「いじめ」というのは「大勢の人間が少数の人間を精神的に肉体的に攻め立てること」だ。
「いじめ」の問題は人類共通の問題でもあって昔からどこにでもある。
どこのだれにでも常に身の回りにまとわりついている身近な問題でもある。
常に進行形で発生していながら人々の隠蔽体質からなのか、なかなか表には出てきにくい。
昨今、子供の自殺者が相次いで、ふたたび陰惨な学校での「いじめ問題」が再浮上「隠蔽体質」とともに各マスメディアが何度もとりあげてきた。
しかしながらこれは、ひとつの流行現象だったのではないか?
二ヶ月ほどの「いじめ問題の流行」の先に風化させてしまうのはどうかとも思う。
「風化」も「いじめ」なのではないのか?
「いじめ」自体は常に流行しているものなのだ。
「いじめ」という言葉には一種のジレンマがある。
「いじめ」という言葉ひとつでくくってしまうと、「あれもいじめ」「これもいじめ」「あれはいじめだった」などと広範囲に及んでしまう。
たとえば「学校のいじめ」は言葉をかえれば「リンチ」であり「学校のリンチ問題」と言い換えるひとがいてもよかったのではないか?
たとえば「人種差別」は壮大なる「いじめ」だ。
ナチスドイツのユダヤ人迫害は「いじめ」だったし、南アのアパルトヘイトも壮大なる「いじめ」だった。
「差別」は「いじめ」の中にカテゴライズされるものだと思う。
「魔女狩り・異端審問」も「いじめ」だし、人類は「いじめ」とともに歴史を造って来たと言えなくもない。
このカテゴライズの問題もふくめ、主に「学校でのいじめ」など、民間人の間に根を張った「いじめ問題」を中心に考えて行きたいとおもいます。