三井高利(みついたかとし、元和8年(1622年) - 元禄7年5月6日(1694年5月29日))は、江戸時代の商人である。姓は藤原を称する。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。
豪商三井の歴史は六角氏の旧臣と言われている三井高安の長男・高俊が元和のはじめころ武士をすて伊勢国松坂で質屋と造り酒屋を開業したところから始まる。
伊勢国松坂(現 三重県松阪市)で高俊の四男として生まれた。江戸で釘抜三井家を創業した長兄の三井高次(三郎左衛門)に丁稚奉公し、番頭となる。のちその商才を恐れた兄達に放逐され、松坂で金融業を営む。
1673年、江戸本町一丁目に呉服店を開業し、屋号を越後屋(のちの三越)とする。現金掛値無し、反物の切り売りなどの新商法導入して繁盛する。当時、代金は後日の掛け(ツケ)払い、売買単位は1反単位が当たり前であった呉服業界においては斬新であり、顧客に現金支払いを要求する一方で良質な商品を必要な分だけ安価で販売した(ツケの踏み倒しの危険性がないためにそのリスク分を価格に上乗せする必要性がなかった)ために、顧客にとっても便利な仕組みであったのである。後に、高利は後に京都に移り住んで仲買の仕事を専門に扱い、江戸の店を長男高平らに任せるようになった。
だが、この繁栄ぶりに嫉妬した同業者からは迫害され、組合からの追放や引き抜き、不買運動などを行われる。だが、側用人牧野成貞の推薦によって幕府御用達の商人となってからはこうした動きも影を潜めた。後に両替商も開業する。73歳で死去。
肖像は三井文庫所蔵。
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【履歴・事績】
元和8(1622)年、伊勢国松坂に生まれる。寛永12(1635)年、14歳のとき江戸に下って、長兄・三郎左衛門俊次の江戸店に手代奉公として入る。寛永16年、次兄が郷里の老母を養う為に帰郷すると長兄の店の経営に参加。以後、商才を発揮して経営を拡大。はじめ元金100貫目ほどであった資産をおよそ十ヵ年で1500貫目(金にして約二万五千両)の身代に伸ばし、またみずからも二千両の資産を蓄えた。やがて自ら独立を望んだが長兄に反対され、また、慶安2(1649)年に三兄・重俊が没した為、代わって母を孝養するという理由で松坂に帰郷。家業を継いで金融業と商業に手をのばした。貸付の規模は大きく、諸藩の武士個人を対象にするのみならず、地元松坂の領主である紀伊徳川家を筆頭に、津の藤堂家、肥後の細川家など大名家との接触を持つにまで至っていた。また武士以外にも農民への郷貸しなども行っていた為、その利益は莫大であったという。
延宝元(1673)年、念願の江戸進出を果たし、既に長兄のもとで働いていた高平、高富らに江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」を開業させるとともに、自身も京の室町薬師町にも仕入店をもうけ、松坂を本拠にすえて金融業を続ける一方で江戸店の指揮をとった(これはのちに三井越後屋を略して、現在に至る大手百貨店「三越」の名称の由来となる)。また商法改革を行い、それまでの呉服店の商慣習だった得意先からの注文後に好みの品物を特産する「見世物商い」や、得意先のところへ商品を持参する「屋敷売り」、そして代金の6月・12月のニ節季払い、或いは十二月の極月払いによる決済方式を一掃し、諸国の商人への卸売り(「諸国商人売」)や店頭での小売・切り売(「店前売」)、現金掛値をなくした薄利多売の方式を編み出した。この方法により、資金と商品の回転がすみやかになり、当時の都市社会に新しく勃興しつつあった「町人」という階層を対象とした大量の取引きを可能にした。天和3(1683)年、駿河町に店舗を移して両替店を開いたが、貞享3(1686)年に高利も本拠を松坂から京都に移して両替店を併置した。
貞享4(1687)年、呉服用達を勤める幕閣側用人・牧野成貞の推挙により、将軍家の服飾等の調達を行う幕府御納戸御用達に取り立てられ、元禄2(1689)年には元方御納戸御用達を命ぜられた。さらに元禄4年、幕府の大坂御金蔵銀御為替御用を請け負う。これは幕府の上方と江戸間の公金輸送を為替で行なう業務で、幕府の大量の公金を無利息で運用しうるものであった為、町人として特権を認められていた三井家にとっては公私ともに莫大な利益を与えることとなった。元禄7(1694)年5月6日、73歳で没。彼一代で三井は当代屈指の豪商となり、のちに三井財閥の祖と称された。その遺産は彼個人の分だけで約4900貫(金8万両相当)と推定されている。京都市左京区真正極楽寺真如堂に墓がある。
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