島村速雄
1858年(安政5年)10月26日〜1923年(大正12年)1月8日
{出身地}
高知県高知市小高坂西町
{最終階級}
元帥海軍大将 正二位 勲一等 功二級
{爵位}
男爵
高知県出身者では初の元帥。
「非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物。」などと評される
土佐藩の郷士である島村左五平とその妻鹿子の次男として生まれる。
明治13年に海軍兵学校を卒業
海軍兵学校では常に首席であり、「兵学校7期に島村あり」と言われるほど名を知られるようになった。
少尉任官後、イギリス出張、参謀本部出仕、巡洋艦「高雄」の分隊長兼砲術長を経て
明治26年(1893年)大尉として常備艦隊の参謀に任命される。
明治27年(1894年)連合艦隊参謀となり少佐に昇進。
日清戦争
参謀として、連合艦隊旗艦松島に乗り組んで参加。
明治32年(1899年)大佐にまで昇っていた島村は、防護巡洋艦「須磨」の艦長に任じられる。
明治33年(1900年)義和団の乱では日本海軍の司令官役として、指揮を執った。
明治36年(1903年)連合艦隊参謀長となる。
日露戦争
旗艦「三笠」に乗り組み、旅順港封鎖に参加。この間に少将に昇任。
旅順封鎖作戦終了後に参謀長の座を降り、第二艦隊第二戦隊司令官に転任となる。
転任後は第二戦隊旗艦「磐手」に坐乗して指揮を執った。
明治38年(1905年)日本に初めて練習艦隊が組織され、初代司令官となる。
明治41年(1908年)中将に昇任。海軍大学校校長に補される。
数年のうちに海軍士官の育成に関わる重職を三つ歴任し、彼の手腕が評価されていたことが窺われる
明治42年(1909年)に第二艦隊司令長官に就任。
明治44年(1911年)に佐世保鎮守府司令長官に就任。
大正3年(1914年)海軍教育本部長に就任するが、間もなく軍令部長となる。
在任中に大将に昇任。
大正9年(1920年)軍事参議官となる。
大正12年(1923年)脳梗塞により死去。享年66歳。