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週刊少年キング

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詳細 2022年11月11日 23:43更新

週刊少年キング

表紙イラスト
高荷義之  昭和38年7月8日(月)創刊号発売、特価30円。
 宇宙時代の少年雑誌を合い言葉に、表紙は高荷義之の零戦と戦艦大和。巻頭作品は辻なおきの「0戦はやと」の戦争アクション。
 創刊第2号は7月22日(月)発売、定価40円。
 なお、少年キングのタイトルは前年から月刊少年画報誌上で応募告知を行ない、4月に決定。
 創刊号の発売1週間前に、創刊号の宣伝としてB7判16ページのミニ本を120万部作成し、東京近辺で配布、ポスターをはじめ大PRを展開した。
 当時、先行の「サンデー」が41万5千、「マガジン」が39万を発行していたが、創刊号は定価40円のところを特価30円とし25万部を発行、98.0%とほぼ完売する。勢いをかって、2号・・30万部、3号・・35万部、4号・・40万部、そして5号は8月12日発売とお盆と重なるので特大号50円とし45万部を発行、83.9%の実売を成し遂げた。
 少年サンデー・少年マガジンと3大週刊誌のこの時期、マガジンのきめ細かな図解特集よりもサンデーの「伊賀の影丸」藤子・赤塚のギャグ漫画に人気が集まり、サンデーが少年週刊誌のトップとなっている。

昭和44年
5月18日号
定価70円  41年の「巨人の星」の登場により、マガジンが首位の座をサンデーより勝ち取り、少年週刊誌初の100万部突破を成し遂げたのは、大学生が漫画を読むと騒がれた昭和42年初頭。少年誌が月刊から週刊へ主戦場を移し始めた時代である。
 この時期、少年キングは39年に「サイボーグ009」「フータくん」、40年に「忍者あわて丸」「わんぱく先生」「秘密探偵JA」、41年に貸本屋むけの作家を起用しはじめ「アイアン・マッスル」「座頭市」、水島新司「下町のサムライ」が始まっている。
 42年「怪獣王子」そして少年画報より移籍の「怪物くん」のちにTV化で大人気となる「柔道一直線」と少年週刊誌3位ながら着実に地歩を固めた。

昭和45年
8月16日号
定価100円  昭和43年、隔週刊の少年ジャンプが創刊されたこの年、楳図かずお「猫目小僧」「ジャイアント台風」手塚治虫「ノーマン」。
 45年に「赤き血のイレブン」「アポロの歌」「江戸川乱歩シリーズ」「スパルタカス」「アパッチ野球軍」が始まり、少年マガジン・サンデーに引きずられ読者対象が高校生・大学生へと高くなっていった時期でもある。
 そして、この44・45年に、少年読者相手に永井豪「ハレンチ学園」本宮ひろ志「男いっぴきガキ大将」の2作品が一大ブームを巻き起こし、少年ジャンプはまたたく間に部数を伸長し、この45年正月号で150万2千部発行の少年マガジンの牙城を脅かす存在に浮上した。

昭和46年
8月29日号
定価100円  巨匠を揃えたマガジンに対し新人作家のお色気と暴力のパワーで立ち向かうジャンプ。
 昭和46年、小池一雄原作「木曜日のリカ」古谷三敏「マンダム親子」石川球太「巨人獣」、47年「輪球王トラ」「やぐら嵐」「おれの甲子園」「泣き虫とうちゃん」「ヘイ!ジャンボ」そして「サイクル野郎」と少年漫画の王道を地道に進めてゆく中、他の少年4誌の伸長が著しく、少年キングは45年7月より週刊化されたチャンピオンにも抜かれ、後塵を拝する事となる。
 48年は「おれとカネやん」ぐらいで、主な新連載がなく、49年には「スタンバイK助」「ここ一番」「アルプスくん」、手塚治虫の「紙の砦」が話題を集めた。
ジャンプ マガジン サンデー チャンピオン キング
165万 144万 105万 100万 62万

 そして、この49年からチャンピオンの快進撃が始まる。「ブラックジャック」「ドカベン」「がきデカ」「恐怖新聞」「あばしり一家」「750ライダー」
 瞬間的にジャンプを抜いたとの噂された49年末、チャンピオンは少年誌界のトップに立った。ライバル会社、秋田書店のチャンピオンの急伸に刺激された会社は、50年1月編集スタッフの総入替を断行。結果的には、これが命取りとなった。
 青年誌ヤングコミックを業界3位へと押し上げた編集長とそのスタッフを起用したのだが、建設の前に破壊を!地味ながら読者のついていた作品を次々に終了させ、間に合わせの作品で穴埋めすること3ヶ月、実売率が急下降し、社内に動揺が走る。

昭和56年
11月27日号
定価170円  最大発行部数70万部の少年キングだが、他紙が部数競争する中、草狩り場となって発行数も実売率も激減した。わずか1年もたず編集長は更迭、部長が兼任する形で旧来の少年漫画のスタイルへ戻そうと試みるが、一度離れた読者を呼び戻すのは並大抵のことでなく、長期低迷の始まりとなってしまった。
 52年正月に「銀河鉄道999」が始まり、「すくらんぶるエッグ」「まんが道」と、どうにか少年漫画の基本ラインに戻り始めた53年に落ち込みが止まり、前年比で上昇のきざしが出始める。
 この53年は少年誌界でも変動の大きかった年で、マガジンの路線変更の礎となる小林まことの「1・2の三四郎」が始まり、翌54年には高橋留美子がデビューする。
 漫画そのものが旧来のものから新しい作家のものへと変動を始めた時期で、キングでも聖悠紀の「超人ロック」がスタートする。また、この54年には「ギャラ」「若トラ」「青空ごっつん」、55年には神戸さくみ、村生ミオの感性あふれる作品に人気が集まり始める。ジャンプで鳥山明がデビューし、サンデー誌上では「うる星やつら」に続き、あだち充が人気を高めており、ヤング誌の創刊が相次いだのも54・55年の特徴である。
 「銀河鉄道999」の劇場用映画への監修から「銀鉄」の休載が度重なり、売れる時期であるにも拘らず、人気作品が未掲載という編集サイドの弱さが露呈し、少年キングそのもののパワーに陰りが出はじめた56年秋、「鉄銀」の連載終了と共に雑誌が衰退の方向へと流れ行く。
 五十嵐浩一をはじめ有望な新人が何人も登場したのだが、昭和57年「モ一度やろう」「つっぱり天神中」そして、小林よしのりのアダ花「風雲わなげ野郎」を最後に週刊少年キングは創刊以来19年、1007号をもって休刊することとなった。4月30日発売の最終号の表紙は松田聖子が飾った。
 雑誌への好影響を与えることができなかったものの、TV・映画と「銀河鉄道999」は空前の大ヒットとなり、コミックス全18巻で総発行数1000万部を超えた。フジ系のテレビ放送は53年9月14日スタートで56年3月26日まで2年半の間、人気番組として高視聴率を記録。また東映洋画系で54年8月4日封切りの劇場映画「銀河鉄道999」は宇宙戦艦ヤマトに続く大ヒットとなり、アニメブームの頂点を極めた。また2年後の56年8月1日の封切り「さよなら銀河鉄道999」も、前作には及ばぬものの、その夏の映画興行をにぎわすスーパーヒットを記録した。
http://www.shonengahosha.co.jp/outline/walking_02.html

●「週刊少年キング」(しゅうかん しょうねん-)は、少年画報社が発行した週刊漫画雑誌。1963年7月8日に創刊されて、1982年4月に休刊。同年に月2回刊の「少年KING」として復刊したが、1988年に再び休刊した。

1959年に創刊された「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」に続いて、1963年に創刊された第三の週刊少年誌である。先行誌が定価50円だったのに対して、創刊号は30円、通常号は40円と安価にして初期読者の獲得を狙った。誌名の「少年キング」は、1963年7月に「少年画報」誌上で、「少年フレンド」「少年ファイター」「少年ルック」「週刊少年画報」と並んで候補として挙げられた中から、読者の人気投票で決定したもの。後続の1968年創刊の「週刊少年ジャンプ」、1969年創刊の「週刊少年チャンピオン」とともに週刊漫画雑誌5誌体制を1970年代から1980年代にかけて築いたが、部数的には低迷して常に最下位であった。

双葉社の大人向け週刊誌「週刊大衆」の編集デスクだった多田三郎を週刊誌のノウハウを持つとしてスカウトし、その4年後に創刊された。先行する「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」に部数が奪われていた月刊誌「少年画報」の週刊誌版という位置付けであった。創刊号の掲載作品は、「少年画報」で「0戦太郎」を連載して好評を博していた辻なおきの『0戦はやと』、吉田竜夫の『忍者部隊月光』、望月三起也の『ハヤブサ』、堀江卓の『忍者シデン』、森田拳次の『おんぼろ記者ポッポー』など、その多くが「少年画報」の執筆メンバーである。

創刊直後から手塚治虫や、石ノ森章太郎・藤子不二雄ら人気漫画家が勢ぞろいしたトキワ荘グループを積極的に起用し、さらにはテレビ化もされた梶原一騎の『柔道一直線』『赤き血のイレブン』、藤子不二雄Aの『フータくん』、『怪物くん』、つのだじろうの『忍者あわて丸』(『花のピュンピュン丸』)、梅本さちおの『アパッチ野球軍』等のヒット作に恵まれた事もあって、創刊時には25万部だった発行部数が、70万部を最高に、1970年代半ばには45万部から60万部弱に達した。「少年画報」の懸賞小説でデビューした梶原一騎は、売れっ子だったにも関わらず、少年画報社に恩義を感じ、「少年キング」の雑誌の格以上に力を貸していたという。しかし、マンガ人口が増加した時代にあって、他誌が急成長して150万部以上を売り上げる中、「少年キング」は部数的に引き離された。

さらにライバル誌だった「週刊少年チャンピオン」が『ドカベン』『ブラック・ジャック』『がきデカ』と1970年代半ばに大ヒットを連発して大躍進。200万部以上を売り上げて、「週刊少年ジャンプ」を抑えて、一躍少年漫画誌のトップに登りつめる。「週刊少年チャンピオン」の版元が中堅の秋田書店だったことから、同じく中堅出版社の少年画報社は刺激を受けて、「少年チャンピオン」に続けとばかり1975年1月の「少年キング」の誌面の改革を断行。

しかしこれが裏目に出て失敗し、逆に長期低迷を招いてしまう。編集部を一新して、新しく投入された青年漫画誌「ヤングコミック」編集長が、根強い支持を受けていた連載を次々と打ち切ったことで読者離れを起こし、一方、青年誌で活躍していた漫画家による新連載が新規読者を開拓できず、1年で約20万部が減る激減となった。1977年に始まった松本零士のヒット作『銀河鉄道999』で一時的に持ち直すが、それも同作の連載終了までだった。休刊した年の1982年には、部数が22万部にまで下落。採算ラインの30万部を割り込み、本誌の赤字を連載をまとめた単行本で補填するという状況で、遂に休刊に至った。

1970年代には望月三起也の『ワイルド7』、楳図かずおの『猫目小僧』、荘司としおの『サイクル野郎』が牽引。SFとアニメブームが沸き起こった1970年代末から1980年代にかけては、松本零士の『銀河鉄道999』、聖悠紀の『超人ロック』が人気連載だった。「少年KING」時代の看板連載だった吉田聡の『湘南爆走族』は「ヤングキング」が引き継いだ。

「少年キング」でデビューを飾った作家には、小池一夫、あだち充、池上遼一、北見けんいち、神戸さくみ、五十嵐浩一、巻来功士らがいる。

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参考文献
斎藤貴男『夕やけを見ていた男 −評伝梶原一騎』(新潮社、1995年)
「別冊宝島 70年代マンガ大百科」(宝島社、1996年)
新保信長編集「消えたマンガ雑誌」(メディアファクトリー、2000年)
本間正夫「少年マンガ大戦争 −『少年画報』編集長・金子一雄の築いた王国」(蒼馬社、2000年)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0" より作成
カテゴリ: 少年キング

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