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中村良三

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詳細 2023年6月24日 15:32更新

1896年(明治29年)に青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業後、海軍兵学校(27期)入学。

日露戦争がはじまった時には扶桑の分隊長をつとめたが、扶桑は当時すでに艦齢四半世紀を超え、日露戦争では当然の第三艦隊所属となって地道な哨戒活動に従事していた。しかしその後、1905年(明治38年)1月に行われた異動では一転して最新鋭の巡洋艦明石の航海長兼分隊長に補職され、第一艦隊の巡洋艦戦隊として日本海海戦に参加した。
日露戦争後の明治38年12月末、イギリスで建造された戦艦香取の受領のために渡英、帰朝後に海軍大学校乙種学生、砲術校高等科学生となり、鉄砲屋の道を歩いた。

大尉の間は砲術校教官、巡洋艦阿蘇、八雲の砲術長などの役目を果して海大甲種学生に入学。卒業後は主に軍令畑を歩く。
第一次世界大戦中には軍令部参謀、のち作戦課長をつとめ、戦争末期には英国に派遣されている。停戦後帰朝し、海大教官となる。
1923年(大正12年)12月、第一水雷戦隊司令官を務め、その後再び軍令部参謀となる。
1926年(大正15年)12月から1929年(昭和4年)11月まで海大校長を務め、1930年(昭和5年)12月、山本英輔聯合艦隊司令長官の下で第二艦隊長官に命ぜられた。一年の艦隊暮らしのあとは佐世保鎮守府、呉鎮守府長官になる。

1934年(昭和9年)3月、同期生の末次信正とともに海軍大将に昇進してまもなく、友鶴事件のために艦政本部長杉政人中将が引責辞職。同年5月、中村が艦政本部長に就任することになった。(鎮守府長官は親補職であるのに対し、艦政本部長は親補職でなく、定員では中少将となっている。重要性ではある意味鎮守府長官以上であるが、格としては格下げになってしまうために、本職を大将の定員があり親補職である軍事参議官として、艦政本部長は兼職とすることにした。実際の補職と定員で定められている階級が合わないために適当な本職を与えて辻褄をあわせるのはよく行われたことであった。)

中村の艦政本部長就任後、友鶴事件の対策に追われている最中の1935年(昭和10年)9月には第四艦隊事件が発生している。
まったく多事多難であったといえるが、逆に戦争直前のこの時期に欠陥が露呈したことでかえって戦争前に対策が確立できたことは幸いであったといえる。そして、第一号艦(後の戦艦大和)の設計訓示もこの時の出来事である(昭和10年11月)。
二・二六事件後、粛軍のために陸軍が多数の高級将官を予備役に編入したのとバランスをとるために海軍も先任の大将を何人か予備役編入することとなり、中村に白羽の矢が立てられて1936年(昭和11年)3月に離現役した。

その後、興亜委員会委員、内閣参議を歴任、昭和20年(1945年)、終戦の半年前、高血圧と急性肺炎を併発して、横浜市鶴見区の自邸にて歿。

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