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袁世凱

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詳細 2024年5月29日 22:06更新

獅子座北洋軍閥の首領

1859年09月16日
河南省項城県生まれ。字は慰享。
1860年03月24日 桜田門外の変(日)
1860年10月24日 北京条約(対英)
1860年10月25日 北京条約(対仏)
1860年11月14日 北京条約(対露)
1861年08月22日 咸豊帝 歿
1864年06月01日 洪秀全、病死
1864年07月19日 天京(南京)陥落、太平天国滅亡
1868年01月27日 鳥羽・伏見の戦い(日)
1868年12月19日 明治新政府、国交と通商を求める国書を朝鮮に送る(日)
1869年06月27日 戊辰戦争終結(日)
1869年07月25日 版籍奉還(日)
1871年08月29日 廃藩置県(日)
1871年09月13日 日清修好条規締結
1873年04月30日 日清修好条規発効
1874年05月06日 台湾出兵(日)
1875年01月12日 同治帝 歿
1875年09月20日 江華島事件
1876年02月27日 日朝修好条規
1877年09月24日 西郷隆盛自刃
1880年12月16日 【第1次ボーア戦争】
1881年 
・淮軍の呉長慶の部隊「慶字営」に身を投じ、朝鮮に渡る
1882年07月23日 【壬午事変】
・大院君を天津へ連行し、幽閉する
1882年08月30日 済物浦条約
1884年06月23日 【清仏戦争】
1884年12月04日 【甲申政変】
・親日派クーデターを鎮圧
1885年01月09日 漢城条約
1885年03月16日 福沢諭吉が「時事新報」に社説(脱亜論)
1894年02月15日 全琫準・農民軍、古阜の郡役所を襲撃
1894年03月28日 金玉均、上海で暗殺
1894年05月04日 全琫準・農民軍、古阜・泰仁の武器庫を襲撃(甲午農民戦争)
1894年05月31日 全琫準・農民軍、全州に無血入城
1894年07月23日 日本軍が景福宮を占領(金弘集政権誕生)
1894年08月01日 日清戦争
1894年09月17日 黄海海戦
1895年04月17日 下関条約
1895年04月23日 全琫準処刑
1895年04月23日 三国干渉
1895年09月01日 三浦梧楼、韓国駐在公使として着任
1895年10月08日 乙未事変(禹範善、閔妃を暗殺)
1895年11月28日 春生門事件(大院君派打倒のクーデター)
1896年02月05日 李範晋、ロシアの指示で春川、忠清道で暴動
1896年02月11日 露館播遷(〜1897年2月20日)
1896年04月22日 ロシア、慶源・鍾城両処の鉱山採掘権を取得(朝鮮)
1896年05月14日 第1次日露議定書調印(朝鮮問題)
1896年06月03日 露清密約(李鴻章・ロバノフ協定)
1896年06月09日 第2次日露議定書調印(山縣・ロバノフ協定)
1896年06月12日 ロシア、月尾島西南地段(44,316m² 年銀貨361元)租借契約を取得(朝鮮)
1897年10月12日 高宗、皇帝に即位。国号を「大韓帝国」
1898年04月25日 西・ローゼン協定
1898年04月25日 【米西戦争】
1898年05月23日 義和団、排外運動の開始
1898年09月21日 【戊戌の政変】
1899年
・山東巡撫に就任
1899年10月11日 【第2次ボーア戦争】
1900年06月20日 義和団、北京各国公使館を包囲
1900年06月21日 清国、欧米及び日本の8ヵ国に宣戦布告
1900年07月14日 8ヵ国連合軍、天津占領
1900年08月14日 8ヵ国連合軍、北京総攻撃開始
1900年08月15日 西太后と光緒帝、北京から逃亡
1901年09月07日 「北京議定書」(北清事変に関する最終議定書)調印
1902年
・直隷総督 兼 北洋大臣に就任
1902年01月30日 日英同盟
1904年02月08日 日本軍(第12師団木越旅団)、仁川上陸(日露戦争)
1904年02月23日 日韓議定書 軍事上必要とする地点をいつでも収用できる
1904年08月08日 「維新会」設立(8月20日に一進会に改名)
1904年08月22日 第1次日韓協約
1904年09月07日 ラサ条約(英とチベット政府)
1905年07月29日 桂・タフト協定
1905年09月05日 ポーツマス条約
1905年11月09日 伊藤博文、京城入り
1905年11月17日 第2次日韓協約(乙巳保護条約) 外交権→日本 李完用
1907年06月15日 第2回万国平和会議開会(ハーグ)
1907年07月19日 高宗、ハーグ密使事件の責任追及され、退位
1907年07月24日 第3次日韓協約 内政権→日本
1907年10月18日 第2回万国平和会議閉会(ハーグ)
1908年11月14日 光緒帝 歿
1908年11月15日 西太后 歿
1908年12月02日 宣統帝即位
1909年10月26日 伊藤博文暗殺
1910年08月22日 韓国併合
1910年09月25日 李容九、「一進会」を解散
1910年10月01日 「朝鮮総督府」設置(日)
1911年08月23日 第1次朝鮮教育令(日)
1911年10月10日 武昌起義(辛亥革命)
1911年10月12日 革命軍、「漢口」「漢陽」を占領
1911年10月14日
・清国政府より湖広総督に任命される
1911年10月22日 湖南省独立
1911年10月23日 江西省独立
1911年10月27日
・清国政府より欽差大臣に任命される
1911年10月29日 山西省独立
1911年11月01日
・清国政府より内閣総理大臣に任命される
1911年11月13日
・北京入り、内閣総理大臣に就任
1912年01月01日 中華民國成立
1912年02月12日 宣統帝退位(清朝滅亡)
1912年03月10日
・中華民國臨時大総統に就任
1912年05月22日 李容九 死去
1913年01月11日 チベット・モンゴル相互承認条約
1913年03月22日 宋教仁暗殺
1913年07月12日 李烈鈞が江西省で反乱(第二革命)
1913年08月18日 北洋政府軍、江西省・南昌を奪回
1913年09月01日 北洋政府軍、南京占領
1913年10月06日
・中華民國大総統就任
1914年06月28日 【サラエボ事件】
1914年07月03日 シムラ(Simla)条約の調印拒否
1914年07月28日 オーストリア、セルビアに宣戦布告
1914年08月04日 英国、ドイツに宣戦布告。米国、中立表明
1914年08月06日 中華民國、中立表明
1914年08月07日 英大使グリーン、日英同盟を根拠に対独参戦要請
1914年08月23日 日本、ドイツに宣戦布告
1914年09月02日 日本軍、山東省竜口に上陸
1914年11月07日 日本軍、山東省「青島」攻略 
1915年01月18日 大隈重信内閣の対華21ヶ条要求
1915年05月09日 
・21ヶ条要求を受諾
1915年12月12日 
・帝政宣言。年号を洪憲とする(中華帝国)
1915年12月25日 蔡鍔、唐継堯、雲南省の独立を宣言(護国戦争〜)
1916年01月27日 劉顕世、貴州省の独立を宣言
1916年03月15日 陸栄廷、広西省の独立を宣言
1916年03月22日
・帝政取り消し宣言
1916年04月06日 龍済光、広東省の独立を宣言
1916年06月06日
・尿毒症で歿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

袁世凱(えん せいがい、簡体字:袁世凯、ピン音: Yuán Shìkǎi, 1859年8月20日 - 1916年6月6日)は中国の清末から民国初期の軍人・政治家。大清帝国第二代内閣総理大臣、中華民国臨時大総統、及び大総統。一時期中華帝国皇帝を自称した(このため、その時の元号より洪憲皇帝と呼ばれることもある)。字は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。河南省項城県出身。

■人物

清朝末期の軍人として陸軍の近代化を進める役割を担いつつ台頭し、彼自身が作り上げた軍事力を背景に政治的にも大きな権力を振るい、欧米諸国では彼のことを「ストロング・マン」と呼んだ。その後一時失脚するが、辛亥革命の混乱の中で清政府と孫文らの革命派との間で巧みに遊泳し、中華民国の大総統となり、革命派を弾圧するとともに、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たった。さらに皇帝に一時即位したが、内外の反発を買って退位、失意のうちに没した。

家族構成は、妻妾8人と子女15人。子息のうち、政務を執る袁世凱の傍らにあって、辛亥革命や、袁の皇帝即位などにおいて数々の策謀を巡らせたとされる袁克定は彼の長男に当たる。また、大叔父の袁甲三は道光帝時代の進士である。

■清朝陸軍の洋式化を担って台頭する

袁の生家は、官僚や軍人を多く輩出した、地元でも指折りの名族であった。そういったなかで生まれた袁は、若いころから立身出世の強い願望を抱いていたと多くの伝記は語っている。

まず官僚を志して科挙に2度挑戦したが、どちらも一度目の試験に及第せず断念した。そこで軍人となることを志し、1881年には李鴻章幕下の軍に身を投じ、朝鮮に渡った。その後任地で発生した壬午の変(壬午軍乱)・甲申の変(甲申政変)では閔妃の要請のもと巧みな駆け引きで鎮圧に貢献し、情勢を清朝有利に導いた。そして事実上の朝鮮公使として李鴻章の監督の下、朝鮮の内政にも干渉できるほどの大きな権限を持った。袁は朝鮮に政治的・経済的ともに清朝の勢力を扶植して対抗する日本勢力を排除しようと考え、特に経済的には一定の成果を挙げている。ところが1894年、貧しさと圧政にあえぐ朝鮮の民衆が東学党の乱を起こした。失地回復を図る日本はここぞとばかり軍隊を派遣、袁も負けじと本国に出兵を要請し、ここに日清戦争が勃発した。

しかし日清戦争は清朝の大敗に終わり、敗北の中で袁は本当の意味で近代化した軍隊の必要性を痛感した。当時の清朝の軍隊は、軍備の資金は与えられても上官による横領が頻発し満足な装備を持たなかったり、装備は充実していても兵隊の規律がなっていなかった。袁はその後まもない1895年10月には陸軍の洋式化の職務に就き、近代兵器を伴った兵の訓練、厳しい規律などを実施し、大きな成果を挙げた。当時の欧米人や日本人も、袁の軍隊を視察して高い評価を下している。当時の袁の軍隊のことを、新建陸軍と呼ぶ。

この軍事力こそが彼の力の基礎となり、その後の北洋軍の屋台骨となった。人材面でも、段祺瑞・馮国璋・王士珍(その後北洋の三羽烏と呼ばれる)らはこの時期から袁の幕下に入り、彼を支えることとなる。

■変法と義和団の混乱

1898年の戊戌の新政の際には康有為、梁啓超ら変法派を当初支持した。軍の洋式化を推し進めていた彼にとっても、変法派の主張は好ましく思えるものであった。彼自身、梁の学習サークルである強学会に所属していたこともある。しかし変法派が西太后ら守旧派を一掃するクーデターを策するとあっけなく裏切り、西太后の側近である栄禄に情報をリークした。これによって西太后の信頼を得ることとなり、翌年には山東巡撫(省の長官)に任ぜられた。

義和団の乱では彼は自らの治下での反乱をいちはやく鎮圧し、彼の軍隊の強さを証明した。西太后を中心とする北京政府は各省の指導者に義和団と結んで欧米列国軍を攻撃する命令を下すが、袁は両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞らと協調し、諸外国と東南互保の盟約を結び、北京政府の命令には従わず領土と軍隊を保全した。結局義和団の乱は列国軍によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清朝の軍隊はほとんど壊滅し、袁の力はさらに強まることとなった。

1901年に李鴻章が没すると、袁は彼を引き継いで北洋大臣兼直隷総督となった。ここに北洋軍が誕生したのである。北洋大臣としての立場から、従来に加えて袁の軍はさらに強化された。その後も栄禄ら有力者が没していく中でさらに権勢を強め、また西太后からの信頼も極めて厚くなった。

■ストロング・マン袁世凱の政策

この時期から袁は政治家としても活躍し、いわゆる光緒新政の中心的人物となった。彼の採った政策とは、国債などによって諸外国から金を借り、その資金によって陸軍の洋式化、教育機関の拡充、鉄道、銀行などのインフラ整備を行っていくというものであった。この方式は辛亥革命後に彼が大総統になった後もあまり変化がない。また、資金を借りることで列強に侵略されるリスクについては、各国に平均して頼ることで回避が可能であると考えていた。日露戦争後に日本が東三省(満州)において独占的な権益の確保を企てるが、彼はアメリカを同地に介入させることで、日本の侵食を阻止しようとしている。

1907年には軍機大臣・外務部尚書となった。この時期、辰丸事件を機に中国南部沿岸で日貨排斥運動を煽るなど、日本の影響力を削ぐ活動も行った。

■新生国家元首就任

ところが1908年に西太后が病没し、宣統帝が即位し、宣統帝の父醇親王が摂政王として政権を担当すると、袁の政界での状況は一変する。戊戌変法で兄光緒帝を裏切った袁を憎んでいた醇親王は、1909年初め、袁を失脚させた。さらに袁の殺害の計画もあったが、内部情報を得た袁はほうほうの態で北京を逃れた。かくしてすべての職を失った袁は河南省彰徳近くに居を構え、失意の日々を過ごすこととなった。しかし、一方で彼の部下は多く政権に残っていたので、内部情報はふんだんに入手していたようである。

1911年10月、辛亥革命が勃発、華中・華南では革命派優位で情勢が推移した。清朝内の満州貴族らも既に袁のほかにこれを鎮圧できる人物はいないと判断し、清朝の第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じた。清朝不利を確信した袁は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方では革命派と極秘に連絡を交わした。そして自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、清朝の要路者に政権の交代をうながした。こうして1912年3月、最後の皇帝宣統帝が退位して清朝は滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任したのである。

■中華民国大総統就任

袁の政治に対する考えは一貫しており、中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように乱れた中国はまとまり得るというものであった。こうした発想は当時の対中国観の主流であり、孫文などもそう考えていた。しかしこれにたいして当時国民党の実質的指導者である宋教仁は、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を行うことが必要であると主張した。当時としては新鮮なこの考えは多くの国民の心を捉え、国民党は1912年12月の選挙で圧勝した。袁は大きな影響力を持ちつつある宋を警戒し、懐柔策をしばらくとり続けたが、ついに1913年3月、宋教仁を暗殺した。その後も大総統の権限を強化したり、任期を長くするなど自らの強権に努めた。

この後多くの国から借款を行い、近代化資金を確保し、インフラ整備を行った。この借款にたいして南方各省から反発の声があがり反乱となったが、袁は得意の軍事力をもってこれを撃退した。反乱軍を指揮していた李烈鈞・孫文・黄興らは日本に亡命した(1913年9月、第二革命)。同年10月には正式に大総統に就任。さらに国民党の解散命令を出したうえで、国会内の国民党議員を全員解職した。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると、袁の中華民国政府は中立をいちはやく宣言した。しかし、隣国の日本は日英同盟を理由に膠州湾岸のドイツ領に出兵し、占拠した。この間袁は日本に領土の返還を求めるが、受け入れられなかった。さらに日本から「21か条要求」を突きつけられる。袁はこの情報を諸外国にリークするなどして不成立させようとするが、1915年5月、ついにこれを認めた(但し、「21か条要求」そのものが、袁世凱が共和制の脆弱性を国民に見せ付けるために日本側と打った「芝居」だとする説もある)。

こうした袁の弱腰(と映った)な姿勢に、自治の姿勢を強めつつあった地方勢力が再び不穏な動きを見せていた。このことが必ずしも理由ではないが、地方から中央への税の流れがとどこおりつつあり、また北京など大都市では袁の専制を批判する動きが学生を中心に広がりつつあった。学生の多くは、主に日本から自由民権思想・社会主義などの新しい思想を持ち帰り、袁の施政をすでに時代遅れのものと考えていた。

■皇帝即位と退位

こうした不安定な状況の中、1915年に袁は帝政復活を宣言した。翌1916年より年号を洪憲と定め、皇帝に即位し国号を「中華帝国」に改めた。こうした袁の行動は、自らの野望を果たすためという面もさることながら(彼の皇帝就任への願望を示すエピソードはふんだんに残されている)、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な立憲君主制が必要との考えであったという見方が日本の学者では多い。

しかし、結果はまったく袁の予想と反するものだった。北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。彼の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁を批判した。さらには当初傍観していた日本政府が、皇帝即位の受けの悪さを見て取るや、厳しく非難を始めた。結局袁は1916年3月にとうとう退位した。しかし一度失墜した権威は戻らず、同年6月に失意のうちに病死した。死因は尿毒症と伝えられる。

袁の死後元彼の部下であった馮国璋、徐世昌、段祺瑞などが相次いで政権につきいわゆる北京政府として対外的に中華民国の正式政府として存続したが、いずれも一国をまとめる力を持ちえず、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入した。蒋介石の北伐が終了するまでの10年余り、この状況が続くこととなる。

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