あるとき、ヘレンケラーがインタビューで応えた。
「ハンデを背負って良い仕事をしたのを知っています。盲目の塙保己一です」
【はじめに】
江戸後期の国学者塙保己一は、長い時間をかけて群書類従の編纂という偉業を達成。
群書類従とは日本史、国語国文学における重要な資料集であり、時代は晩成一国の「天皇の他は皆、平等である」(一君万民)。復古神道の立場で外国階級制と対立した吉宗(8代)の時代。
それは吉宗が漢訳洋書輸入の禁を出した蘭学の初めの頃のようです。
【塙保己一について】
江戸後期の国学者 (1746ー1822)
丸く御紹介すると、7歳、病により失明。15歳、江戸に出、雨富検校須賀一に入門、千弥と改名。翌年、須賀一の勧めで、歌学を萩原宗固に、神道を川島貴林に学ぶ。のち故実を山岡浚明に、医学を東禅寺の孝首座に学ぶ。18歳、保木野一と改名。24歳、宗固の勧めで賀茂真淵に入門。30歳から塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改める。
さらに、34歳、各地に存する未刊の国書を叢書として出版を志した。41歳から『群書類従』(530巻)の刊行を開始した。そして、幕府の援助を得て、74歳で完成。