農業、峰与八の四男。米屋、吉田祐次郎の養子となる。 戦艦金剛、陸奥の各艦長、連合艦隊参謀長、海軍省軍務局長、練習艦隊司令官、第二艦隊司令長官などを歴任。昭和12年(1937年)12月1日からは連合艦隊司令長官を務めるが、昭和14年(1939年)8月30日に阿部内閣の海軍大臣に就任。米内内閣、第2次近衛内閣でも留任した。
吉田の方針は日独伊三国同盟に反対、対米戦争反対という、前任の米内光政と同じであったが、部下の使い方があまり上手ではなかった。同期の山本五十六が吉田の将来を危惧し海軍次官留任を申し出たが、山本は連合艦隊司令長官として海上に出てしまい、吉田は日独伊三国同盟の締結直前に病気により辞任してしまう。後任の海軍大臣及川古志郎は同盟に同意し、日本は戦争への一歩を踏み出してしまう事になるのである。
昭和15年(1940年)に大将に昇進、軍事参議官、支那方面艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを経て昭和20年(1945年)6月1日、予備役となる。
息子の清は海軍大尉。娘の信子は経済団体連合会初代会長石川一郎の子潔に嫁ぐ。潔は東北石油社長となる。義弟は松永次郎海軍中将。