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FOOTBALL CLUB 「Inter」

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詳細 2014年5月25日 21:05更新

インテルナツィオナーレ・ミラノ
Internazionale Football Club Milano
略称インテル

クラブ創設年:1908年
クラブマスコット:ビッシオーネ(大蛇)
チームカラー:ネロ(黒)アズーリ(青)
メインスポンサー:PIRELLI
テクニカルスポンサー:NIKE

オーナー:マッシモ・モラッティ
会長:ジャチント・ファッケッティ
副会長:リナルド・ジェルフィ カルロ・ブオラ
ゼネラル・ディレクター:マッシモ・モレッティ


ホームスタジアム
スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(サン・シーロ)
85443人収容
ミラン創設者のひとりピエロ・ピレッリの提案により建設されました。
1926年に完成。サン・シーロという名前は建設地の隣にあった教会から付けられたと言われる
(所在地はサン・シーロ地区)
35年にミラノ市がミランから買い取り、幾度かの改修工事が行われた。
ミラノの英雄であり名選手ジュゼッペ・メアッツァが亡くなった1980年、正式名称が「ジュゼッペ・メアッツァ」に変更された。
90年のイタリアW杯に備え大幅な改築が行われましが、その時つけた透明な屋根は洗浄システムを考慮に入れてなかったため、現在はほこりが太陽光線を遮断、芝の発育不良が大きな問題になっている。

前身はACミランと同じ「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ(Milan Cricket and Football Club)」
だが、外国人選手の加入問題を巡ってクラブ内で対立が生じ、その積極派側が1908年に独立して設立した。クラブ名の「Internazionale」には、国際的で国籍を問わず世界中の選手に門戸を開く、という意味が込められている。
初代キャプテンのマンキティはスイス人だった。現在でもインテルとミランのファン同士には深い対立意識が根付いており、サッカーの事を表現するのにも、"カルチョ"と呼ぶミラニスタに対し、インテリスタは国際的な"フットボール"の方を用いる。インテルはクラブ創立のわずか2年後に初のスクデットを獲得したが、すぐに第一次大戦が勃発。2度目のスクデットに貢献したキャプテン、ヴィルジリオ・フォッサティは戦場で帰らぬ人となった。

ティフォーゾの奮起により1932年、 サッカー協会は"Internazionale"の名称を承認した。
クラブ名はアンブロシアーナ・ インテルとなり、チームカラーにも以前の金・青・黒が使われた。
この時代のインテルにイタリア最高のFWがいた。
ジュゼッペ・ メアッツァだ。
彼は1929-30、37-38シーズンのスクデット、1939年のコッパイタリアを はじめイタリアにワールドカップを2度もたらした国民的英雄である。
晩年は怪我に悩みACミランやユヴェントスを渡り歩くが、今でも インテリスタは彼を崇拝している。現在ミランと共有するホームスタジアム「サンシーロ」は、その彼を称えて「ジュゼッペ・メアッツァ」と呼ばれる。1939-40シーズンには5度目のスクデットを獲得。
未来は明るいと思われたが、そのわずか5日後にイタリアはナチスドイツと同盟を結ぶ。第二次世界大戦の幕開けは、カルチョに再び空白の時代を作った。

1945年、長かった大戦が終わり会長もカルロ・マッセローニに変わった。
この頃から一般的に"Inter"(インテル)と呼ばれるようになった。50年代、インテルはアルフレード・フォーニ監督の下、それまでは 弱小クラブが起用していたカテナチオの応用に加え、ロレンツィ、スコグルント、ニエルスら豪華な攻撃陣と、"Kamikaze"と称されたGKゲッツィといったメンバーで、1952-53、53-54シーズンに2年連続のスクデットを獲得した。



1960年代にはエレニオ・エレラ監督の下、司令塔ルイス・スアレスを中心にカテナチオと呼ばれる強固な守備戦術で国内外を席巻する活躍を見せ、「グランデ・インテル」と称された。
1955年、"石油王"アンジェロ・モラッティが会長に就任しエレニオ・エレラ監督の下、司令塔ルイス・スアレスを中心にカテナチオと呼ばれる強固な守備戦術で国内外を席巻する活躍を見せ、「グランデ・インテル」と称された。

エレーラはイタリアでは無名に近かったが、バルセロナではその手腕から"マーゴ(魔術師)"と呼ばれていた。エレーラはインテルにスアレスの獲得を依頼し、モラッティもそれを了承した。
しかし最初は結果が出ず、モラッティもエレーラに最後通告を出す。
守備に問題があると指摘されたエレーラは、ピッキ、ブルニッキ、ファッケッティを中心にしてカテナチオを完成品に仕上げた。そして マッツォーラ、スアレス、コルソ、ジャイールらの攻撃陣も上手く機能し始める。 1962-63シーズンには8度目のスクデットを獲得。63-64シーズンはボローニャにプレーオフに敗れてスクデットを逃したものの、チャンピオンズカップ決勝では、サンドロの2得点を含む3-1でレアル・マドリーに勝利。さらにイタリア勢では初となるインターコンチネンタルカップ優勝も果たした。1964-65シーズンもスクデット、チャンピオンズカップ、インターコンチネンタルカップをすべて制覇。65-66シーズンはスクデットのみの獲得となるが、世界中のクラブがその強さを羨んだ。

1970-71シーズンに11度目のスクデットを獲得するが、コルソやマッツォーラがチームから消え、78年にファッケッティが引退すると、"グランテ・インテル"の時代は幕を閉じた。1979-80シーズンにはアルトベッリ、ベッカロッシ、オリアリ、バレージらの活躍で12度目のスクデットを獲得して新たな黄金時代が期待されるも、それが訪れることは無かった。1984年、エルネスト・ペッレグリーニが会長に就任すると、彼はトラパットーニ監督にチームの未来を委ねる。そして1988-89シーズンの13度目のスクデット獲得に貢献したマテウス、ブレーメと、89-90シーズンに加入したクリンスマンはドイツトライアングルを形成して、1990年のUEFA CUPに輝いた。しかしインテリスタはトラパットーニ監督の"実利的なサッカー"に満足しなかった。インテリスタは特別で、勝敗よりも常に"美しいサッカー"を求めているのである。

近年、石油王マッシモ・モラッティの会長就任後は、毎年のように金にモノを言わせてスター選手を買い集める補強を繰り返しながら、殆どタイトルを得られていない。UEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)優勝からは既に40年以上、最後のスクデットからは15年以上経っていたが、05/06シーズンに1位ユヴェントスのスクデット剥奪と2位ACミランのポイント減点により、17季ぶり14度目のセリエA優勝を果たした。ヨーロッパにおいて最も費用対効果の悪いクラブにも挙げられるが、ファンにとってはそこがまた可愛いところなのかもしれない。

ユヴェントスとともに、クラブの歴史で一度もセリエBに降格したことのないチームだったが、不正疑惑によるユヴェントスの降格の結果、降格を経験したことのない唯一のチームとなった。 ユヴェントスとの対戦は「イタリア・ダービー」、ACミランとの対戦は「ミラノ・ダービー」と呼ばれ、国内外にも関心を集めるビッグマッチとなる。

永久欠番

2-ジュゼッペ・ベルゴミ(名誉欠番扱い)
3-ジャシント・ファケッティ

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2007年1月23日

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カテゴリ
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