】 
1931年09月18日【柳条湖事件】
1931年09月26日
全国経済委員会委員(全国经济委员会委员)
1931年11月12日
財政委員会委員(财政委员会委员)
1931年12月16日
北京綏靖公署主任(北京绥靖公署主任)
1932年01月【第一次上海事変】 
1932年01月29日
軍事委員会委員(军事委员会委员)
1932年08月19日
軍事委員会北平分会(代理)委員長)(军事委员会北平分会(代理)委员长)
1933年04月
ヨーロッパ外遊(翌1月迄)
1933年05月31日「塘沽停戦協定」
1934年03月01日
鄂豫皖三省剿匪総司令(鄂豫皖三省剿匪总司令)
1935年04月
自ら飛行機を操縦し西安に楊虎城を訪問
1935年08月「八・一宣言」(中国共産党)
1935年10月02日
西北剿匪総司令部副総司令(西北剿匪总司令部副总司令)
1935年11月
中国国民党中央委員
1936年10月
洛陽で蒋介石に連共抗日を訴え拒否される
1936年12月07日
華清池で蒋介石に連共抗日を訴え拒否される
1936年12月11日
再び華清池で蒋介石に連共抗日を訴え拒否される
1936年12月12日【西安事件】 
1936年12月25日
軟禁した蒋介石を解放。
1936年12月31日(張学良に対する軍法会議、懲役10年、公民権剥奪5年の判決)
1937年01月
特赦されるも淅江省渓口に移され、軟禁生活始まる。
1946年06月 国共内戦開始
1949年10月 中華人民共和国成立
1949年12月 蒋介石ら台湾へ
1954年05月 張学良、18年ぶりに蒋介石と会見
1975年04月05日 蒋介石死去
1990年12月10日 張学良、NHKの取材受ける 磯村尚徳と対談
1991年
釈放
1995年
ハワイに隠棲
2001年10月14日
歿


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

張 学良(ちょう がくりょう)は中国の軍人・政治家。字は漢卿。張作霖の長男として遼寧省に生まれた。

■人物

1901年張学良は当時満州地方の馬賊だった張作霖の長男としてうまれた。母親のことはよくわからないが、張学良が10才のときに亡くなったようである。張作霖に可愛がられ、大勢の家庭教師がつき高い教養を身につけた。

1919年3 月、父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の一期生として入学。若いころから記憶力がよく、300名以上の学生の姓名、出身地、字を暗記していた。また、試験で一番を取ったので父親との関係(当時張作霖は事実上の満州王であり、学良はいわば王子様)で不正をしていると疑われたが、生徒の席同士を離してカンニングできないようにしてから試験を行った結果、ようやく実力を認められたという。しかし私生活は不品行で、アヘンや酒色にふけるなど、遊蕩の生活を送っていたという。また、昭和天皇と同年生まれで、20歳の時来日したが、当時皇太子であった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという。初めは人を救う医者になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後述のNHKの取材で述べている。

■武官時代

1920年東三省講武学堂を卒業し、軍人としての道を歩み始める。満州の奉天軍閥、張作霖の長子として父と共に大日本帝国に協力的であった。1920年に安直戦争が勃発すると弱冠19才の張学良は軍を率いて直隷派の救援に向かい、側近の郭松齢の補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、1922年の第一次奉直戦争、1924年の第二次奉直戦争でも活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。やがて郭松齢が処刑されると彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。

■奉天軍閥

関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件(満州某重大事件、1928年6月4日)により、張作霖が死亡すると張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、父の領土満州を継承した。当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事、政治の不干渉を認めさせ所領の独立を保つことに成功する。日本は林権助を派遣して説得したが、翻意させることはできなかった。こうして日本から反感をかってしまったが決定的な対立には至らぬように工作し日本を軟化させた。1929年1月、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものにした。

張学良は富国強兵策をとり軍事、金融、教育などの近代化をすすめた。彼は次第に自信を深め1929年8月にはソビエト連邦が持っていた東中国鉄道を接収したことをきっかけに、武力衝突を起こして大敗したが、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸ばし河北省を接収し、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。

■満州事変

1931年にはいると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。張学良はこれらの面倒な問題に関わることを嫌い、愛人と北京での堕落した生活を望んだ。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときもいつもの軍事演習だと決めつけ、何の対策も取らなかったという。

満州事変が勃発したとき彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると満州からの撤収を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したと当人はNHKの取材で述べている。単に勝てないと判断したからという説もある。また、アヘン中毒を理由に彼の指揮能力を疑う論者もある。

いずれにせよ、日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった(この時期蒋介石は下野していたが、蒋の意向も同じであった)。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕がなかったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかったためである。ところが、日本は満州全域を占領したので、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。そのため、一時期職を辞してアヘン中毒の治療に専念し、さらに欧州を外遊していた。イタリアのムッソリーニやドイツのゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。

■西安事件

1934年張学良は帰国すると共産軍討伐副司令官に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。1935年、西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。11月末、共産党は張学良に反日共闘を訴えるようになり、これに同調して極秘に周恩来と会見し両軍は停戦することになった。このときすでに対蒋介石クーデターの構想などが練られていたといわれる。1936年、蒋介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件をおこして蒋介石を拘束し第二次国共合作を認めさせた。

■軟禁

翌1937年、その代償として逮捕され、軍法会議により懲役10年の刑を受けた。1938年特赦を受けたが、実際は軟禁の身であった。日本が敗北すると、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れたが、張学良も台湾に移され、50年以上も軟禁され続けた。この間、1955年にキリスト教に改宗した。蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになり、1990年にはNHKの取材を受け、大きな反響を呼んだ。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で、中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかったと主張している。

その後1991年に釈放され、アメリカ・ハワイに隠棲。そのまま生涯を終えた。

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2007年7月24日

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カテゴリ
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