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曽国藩

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詳細 2021年7月12日 08:40更新

曽国藩(そうこくはん(1811年 - 1872年))

大清帝国後期の政治家・軍人・学者、湘軍の組織者・同治中興の功臣
官職:両江総督、欽差大臣、直隷総督、一等侯爵
活動地域:中華
字:滌生 諡:文正

―― 心力労苦の英雄 ――
 湖南に生まれ、27歳で進士となる。1852年、母の死によって帰郷中に太平天国軍が湖南に侵攻する。彼は政府によって団連(義勇軍の徴募)を命じられ、自身の人脈を使って郷勇(義勇軍)を組織。これは湘軍と呼ばれ、当時の中国では最高の士気と錬度を誇った。この湘軍をはじめとする各地の郷勇や外国人義勇軍の活躍によって太平天国軍は次第に敗退し、1864年には湘軍によって太平天国の首都・天京(南京)が陥落した。曽国藩は北京に凱旋し、その功によって侯爵に任じられた。しかし一方で政府は曽国藩の実力を恐れ、その野心を疑った。そのため曽国藩は湘軍を解散することで自身の忠節を示した。

  また洋務運動に参加し、洋式の兵器工場の設立や留学生の派遣などを進め、同治中興の中心的存在であった。1870年には漢族ではじめて地方官最高位の直隷総督に任じられており、その幕下からは李鴻章や左宗棠など、清朝末期の重要人物を多く輩出している。文人としても一流であった。

  政治的野心の薄さが特徴で、「盛世創業垂統の英雄は襟懐闊達を以て第一義とし、末世扶危救難の英雄は心力労苦を以て第一義とする」と述懐。常に慎重保身をむねとし、やろうと思えば容易に帝位を獲得できる状況にありながらも、あくまでも清朝の一臣下として振舞った。


・略歴
1811年 湖南省湘郷県にて誕生。1838年 進士となるが、1852年に礼部右侍郎在職中に、母の死去により、喪に服すため帰郷。

 太平天国の乱が勃発すると政府により団練の組織を命ぜられ、郷勇(義勇軍的な私兵部隊)を組織する。これが後の湘軍の元となる。清の正規軍である八旗は堕落しており、太平軍に連戦連敗であったが、曽国藩率いる軍隊は強さを発揮して太平天国軍を破った。このことに政府は曽国藩に対して恐れを抱きつつも、政府軍ではどうすることも出来ず、曽国藩を両江総督(江蘇省・浙江省の2つを合わせた地方の長官)、欽差大臣とした。

 1864年 太平天国軍の首都天京(南京)を陥落させ、太平天国を滅亡させた。この功績により侯爵とされる。

 乱後、その功績と兵力の大きさにより、政府から警戒されるようになるが、湘軍を解散させることでこれを避ける。洋務運動にも参加し、洋式の兵器工場の設立・留学生の派遣などを行った。また後進の育成にも力を注ぎ、その幕下からは李鴻章・左宗棠など多くの人材を輩出した。

 1870年 清朝に仕える漢民族としては初めて、地方官としては最高位に当たる直隷総督となった。

 曽は文人としても一流であり、その作品は『曽文正公全集』・『曽文正公手書日記』に纏められている。


・現代中国と曽国藩
 現代中国では、共産党政府が正義扱いしている太平天国を鎮圧した人物であるために、長らく悪役扱いされてきた。しかし2000年前後に曽国藩の大ブームが起こり、書店の人文書のコーナーに曽国藩に関する本が平積みされる事態まで起こった。

 こうした「曽国藩」ブームは、政治家として位人臣を極め、さまざまな新しい政策を行いつつも、失脚することなく最期まで富貴のまま終わった彼の生きざまを学ぼう、ということから起こっていたようだ。改革開放によって生じた中国人の志向がよく出たエピソードである。なお、本の内容には曽が作った家訓や、身の処し方について記したものが多い。

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