小倉祇園太鼓保存振興会木町蛇の枕のコミュです。
小倉祗園を愛し、母体町内である木町の青年部にあたる保存会です。
会のメンバーだけでなく、興味のあるかたもぜひぜひ御参加くださいm(__)m
会の名前の由来
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小倉祇園太鼓保存振興会
木町 蛇の枕 プロフィール
● 平成十一年 八月
木町一丁目祇園太鼓 青年部 として発足
● 同年 九月
小倉祇園太鼓木町蛇の枕(じゃのまくら)と改名
● 平成十四年 四月
小倉祇園太鼓保存振興会に木町太鼓保存会から木町蛇の枕として登録
● 平成十五年 七月
小倉祇園太鼓山車競演大会 大人組 準優勝
● 平成十五年 十月
韓国 仁川市 市民祭に姉妹都市交流として参加
● 平成十六年 二月
NHK 金曜ショータイム<歌の歌謡ショー>出演
● 平成十六年
スポーツフィットネスジム【ウィングス】にて
太鼓塾開講
● 平成十六年 七月
小倉祇園太鼓山車競演大会 準優勝
● 平成十六年 九月
東京国立劇場にて【日本の太鼓】出演
● 平成十六年 十月
群馬県 年輪ピック受け継ぎ式参加
● 平成十七年 七月
小倉祇園太鼓山車競演大会大人組少年組 準々優勝
● 平成十八年 七月
小倉祇園太鼓山車競演大会 大人組 準々優勝
少年組 優勝
● 平成十九年 七月
小倉祇園太鼓山車競演大会 大人組 優勝
少年組 無審査
現在に到る
活動内容
● 青少年育成及び、小倉祇園太鼓技術向上
● 地域行事への参加・協力
● 祇園太鼓派遣
● 北九州市立 清水小学校にて小倉祗園太鼓を授業の一環として指導
小倉祇園太鼓
開 催 日 : 毎年7月第3土曜日を挟んだ3日間(雨天決行)
開催場所 : 小倉城周辺及び、小倉市街地
380余年の歴史を誇る小倉祇園祭。全国でも珍しい太鼓の両面打ちが特徴です。
関が原合戦後、合戦の功労によって細川忠興が豊前・豊後の大名として入国し、大規模な小倉城を築城し外濠の周囲八粁の内を城郭としました。小倉祇園祭は、その時に無病息災を祈るとともに、城下町繁栄策のひとつとして、三年(1617年)に祇園神社(現在の八坂神社)を建て、京都の祇園祭を取り入れたものです。当時の小倉祇園は城下の各町々は思い思いに趣好をこらした飾り山車を出し、踊り子の舞台をしつらえるなどし、三味線・鉦・笛の賑やかな囃子で神幸に随って城下の町々を回っていました。太鼓には、次のようなエピソードもあります。
「祇園会神事神山次第」という文章に『万治三年(1660年)、囃方清五郎が藩主のお供をして江戸表に上り、山王神事の囃し方を聞き覚え、小倉に帰国後、子供四人を集め、教授せしが始め也』
もともと、鉦(かね)、鼓(つつみ)、笛(ふえ)を用いたと記録にあり、その叩き方は「能」の形式で、現在の両面打ちの基礎は祭り開始後40年後に伝わったという説です。何より当初から、小倉祇園祭は太鼓祇園と呼ばれる特徴がありました。竿の両端を肩にかつぎ、そのまん中に吊るした太鼓を自分の町内うちを叩いて回る。小倉城下の各町内が一斉に太鼓を叩いて自分の町内うちを回るので、小倉の町中が太鼓の音に包まれる。飾り山車と三味線・鉦・笛の囃それに踊り舞台、そして各町内で打たれる太鼓の響き、それが明治までの小倉祇園祭りの姿でした。
明治の中頃から、小倉市街に路面電車が走るようになり、架線で背の高い飾り山車が通れなくなったことなどから、次第に姿を変えていきます。肩にかついだ竿につるしていた太鼓は山車の前後に乗せるようになり、この太鼓をジャンガラ(スリ鉦)と「ヤッサヤレヤレ」の掛け声に合わせて打ち鳴らしながら、調子に合わせて叩くように変っていきました。山車に据えつけた太鼓になると、肩にかついだ竿につるした太鼓と違い、踊りながら叩く「あばれ打ち」が可能になり、さらに勇壮な太鼓祇園になりました。伝統保存を重視する郷土芸能でも時代の変遷とともに変化していくことも必要です。小倉祇園祭においてはその後も、女性の参加・据え太鼓披露の実施・祭礼日の変更などがありました。さらに近年は小倉中心部の人口減により山車を運行する町内も減少したり据え太鼓のチームが増えたりと、祭りのスタイルも変化しています。今なお、時代とともにその姿を大きく変え発展を続けています。
岩下俊作原作の《無法松の一生》は小倉の祇園太鼓を広く紹介し、全国的にも小倉祇園太鼓を知らぬ者は無い程の、有名な祭りになりました。また故村田英雄氏の 「無法松の一生」 や、坂本冬美さんのデビュー曲「あばれ太鼓」 も有名で広く親しまれています。
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