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等、マスクに関する話題の交流場です。
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★うんちく★veneziajapan.comより転用
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&e&e&e&e&e&e&e&e&e 風変わりなカーニバル&e&e&e&e&e&e&e&e&e
このカーニバルの雰囲気は全く風変わりです。世界的に有名な人気のあるカーニバルにあるような、しかめっ面をした、嘲笑的な姿はほとんどありません。ここでは、全てが妖精のようで、荘厳で、魔術的で、はかないのです。このような褒め言葉は、ヴェネツィアのカーニバルに詳しいイタリア人歴史学者、レアトの評価とは正反対です。彼は、“仮面をつける事は制限であり、広告の効果に従った物で、仮装はプチ・ブルの退廃の最たる物だ”から、このような要素から、カーニバルが変質してしまったと批評しています。すなわち、どんなカーニバルにも本質的に属する“違反”が、ヴェネツィアでは、盲目的にメディア制限に従っていると、主張したいのです。この主張には本当の部分もありますが、私にとっては、余りに狭い見方のように思えるのです。実際、現在のカーニバルは、とても古い、歴史的なカーニバルを受け継いでいるので、確かに、多くの側面を失いました。しかしながら、華やかで、美学的な面から、ヴェネツィアの甘いイメージに似ている伝統とこのカーニバルは結びついています。人々がなんと言おうと、このカーニバルは意味深いものであり続けています。このイベントには、ホテルを満杯にする、ということにのみ関心があるわけではないのです。数年前に、個人的に、このカーニバルの虜になってから、私は皮肉な批評の数々を正当化できる根拠に偶然に出会う事があり、そのような事から、歴史的なカーニバルとの相似点、相違点を把握するために、私はこの贅沢なカーニバルの歴史に、その歴史を検討する事に興味を持つようになったのです。そうして、私はその意味を把握する事にも執着しました。幾らかの人にとっては商業的なこのイベントは、私達の社会の多くを語る物なのです。
&e&e&e&e&e&e&e&e&e神秘的な起源と複雑な歴史&e&e&e&e&e&e&e&e&e
ニュ−ンベルグやリヨンやパリのカーニバルのように、14世紀に決定的に証明されたのは、ヴェネツィアのカーニバルはその他のヨーロッパ各地のカーニバルと同時に、つまり、11世紀に生まれました。色々な文章が証明していますが、例えばドージェ、ヴィターレ・ファリーレの1094年の政令では、四句節の前の数日、カーニバルを祝う事を許可すると記されています。実際、この時代から、カーニバルはクリスチャン典礼の日程に組み込まれていました。ヨーロッパがローマ帝国と部分的に異教徒を破壊した侵攻による大混乱から立ち直った時に、最終的に設置されました。
このクリスチャン時代は、4世紀から段階を追って設置されました。(キリストの誕生と東方の三博士の来訪が決められたのも、この時代です。)しかし、四句節が40日に定められたのは、8世紀の事で、カーニバルからの浄化の期間という事を示唆しています。禁欲の厳しさを見越して、前もってこの辛い要求を良く受け入れるためのある種、埋め合わせが必要だったのです。(田舎では、カーニバルの時期は豚を殺し、生け贄にする時期、12月と一致しています。)
その他の幾つかの政令がカーニバルの存在を証明しています。
・1268年、政令は、仮面をつけた人が卵遊びに興ずるのを禁止した。
カーニバルはそれから固有の様相を持つように。
・1339年、政令は仮面に夜の間徘徊する事を禁止した。
・1436年、正式にマスカレーリ、仮面を作る職人の組合が設立。しかし、仮面すなわち、ヴェネツィアのカーニバル、と言う事ではないのだが。
・カーニバルが、仮面着用や公共の場でのイベントを繰り広げるという、その固有の特徴を持つのは、16世紀の間であった。祭は監視の元で行われた。
・17世紀から、カーニバル開催中、賭け事は許可が下りなくなったが、仮面の着用は義務であった。このようにして、 あらゆる快楽の為に 全ての社会階層が集まる隠れ家や売春宿が花咲いた。
・18世紀はカーニバルの絶頂期だった。ヴェネツィアは、反対に、凋落の道を歩み始めた。というのも、大規模な商業的街道から離れていたので。しかし、文化的にはとても活動的で(ゴルド−ニ、ゴッズィ、ヴィヴァルディ、カナレット、グアルディ、ティエポロ、ロンギなどが活躍し、カーニバルの際に注文を受けていた。)、世界中から人の集まる祭の日に気分を紛らわしたいかのようであった。
・1797年、ヴェネツィア共和国はナポレオンに脅かされ、消失した。ナポレオンはカーニバルを禁止。共和国を手に入れたオ−ストリア人は最初の内、プライベートパーティの機会にのみ仮面を許可、そして、再びカーニバルを許可。
・19世紀の中ごろ、ヨーロッパの他方では、中世時代の伝統を蘇らせたロマン主義にも関わらず、カーニバルは危篤状態であった。
・1866年、ヴェネツィアは再びイタリアになるが、経済危機と移住の為、カーニバルの豪華さは打ひしがれた。
・70年代の終わり頃、カーニバルは再興。高校生達が玉子や小麦粉を通行人に向けて投げ、広場で楽しみ始めたのがきっかけである。この行為は失われた伝統と再び結びつきたい願望と解釈された。その上、空白の期間に、旅行業を盛り上げる事も可能になった。
・ 同時に、消えていた仮面製作業が再び現れた。この復興は、様々な協会や文化クラブ、イル・ガゼッティーノのようなスポンサーの力で為された。
・1976年前は、カーニバルの期間は、ヴェネツィア人達が集まる、プライベートなパーティを開く機会であった。
&e&e&e&e&e&e&e&e&e異教のかすかな記憶とその他の宗教的祭との共通点&e&e&e&e&e&e&e&e&e
私達は本当の所、カーニバルの起源を話す事が出来ません。書類上の証拠が足りないのです。ヨーロッパでのカーニバル事情は、古代まで逆のぼれる異教徒の儀式である土を祝う祭や再生の農耕信仰と関係しています。このような儀式はキリスト教化や重大な侵攻にも関わらず、続き、1000年頃に、とても盛んでした。故に、冬の祭とキリスト教の中世のカーニバルとの間にはつながりがあります。つながりの説明として、暦の上では、冬至と春分の間に当たります。内容の上では、色々な例が挙げられます。
古代エジプトでは、雄牛の神、アピスの祭の時、行列やごちそうや仮装が催されました。7日間食べたり、踊ったりして、お祭りを行い、この時期が終わると肉付きのよい雄牛が生け贄にされました。(この事はヴェネツィアのカーニバルを示唆するのに偶然ではありません。)
古代ギリシャとローマでは、冬と3月の始めに祝われたディオニソス神やバッカスは、豊じょうの祭でしたが、同時に酔いや享楽の祝いでもありました。祭は、踊りや仮装、仮面などが特徴になっていました。皆が数日の間、自分の本当の性質を生きるために仮装し、無秩序な状態を経験しました。
ローマ時代のサトゥルヌ祭は、確かに古代の祭の中で、一番中世のカーニバルに近い物です。農耕の神である土星の神への信仰と過ぎ去った黄金時代が表現されました。そこでは、生け贄やごちそう、踊り、歌、倒錯した遊びが行われ、全てのヒエラルキーは放棄されました。
ラティウム国の伝説的な第一王であったジャニュスに捧げられた1月の朔日も、過ぎ去った黄金時代への一時的な回帰たらんと欲しました。お祭り気分で、喜ばしく、平等主義を掲げました。
パン神を讃える2月中旬に行われるルペルカリア祭は豊穰の祭で、行列や仮面、放縦な行為で活気づきました。
3月1日のマトロナルは女性を讃える機会でした。女性が権力を持つ日だったのです。
同様に、ユダヤ教やイスラム教とも比較する事が出来ます。
ユダヤ教の祭ポウリムは2月に行われ、断食の期間を終えるための
開放的なお祭騒ぎの機会になっています。
そして、イスラム教のラマダン(日程は年によって変わる)は、その終わりはお祭り騒ぎを引き起こし、開放的な夜の祝賀を行います。
このような祭には全てカーニバルの要素が見つかります。
キリスト教はカーニバルを望みませんでした。というのも、キリスト教にとってはカーニバルは異教の再来だったので。しかし、冬のキリスト祭日、クリスマス、公現の祝日、聖母お清めの祝日が異教徒の祝い事によって影響を受けているのは明らかです。 教会はカーニバルを防ぐ事が出来ず、典礼の日程の中に、組み込みました。
&e&e&e&e&e&e&e&e&eカーニバルの日程と地理&e&e&e&e&e&e&e&e&e
現代のカーニバルは2週間続き、告解火曜日に終わります。昔から、このような日程ではなかったのです。資料は度々、不完全だったり、矛盾しているので、はっきりと見つける事は難しいのですが、昔のカーニバルは現代のものより、ずっと長い間開催されていたことが明らかになりました。ヴェネツィアでは、仮面仮装の時期とカーニバルの時期を、形にはめて同じにみなす事は避けるべきです。D・レアトによると、歴史的なカーニバルは12月26日、聖ステファンか聖エチエンヌの日に、仮面行列から始まりました。告解木曜日は同じく大事な日で、記念的な日でした。カーニバルは現在の物の同じように終わりました。
告解火曜日に、墓場を蘇らせると言い伝えられる巨大なサラバンドという舞踏で終わります。そして、サン・フランチェスコ・デラ・ヴィラの鐘の音で四区節が始まります。いづれにせよヴェネツィアでは、カーニバルは6ヶ月間続いたという決まり文句には異議を申し立てるべきでしょう。この誤りは、ヴェネツィア人が、カーニバルの時以外でも色々な機会に、色々な場所で、仮面をつける権利や義務があった事によって、説明されます。ヴェネツィア人は自由を好んだので、仮面の着用で得られる自由を求め、権威もそれに合わせて柔軟に対応しなければなりませんでした。彼等はゆえに、カーニバルでなくとも年の多くの機会に仮面をつけていました。
&e&e&e&e&e&e&e&e&e悪魔的な祭&e&e&e&e&e&e&e&e&e
ありとあらゆる大饗宴との同義語であるカーニバルを性的な遊蕩を語らずして、紹介出来ないでしょう。ヴェネツィアは今以上に昔は、港町でした。その豊かさや活力がたくさんの人を引き寄せました。ヴェネツィアの“公共売春宿”はとても国際色豊かな客を集めました。17世紀の旅行家、ヘンリー・ヴァン・ブルデンレンの書いた事によると、
「どのような客でも取る娼婦のための全体が道があった。」モンテスキューが18世紀の初めに書いた所によると、「20年前から、ヴェネツィアでは娼婦1万人減っている。風俗の改善に原因があるのではなく、外国人がとても減少した事に由来する。」1500年には例えば、1万2千人の娼婦がおり、全体の人口の10番目の位置を占め、男娼と競争をしていました。サン・カッシアーノ地区に“おっぱい”通りや橋があるくらいです。確かに、ヴェネツィアにはたくさんの娼婦が、他の港町と同様に(アムステルダムやその他の都市)おりました。カーニバルの時期にはヨーロッパ全体から、娼婦とその客達が殺到したと書かれています。ヴェネツィアの女性は悪魔的な事で評判でした。この事は娼婦や高級娼婦の存在からのみでは説明できません。ヴェネツィアに関する幾つかの特徴的な事項を詳しく説明しましょう。娘が結婚するには持参金が必要で、その事で家族の財産が無くなってしまう可能性があった事、そして、彼女達の多くが修道院に入れられていたのですが、カーニバルの時は特に、修道院は仮面をつけた放蕩者にとても人気のあった所であった事などです。同様に、経済的な理由によって、幾らかの男性は独身でいる事を強いられました。この二つの事実から、ヴェネツィアの社会が普段も、そしてカーニバルの時は特に、暴力的で放蕩的であった事が説明できるでしょう。事実、ヴェネツィアには、強い女性蔑視に由来する強姦の文化が存在しました。デラ・カルザ協会(若者の協会)はしばしば暴力の原因でした。同様に、同性愛と男色がヴェネツィアでは広く行われていた事、法律で厳しく取り締まるようにしたが無駄であった事を説明しなければなりません。実際14世紀から16世紀にかけて、男色は、広場で首をはねられる死刑か、サン・マルコ寺院の鐘に吊るされるケーバという籠に入れられる拷問で罰せられました。その他、同時代に、男色の悪徳を破壊するがために、地区につき二人の貴族が武器の所有を許可されました。仮面の着用はあらゆる不品行を増長したのは確かです。
&e&e&e&e&e&e&e&e&e仮面、服装と仮装&e&e&e&e&e&e&e&e&e
仮面はカーニバルとヴェネツィアの最も代表的で、知られた装身具となっています。11世紀から、とても華やかだったのです。幾つかの理由により、私達はもっと仮面に興味を持つべきでしょう。もし、皆の頭の中で仮面とカーニバルが一体になっているならば、ヴェネツィアのケースについては、幾らか、この考えを調整した方が良いでしょう。カーニバルの時期以外に仮面を着用する事は、ヴェネツィアの歴史の中でとても前に遡り、18世紀と言われています。仮面はあらゆる規則に反する事を可能にし、共和国は対抗しましたが、無駄でした。男性が女性に仮装したり、娼婦や貴族がお金を持たずに乞食の振りをする事が出来ました。ヴェネツィアでは、カーニバル以外でも無秩序という実験がなされていたのです。最も代表的でカーニバルの時期以外でも着用できた唯一の仮面はラ・バウタでした。仮面という言葉の語源に戻りましょう。確かに、イタリア語のマスカという語は死人の魂を意味しています。この病的な範囲は、ラ・バウタという語にも表われており、仮面は正確にはラルヴァやヴォルト、すなわち仮面と幽霊と呼ばれています。ラ・バウタは、理論的には18世紀に貴族にのみ当てられた貴族用のマスクでした。この仮面はあらゆる階層の男にも女にも着けられ、ド−ジェも、取り調べ役や、司教や、宗教家のように皆、仮面を利用しました。仮面は 荘厳な宗教儀式や、ペストの流行時以外は一年中、普段から身につける着用具でした。すなわち、カーニバルの時期だけでなく、昇天祭の15日間と、幾つかの特例のおかげで、10月5日から6月中旬までの間、特に、共和国が催す例外的な祝典、とても重大な公式のイベントの時にはヴェネツィアの貴族達がタバロや劇場に仮面をつけて出席しました。そのような席では、女性は品位を高めるため、仮面をつける事が義務でした。
ラ・バウタはヴェネツィアの裕福な娘の結婚道具一式の一部でさえありました。仮面よりも服装の方が地味であるのは明白でした。ラ・バウタは最も贅沢なレースや絹物で飾られ、色々な奢侈取締り法が施行されてもお手上げでした。この仮面はあらゆる館とあらゆる放蕩への通行パスのような物でした。ラ・バウタ以外に、ヴェネツィアには象徴的なマスクがあります。
ラ・モレッタは沈黙を強制する道具でした。というのも、仮面は口でつなぎとめる小さなボタンのおかげで、顔に付けたままでいる事が出来たからです。しかし、この仮面は特にエロチックな胸元の開いた服と着用する事になっていました。
レ・ゼンダは一般的に素性の低い女性によって着用されていましたが、1782年、ロシアの未来の女帝は、サンマルコ広場の群集の中に、この仮面を着けてカーニバルを楽しみました。
ラ・グナガは男性が女性に仮装するのに使い、同性愛者達の青春時代を飾りました。
コメディア・デル・アルテも同様にカーニバルのマスクを沢山提供しました。今日のカーニバルは昔風の仮面と、いわばもっと個人的なスタイルの仮面で混じりあっています。カーニバルのこの分野では、その意味や、象徴や、趣向で変化があり、私達の生きる現代を物語っています。
&e&e&e&e&e&e&e&e&eカーニバルの昔と今&e&e&e&e&e&e&e&e&e
毎晩5時になると、仮面が現れて、皆サン・マルコ広場へと向かっていく事自体は、無気味な様相を残しているとしても、幽霊の恐ろしい様子とは全く違う物です。しかしながら、そこに悪魔払いの儀式の形式を見つける事が出来ます。昔のカーニバルはその独自の仮装のやり方がありましたが、現在のカーニバルは各人が好きなように自分の想像力に従って変装する自由があります。もちろん、仮装した人たちの中で、昔と同様に違反や倒錯の役割を見い出す事が出来ます。現実からの解放、厳しい社会制度からの解放(ヴェネツィアはスパイで溢れていて、そこから有名な“真実の口”が生まれたと言う事を覚えておいた方が良いでしょう。)タブーや規律が生む階層社会的な関係からの解放などです。今日の仮面も、ある種類の悪を追い払おうとしています。瞬間に作られる幻想は二重の意味があります。ひとつは、個人的なもので、もうひとつは、ヴェネツィアの街の為の意味です。たしかに、ヴェネツィアは、17世紀からと同様に今、歴史と決着をつけています。ある人にとっては、カーニバルは、未来のない都市の過ぎ去った時代を祝う死のダンスに似ています。それでも構いません。このように、ヴェネツィアのカーニバルの再生を解釈する事も事実、可能です。行列に参加したり、上記の色々な場所で喜びに浸る人たちにとっては、解釈は微妙に違うでしょう。私達の社会はもっと自由主義なので、完全な忘却の中で進化する、平凡な空気から逃げるために、魔法のような雰囲気の中に浸る、くすんだ事、不安定、日常を忘れる事に意味があるのです。もしも、ある人にとって、このカーニバルが、開催期間中、熱意なく幽霊を蘇生させようとする昔のカーニバルのみすぼらしく、味気ない幻影でしかないとしても、多くの人が、そこで酔う気持ちや忘却や熱情を見い出す事実を否定出来ないでしょう。各々が自分自身に、ヴェネツィアに、メディアを通じて世界中に一身を捧げる祭なのです。毎日の生活では平凡な存在が消え、羽やベールできらきら輝く栄光の人物になります。すなわち、各々が自分の欲望を、その限界をより良く受け入れるために現実にするのです。伝統の名の元、仮面とイベントの持つ違反的な面を後悔すべきでしょうか?それは自由が広まった事、動物に対する凶暴さが無くなった事を後悔する事で、すなわち文明の発達を後悔する事ではないでしょうか。確かに、ヴェネツィアのカーニバルのおかげで、社会的な不平等が廃止されるわけではありません。この祭は入場料だけを取り上げても、裕福な人に限られているものです。しかし、カーニバルは夢を見させてくれ、それが多分本質的な事なのです。
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