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Katarina Witt

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詳細 2018年6月26日 10:18更新

1980年代。銀盤に君臨し続けた女王。
カタリナ・ヴィット。
カタリーナ・ヴィット。
カタリナ・ビット。
カタリーナ・ビット。
とも。。

ドイツ民主主義共和国 (旧東ドイツ)。
カールマルクスシュタット出身。

1984年サラエボオリンピック (ユーゴスラビア)
1988年カルガリーオリンピック (カナダ)
オリンピック2大会連続金メダル取得

ソニア・ヘニー以来、史上二人目の快挙を達成。

世界フィギュアスケート選手権大会
1984年。1985年。1987年。1988年。優勝
1982年。1986年。準優勝

ヨーロッパ選手権大会
1983年。1984年。1985年。1986年。1987年。1988年
6年連続優勝。

東ドイツナショナル選手権大会
1981年。1982年。1983年。1984年。
1985年。1986年。1987年。1988年。
8年連続優勝。

特に1984年から1988年までの5年間では
86年、87年のNHK杯やヨーロッパ選手権。
世界選手権、オリンピックなど
計24大会に出場して23大会に優勝。
唯一、1986年の世界選手権で準優勝。

1986年の世界選手権。
ショートプログラム。
テクニカルエレメンツのTトゥーループ+Dループの
コンビネーションジャンプでDループの着氷が乱れ、まさかの4位。
しかし翌日のフリープログラムでは
完璧な演技をみせ、芸術点で9人の審判のうち
2人が6.0の満点。7人が5.9の点数を付け
フリープログラムのみでは圧勝。

1988年。オリンピックシーズン。
この年、ヴィットがフリーの演目に選んだ曲が
ジョルジュ・ビゼー作曲の「カルメン」。
そして、1986年の世界選手権に5年間でヴィットに
唯一の黒星を付けさせたライバル。デビ・トーマスが
選んだフリーの曲目が、偶然にも同じく「カルメン」

「二人のカルメン対決」として
カルガリーオリンピック開催前から
メディアで論争となった。

開催されたカルガリーオリンピック。
初日のコンパルソリーでは
イワノワが1位。トーマスが2位。ヴィットが3位。

二日目のショートプログラムでは
ヴィットがそのカリスマ性を惜しみなく発揮し
ミュージカル「ラ・カージュ・オウ・フォーレ」の
曲を見事に演じ、1位。トーマスは2位。

二日目が終わって、総合の順位は
トーマスが1位。ヴィットが2位。
地元カナダのエリザベス・マンリーが3位。

最終日。
二人のカルメンの対決。
ヴィットの演技は、ドン・ホセの刃に倒れ
カルメンの死と共に伝説となった。
トーマスはマンリーにも抜かれ
結果はヴィットのオリンピック二連覇。
トーマスは3位に終わった。
翌月に行われた世界選手権でもヴィットが優勝。
トーマスはまたしてもマンリーに抜かれて3位となり
この世界選手権を最後にヴィットは現役を引退。

1989年。東ドイツよりアメリカに亡命。
同年。ベルリンの壁崩壊。東西ドイツ統一。


1994年。リレハンメルオリンピックでアマチュアに
再び戻り、ユーゴスラビアの内戦を憂い
かつての栄光の地、サラエボを想いながら
演じたフリープログラムは会場を割れんばかりの
歓声と拍手の渦に巻き込んだ。

その時選んだ曲は、同じドイツ人で
ナチス時代に同じようにアメリカに亡命した
マレーネ・ディトリッヒの「花は何処へ行ったの」
東西に国が分かれる時代に活躍したアイドルの歌を
東西の国が統一された時に活躍したアイドルが
同じ反戦の想いを込めて演じたコトに
運命を感じずには居られない。。。

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