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小佐野賢治

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詳細 2019年7月13日 06:07更新

「信じられるのは金だけだ」



・・・・・・・・・・・・・・・
長い、長い、人生の中で1つの事に傾倒、
集中し続ける
事が出来る人間はどれ程居るでしょうか?




「金儲けに全てを捧げた人生」それが彼の人生でした。
貧しい家庭に育った小佐野さんは、幼少の頃から
辛酸を舐め続けます。「むしろ」の小屋の様な家に住み
酷い雨の日は家族で御寺で雨宿り。風呂は近所のものを
借り、家計を助けるために
小学校の頃から新聞配達をする事になります。
小学生の子供が3時に起きて三里、十二キロを
走る事になります。冬の平均気温は6-7度、今から80年程昔、当時の彼はどの様な
気持で新聞配達を続け、彼に眼はどの様な光景が
映っていたのでしょうか?
この時の辛酸を舐めるような生活の体験が彼の
心の中にある物を産んでいく事となります。
それは「飽くなき野心」
その頃の彼の口癖、それが
「百姓ではえらい者にはなれない」
苦労のせいか、20代で既に50代間違われる程の
外見の持ち主だったと言われています。
自動車部品を扱う会社に就職した後も彼の苦難は続きます。アパート、借り家は全て解約し、
トラックで寝泊り、出勤していました。
それから、約半世紀後、彼は、約一兆円の資産を
保有し、あの田中角栄総理を誕生させる事になります・・・・・・・・・・・・


貧しい出身にも関わらず諦めずに努力と
信念を貫き、人生終始一貫した拝金主義と
何より現実主義、これによって莫大な財を成した。
その野心は留まる処を知らず、ついには
一国の総理までも作ってしまう。
貧しい環境で育ったが故に稀代のリアリストであった
小佐野賢治
彼は何を想い、そして何を以って生きたのだろうか?
















youtube

日本フィクサー列伝 財界の帝王 小佐野賢治 Part.1
http://www.youtube.com/watch?v=uLfTJub5uEI

日本フィクサー列伝 財界の帝王 小佐野賢治 Part.2
http://www.youtube.com/watch?v=412y7ACzvdw&mode=related&search=


人物紹介

手抜きですが
wikiから

[編集] 来歴・人物
1917年(大正6年)、山梨県東山梨郡山村(現甲州市勝沼町山地区)の小作人であった小佐野伊作・ひらの夫妻の長男として生まれる。生家は貧しく幼いころは自宅さえもなく村の寺の軒先を借りる生活だったといわれる。

1931年(昭和6年)尋常小学校高等科卒業後上京。1937年(昭和12年)徴兵検査に甲種合格、1938年(昭和13年)に陸軍に入隊、中国へ配属。同年年末には急性気管支炎のため内地送還となる。しかし軍医の診断書は「本人苦痛を訴えるも、所見なし」とある。1939年(昭和14年)それが理由に除隊。また書籍等には本人弁として「漢口作戦による右足貫通銃創」と書かれている。

1940年(昭和15年)に再上京、翌年1941年(昭和16年)東京芝区(現東京都港区)で自動車部品業「第一商会」を設立。持前の商才で軍需省に食込み、1943年(昭和18年)には軍需省の民間無給委託(高等官二等で佐官待遇)となる。

1945年(昭和20年)からホテル業務を開始し、熱海ホテル、山中湖ホテル、強羅ホテルと次々に買収した。この強羅ホテル買収交渉を機会に元のオーナーで売主であった五島慶太と知り合う。その縁で1946年(昭和21年)、東都乗合自動車を東京急行電鉄から譲り受けてバス事業に進出。翌1947年(昭和22年)、社名を国際興業とする。この年旧伯爵家の令嬢堀田英子(旧下総佐倉藩堀田家出身)と結婚した。

1948年(昭和23年)、ガソリンの不正使用の疑いでGHQにより逮捕される。同年9月重労働1年、罰金74,250円の判決を受け服役。1949年(昭和24年)3月に仮釈放。

刑期を終えた後も精力的に事業を拡大。1950年(昭和25年)田中角栄が社長を務める長岡鉄道(現越後交通)のバス部門拡充に協力したのを切っ掛けに親交を深めた。

1976年(昭和51年)ロッキード事件に絡み衆議院予算委員会に第1回証人として全日空社長の若狭得治、丸紅の伊藤博とともに出頭。その際の証言が議院証言法違反にとわれ1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決(判決言い渡し翌日には控訴)。その後被告死亡により控訴棄却。

係争中の1985年(昭和60年)に帝国ホテル会長職に就任。

1986年(昭和61年)10月27日、入院先の虎の門病院で死去。享年69。

遺産のうち美術品は美術館に寄贈され、また山梨県の発展を目的とした小佐野記念財団が設立されている。


[編集] 逸話
戦後間もない頃からハワイの観光資産価値を見出し、ワイキキのモアナ・サーフライダー等、ハワイのホテルのオーナーとなった。国内有名ホテルも買収していたこともあり「ホテル王」などと揶揄された時期もある。このハワイのホテル買収は、小佐野自身の資産を売却せずさらに外為法により国外への円の持ち出しが制限されていた時期にどう行ったのか今もって不明である。某都市銀行や管理局の高官の関与を示唆する噂もある。
日本航空および全日空の大株主となり航空業界への進出を狙っていたといわれるが、ロッキード事件の発覚により頓挫したといわれる。
山梨交通を始め数多くの倒産寸前の会社を立て直し、かつ「人切り」をしない事業家としての評価は高い。その手法として主なものは現場に入り込こんで問題点を洗い出すこと、不採算部門の大胆な整理といわれる。しかしそれの使い分けに彼の経営者としての直感が生かされており、そこについて研究する価値は大いにあろう。
1976年、ロッキード事件により衆議院予算委員会にて証人喚問されたとき、ここで小佐野が何度も口にした「記憶にございません」は、この年の流行語となった。
小佐野は大のビール好きであり、朝日新聞の書籍には、東京の高級ふぐ料理店「ふく源」はふぐさしの味を損なわないために食べ終わるまで日本酒以外は飲ませない決まりだったが、小佐野は強引にビールを持ってこさせた。これ以来、この後小佐野の予約の申し込みが5、6回あったが同店舗は全て断ったという。
自身の生い立ちに対するコンプレックスを持っていたといわれる小佐野にとって良家の子女との婚姻は念願だったといわれている。なお堀田伯爵令嬢の英子夫人との間に子供はない。
若くして前頭髪が殆ど抜け落ちていたこともあり、20歳代で50歳代に間違われるほど老けて見えたという。
実際の彼は、学歴こそ無いものの物静かで物腰の軟らかい紳士であり、滅多に感情を表さなかったといわれる。書籍等で表現される苛烈なイメージとのギャップは、文章家が活動的な事業家を文章であらわすには苛烈なイメージにしたほうが作成しやすいからであろう。

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カテゴリ
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