無いようなので作りました。
無一物の自由な生涯。無用の達人。一生妻帯せず、無職、居候、童貞を通した。
金に困れば親しい寺へ行き、住職から金を受ける。住職は「お布施」といった。
(以下 wikipediaより抜粋)
山崎方代(やまざき ほうだい、1914年(大正3年)‐1985年(昭和60年)は、日本の歌人。
略歴 山梨県東八代郡右左口村(旧中道町、現甲府市)に生まれる。次男。右左口村青年団に加わり、「一輪」の名前で文芸部雑誌「ふたば」や「あしかび」「一路」「水甕」などの結社誌に詩や短歌を発表し、地方紙の峡中日報や山梨日日新聞の文芸欄へも投稿。1929年(昭和4年)には右左口尋常小学校(現中道南小学校)を卒業。1937年(昭和12年)には横浜へ移り、職を転々とし1941年(昭和16年)7月には陸軍東部第77部隊へ入隊。翌年には野戦高射砲第33大隊一等兵として出征し南方方面で戦い、ティモール島クーパンの闘いで戦傷で右目を失明。
1946年(昭和21年)には復員し、傷痍軍人の職業訓練で習った靴の修理をしつつ各地を放浪する。「一路」への投稿して文芸活動も再開し、同士と「一路」を脱退し、1948年10月には「工人」を創刊する。また、1954年(昭和29年)創刊の「黄」や、1949年結成の「泥の会」の同人誌「泥」などへ短歌を寄せている。1955年には山上社から第一歌集「方代」を発表。1971年(昭和46年)には「寒暑」を創刊。1975年(昭和50年)には「短歌」昭和49年9月号掲載「めし」で第一回短歌愛読者賞受賞。1978年創刊の季刊短歌雑誌「うた」へも投稿。晩年は鎌倉で過ごす。
特定の結社に属さず、身近な題材を口語短歌で詠んだ。鎌倉に住む歌人吉野秀雄や唐木順三とも交友があり、しばしば土産者を携えて訪ねたという。関係資料は山梨県甲府市の山梨県立文学館に所蔵されており、常設展でも展示されている。
<著書>
第一歌集『方代』(山上社,1955)
合同歌集『現代』(短歌新聞社,1965)
第二歌集『右左口』(短歌新聞社,1974)
『こおろぎ』(短歌新聞社,1980)
随筆集『青じその花』(かまくら春秋社,1981)
第四歌集『迦葉』(不識書院,1985)
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はぎしりして●(かなしき)を打つ靴を打つときの間もあり広中淳子
あきらめは天辺(てっぺん)の禿のみならず屋台の隅で飲んでいる
そこだけが黄昏ていて一本の指が歩いてゆくではないか
なんという悲しいことだ冬枯れの地上に家がかたまっている
しみじみと三月の空ははれあがりもしもし山崎方代ですが