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渤海国

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詳細 2024年6月2日 16:01更新

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

渤海(ぼっかい、698年 - 926年)は満州から朝鮮半島北部ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国。元来は700年建国説が有力であったが,鳥山喜一の研究により698年建国説が定説化している。高句麗滅亡後にその遺民である大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、中国からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。

『旧唐書』と『新唐書』では渤海のルーツに関する記述が大きく異なり、旧唐書では、渤海靺鞨大祚栄は本来高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者本高麗別種也「渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり」)であり、風俗は高句麗、契丹と同じ(風俗與高麗及契丹同「風俗、高麗契丹と同じうす」)として高句麗から派生した種族として位置付けているが、『新唐書』では、渤海は本来粟末靺鞨であり高句麗に付いていた者で、姓は大氏である(渤海本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏「渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。姓は大氏」)とし、高句麗との種族的関係を曖昧にしている。
渤海の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、渤海沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。

歴史

668年の高句麗滅亡後、高句麗の遺民たちは唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)に強制移住させられていた。

690年に唐で則天武后が即位すると、内政が混乱を始める。この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、高句麗遺民らは、粟末靺鞨人指導者乞乞仲象の指揮の下に営州を脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地に帰還、東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝する事で独立を認めさせることに成功し、「渤海郡王」に冊封された。

二代大武芸は仁安と言う独自の元号を用いて独立色を明確にし、唐と対立して一時山東半島の登州(山東省蓬莱)を占領したこともあった。また唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送っている。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、この交流は渤海滅亡まで続き、計34回使者が行き来している。 大武芸が没するとその子大欽茂が即位し大興と改元した。父武王の唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍の流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「渤海国王」と従来より高い地位を冊封している。この他旧国(東牟山)から上京竜泉府(現在の黒竜江省牡丹江市)への遷都を実施し、五京を整備する等の地方行政制度を整備するなど唐制を積極的に採り入れるなどし、国力の発展が見られた。

このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の大元義が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の大華璵が即位するが短命に終わり、続いて大嵩璘が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。大嵩璘は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩璘没後は大元瑜、大言義、大明忠と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して20数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。

国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の四世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。これに対し大仁秀は北方諸部の攻略と郡県の設置を行った。特に渤海に対し独立した勢力を保有していた黒水部を攻略することに成功し、黒水府を設置した。これにより黒水部が独自に唐に入朝することはなくなり、その状態は渤海の滅亡直前まで続いた。他にも鉄利府、定理府、安辺府、懐遠府を設置し、遼東半島などをのぞいて旧高句麗の領土をほぼ回復し、「海東の盛国」と称されるようになった。

その子の大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃、大玄錫の代まで保持されていた。

10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。この結果渤海を含む周辺諸国に対する支配体制も弱体化していった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋瑎、それに続く大諲譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国されたキタイ(契丹国。のちの遼)の強い圧迫を受け、渤海は926年に滅亡した。契丹は故地を統治すべく東丹国を設置して支配したが、貴族をはじめとする領民が大挙して高麗に亡命して930年に自然消滅した。しかし、渤海における唐の制度は、契丹が中原化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる両面官制度に影響を与えたといわれる。


また東丹国が930年ごろに消滅して以降、数度にわたって遺民が渤海再興を試みるが、キタイ(契丹、遼)の支配強化によってすべて失敗に終わり、そのつど遺民は高麗へ亡命していった。しかし、黒水靺鞨から発展した女真が建てた金王朝(1115年〜1234年)において、旧領に残った渤海遺民は厚遇され、官職につく者や、王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼした元の代では、華北の渤海人は「漢人」として支配を受ける。その後、女真は満州として再び台頭するが、渤海の名称は東アジア史から姿を消してしまう。

日本との関係
渤海と日本の関係は当初は新羅を牽制する為の軍事的性格が強かった。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は黒水部は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。727年、渤海は高仁義らを日本に派遣し日本との通好を企画する。日本側はこれを歓応し、引田虫麻呂を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は渤海滅亡時まで継続した。

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