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エイティーズ (80年代洋楽)コミュの亡くなってしまったアーティスト

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懐かしい80年代のあの人、実はもういなかったりして・・・
あの頃活躍した人の多くはもう50代に突入しているので、
ちらほらそういう話題も聞かれるようになりました。
みなさんのお持ちの情報を持ち寄って、その方を偲びましょう。

ボクが現在のところ把握しているのは、
フレディ・マーキュリー氏、ロバート・パーマー氏、ローラ・ブラニガン氏、マイケル・ハッチェンス氏(INXSのボーカル)、そして未確認なんですけれど、あのポール・ヤング氏も数年前に亡くなっているとか・・・。
他にもまだまだいらっしゃるんでしょうか?

コメント(191)

>>[150]
とてもショックで、何度も涙があふれました。
デッド・オア・アライヴのスティーヴ・コイが死去 56歳 - amass 2018/05/07
http://amass.jp/104641/

R.I.P.
ホイットニー・ヒューストンのオフィシャル・ドキュメンタリー映画『Whitney』 日本公開決定 - amass 2018/10/11
http://amass.jp/111760/
なにがショックやったかと言えば
2009年のMJ王冠の死やわぁ(T-T)いまだにひきづってる。
ザ・カーズのリック・オケイセックが死去 - amass 2019/09/16
http://amass.jp/125639/
リック・オケイセックの訃報を受け、さまざまなミュージシャンが追悼コメントを発表 - amass 2019/09/16
http://amass.jp/125640/
Im nin' aluがヒットしたオフラ・ハザは既出ですか?
2000年2月23日に42歳で他界されましたね。
東京音楽祭のグランプリを獲りました。
きれいな方でしたね。
 初投稿が告知ですみません。
 9月15日に急逝したザ・カーズのリック・オケイセックを偲んで、有志で追悼イベントを緊急開催することにしました。
 カーズをお好きなミュージシャンの方々と、ファンサイトを運営していた管理人さんをゲストにお招きした、トークショー中心の内容です。
 都内のみのイベント、開催が迫ってからの告知で恐縮ですが、ひとりでも多くのファンの方々にお越し頂き、リックについて語り合えればと思っております。よろしくお願いいたします。

"A Tribute to Ric Ocasek"
2019年10月21日(月)
会場:下北沢 風知空知
http://fu-chi-ku-chi.jp
「ロクセット」のマリー・フレデリクソンさん死去:朝日新聞デジタル 2019年12月10日 22:29
https://www.asahi.com/sp/articles/ASMDB775FMDBUHBI03Q.html
http://mixi.at/ajwScK9

スウェーデンの男女ポップスデュオ「ロクセット」のマリー・フレデリクソンさんが9日に亡くなった。61歳だった。2002年に脳腫瘍(しゅよう)を患い、長年闘病を続けていたという。

 1958年生まれ。84年にソロデビューし、国内で成功を収めた後、86年にペール・ゲッスルさんとロクセットを結成して海外に進出。アルバム「ルック・シャープ!」に収録された「ザ・ルック」が米シングルチャートで1位を記録し、映画「プリティ・ウーマン」の挿入歌となった「イット・マスト・ハブ・ビーン・ラブ」など、次々にヒット作を生み出した。日本でも95年に初来日公演をするなど人気があった。

 マネジメント会社の発表によると、脳腫瘍の治療後、ツアーに復帰して精力的に活動していたが、06年には健康管理に専念するよう医師の助言を受けていたという。(ロンドン=下司佳代子)


R.I.P


>>[166]
訃報なので、いいねを押しませんでした。
カッコ良かったですね。

自分と年齢的に近い方が、亡くなると「もうすぐ、ワシexclamation & question」とか思うです。
70〜80年代に活躍した方々も、やはりお歳をめされてますから、これからはこうした訃報が、多くなり寂しい思いを沢山しそうですね。
昨年9月、エディ・マネーさんも亡くなっていました。
 
http://www.jiji.com/jc/article?k=2019091400405&g=int
 
>>[166]
数年前に脳腫瘍から復帰した時のライブ映像を観たのですが、あの歌声を失ってて感動と言うより悲しくて泣きそうになったのを思い出しました。

彼女の歌唱力はそんなに高くないかもしれないですけど個人的には心に響く歌声でした。

御冥福をお祈りします。
「I Love Rock ’n’ Roll」の作者、アラン・メリル、新型コロナウイルスにより死去
BARKS 2020.3.30 10:02
https://www.barks.jp/news/?id=1000180586

Bill Withers 享年81才

個人的には、“Lovely Day”が好きですが、80年代ではGrover Washington Jr. 参加の“Just the two of us”が有名ですよね表情(嬉しい)

https://youtu.be/Uw5OLnN7UvM

いろんなアーティストに、カバーされてます表情(嬉しい)

R.I.P.
エディ・ヴァン・ヘイレンさんが死去 1011
2020年10月07日 06:20 ナリナリドットコム
https://www.narinari.com/smart/news/2020/10/61834/all#more
http://mixi.at/agfiLgW

1980年代に数々のヒットを飛ばし、日本でも絶大な人気を誇った米ロックバンド、ヴァン・ヘイレンのエディ・ヴァン・ヘイレンさんが10月6日に亡くなったことがわかった。65歳だった。

長男でベーシストのウルフギャング・ヴァン・ヘイレン(29歳)が、Twitterを更新し、「私はこの報告をすることが信じられませんが、私の父、エドワード・ルドウィック・ヴァン・ヘイレンは、今朝、がんとの長く困難な闘いに敗れました」と、父の死を報告。

そして「最高の父親でした。ステージの内外で彼と共に過ごした時間は素晴らしい贈り物」とつづり、大きな喪失感に襲われた、辛い胸の内をつづっている。

エディ・ヴァン・ヘイレンさんは1955年、オランダ生まれ。1960年代に米カリフォルニアへ移住。1972年に兄弟でロックバンド“ヴァン・ヘイレン”を結成した。「ジャンプ」などのヒット曲を多く生み、全世界で8,000万枚以上のアルバムセールスを記録。2007年にはロックの殿堂入りを果たしている。
はじめまして。僕はプリンスが入院中に亡くなったので、体調悪化しそうになりました(かなり前の話です)。しまった思ったのは、「サインオブザタイムス デラックス」を購入しそこなったことです。発売当日にタワーレコードに行ったのですが、その時金欠でメッチャ迷ったのですが買わずでした。う〜ん、ジャケット記念に欲しいです(曲は、Amazon musicでフルで聴けるのですが。)。
後、ロバートパーマーさん。The Power Stationとして来日した時、お元気でしたのに。合掌。
数々の大ヒット曲を生み出したジム・スタインマンが亡くなったようです!日本でも麻倉未稀の「ヒーロー」や椎名恵の「今夜はエンジェル」で有名になりました。とても残念です。
http://amass.jp/146344/
今は亡き80年代活躍のアーティスト100人 (1980-2021)
ZZ-TOPのダスティが亡くなったなんて、
悲しいよ。
英ロックバンド「デペッシュ・モード」のアンディー・フレッチャーさん死去 - 2022年05月27日 11:46 日刊スポーツ
https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202205270000333_m.html
https://mixi.at/w8vFqep

英ロックバンド、デペッシュ・モード(Depeche Mode)のキーボード奏者、アンディー・フレッチャーさんが亡くなったことがわかった。

同バンドは27日(日本時間)に公式ツイッターで「私たちの大切な友人であり、家族であり、バンドメンバーであったアンディー“フレッチ”フレッチャーの早すぎる死に、私たちはショックを受け、深い悲しみに包まれています」と伝えた。

「フレッチは真に純粋な心を持ち、サポートが必要な時、会話が弾む時、大笑いする時、冷たいビールを飲む時、いつもそこにいてくれました」としのび、「私たちは彼の家族と共にあります。この困難な時期に、彼らのプライバシーを尊重し、彼らのことを考え続けるようお願いします」と呼びかけた。

フレッチャーさんは同バンドの創設メンバー。1980年代にヒット曲を連発し、世界的人気バンドに。2020年には「ロックの殿堂」に選ばれた。
英ロックバンド「Yes」ドラマーのホワイトさん死去 ジョン・レノンと「イマジン」で共演 - 2022年05月27日 09:46 日刊スポーツ
https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202205270000181_m.html
https://mixi.at/w8vFeGE

英ロックバンド、Yes(イエス)のドラマー、アラン・ホワイトさんが26日、米国の自宅で死去した。72歳。家族がSNSで明らかにし、欧米メディアが伝えた。闘病生活を送っていたという。

49年生まれ。69年、ジョン・レノンと妻オノ・ヨーコさんのバンド「プラスティック・オノ・バンド」に、ジョンからオファーを受けて参加。ジョンのソロ代表作「イマジン」などのアルバムでもドラムを演奏した。その後、ジョージ・ハリスンさんの代表作「マイ・スウィート・ロード」を含むアルバム「オール・シングス・マスト・パス」にも参加している。

72年にメンバー脱退を受けてYesに加入。プログレッシブロックに移行したバンドの中核として活躍した。2017年にはバンドとして、「ロックの殿堂」入りを果たしている。
バンド創設メンバーが死去、ジョン・ボン・ジョヴィ追悼
2022年06月07日 08:15 ナリナリドットコム
https://www.narinari.com/smart/amp/2022/06/72368/
https://mixi.at/w9NMxje

アレック・ジョン・サッチが死去した。70歳だった。ボン・ジョヴィのベース奏者だったアレックの訃報を6月5日、バンドのフロントマンであるジョン・ボン・ジョヴィ(60歳)が伝えた。

「アレックはバンドの結成に不可欠な人だった」
「正直なところ、僕らは彼を通してお互いの道を見つけたんだ…」
「今日その特別な思い出が、僕に笑顔と涙をもたらしている」
「彼がいなくなって、本当に寂しいよ」

そうジョンはツイッターに綴っている。

アレックはドラマーのティコ・トーレス(68歳)の幼なじみで、リッチー・サンボラ(62歳)がギタリストとして加入したのも、アレックがライブに連れてきたことがきっかけだったという。アレックは、ティコとともにファントムズ・オペラのメンバーだった一方、元ボン・ジョヴィのメンバー、リッチーと一緒にメッセージというバンドでも演奏していた。

ボン・ジョヴィに参加する前、アレックはセアビルのフンカブンカ・ボールルームの支配人をしており、ジョン・ボンジョヴィ・アンド・ザ・ワイルド・ワンズをブッキングしていた。アレックは1983年のボン・ジョヴィ結成時から在籍し、1994年に脱退したが、2001年、そして2018年には、ロックンロールの殿堂入り式典で再会している。

アレックは当時こう語っていた。

「何年も前にジョン・ボン・ジョヴィが僕に電話をかけてきて、バンドに誘ってきた時、彼がどれだけ真剣かがわかった。彼には伝えたいビジョンがあったんだ」
「そのビジョンの一部になれたことを、僕はとてもうれしく思っているよ」

アレックは、ボン・ジョヴィの一員としてニュージャージーの音楽シーンで大きな存在となっていった。

ボン・ジョヴィは、ジョン、ティコ、ヒュー・マクドナルドに加え、キーボードにデヴィッド・ブライアン、ギターとトークボックスにフィル・Xを迎え、今も活動を続けている。
オリビア・ニュートン・ジョンさん死去 73歳 「そよ風の誘惑」 (朝日新聞デジタル - 08月09日 06:01)
https://www.asahi.com/amp/articles/ASQ891V12Q89UHBI002.html
https://mixi.at/wd3gI2C

 「そよ風の誘惑」や「フィジカル」といったヒット曲で知られる歌手、オリビア・ニュートン・ジョンさんが8日朝、米カリフォルニア州で亡くなった。73歳だった。長らく乳がんと闘っていた。遺族がフェイスブックで発表した。

 英国生まれ、豪州育ち。1970年代はカントリー系の楽曲が支持を集め、74年の「愛の告白」ではグラミー賞を獲得。俳優としても、78年の学園ミュージカル映画「グリース」に出演するなど実績を残した。ディスコ調の「フィジカル」は81〜82年、米ビルボードで10週連続1位という快挙を成し遂げた。

 日本との関係も深かった。76年にソロとして初来日。2010年と15年にツアーを行うなど、来日は10回以上に上る。15年は東日本大震災からの復興を祈り、福島でも公演をした。

 尾崎亜美さんが作詞・作曲を手がけた杏里さんの「オリビアを聴きながら」で触れられたことでも知られ、21年11月には「音楽文化の発展、友好親善に寄与した」として、旭日小綬章を贈られた。

 初めてがんと診断されたのは92年のこと。遺族の声明には「30年以上にわたる乳がんとの闘いで、勝利と希望のシンボルになった」と記されている。(ニューヨーク=藤原学思)
ポインター・シスターズの創設メンバー、アニタ・ポインター死去 - amass 2023/01/01
https://amass.jp/163526/

ポインター・シスターズ(Pointer Sisters)の創設メンバー、アニタ・ポインター(Anita Pointer)が12月31日に死去。家族が声明を発表。74歳でした。

アニタの広報担当ロジャー・ニールはThe Hollywood Reporterの取材に対し、「彼女は癌と非常に勇敢な戦いをしました。亡くなった時、彼女は家族に囲まれていました」と語っています。

以下、アニタの姉ルース、兄弟アーロンとフリッツ、孫娘のロキシー・マッケイン・ポインターによる共同声明より。

「私たちはアニタの喪失に深く悲しんでいますが、彼女が今、娘のジェイダと姉妹のジューン、ボニーと一緒にいて安らかに眠っていることを知って慰められています。彼女は私たち全員を長い間、身近に、そして一緒にいてくれた存在でした。

私たち家族に対する彼女の愛は、私たち一人一人の中に生き続けるでしょう。この悲しみと喪失の時期、どうか私たちのプライバシーを尊重してください。天国はアニタがいることで、より愛に満ちた美しい場所となります」

アニタは1948年1月カリフォルニア州オークランド生まれ。6人きょうだいの4番目で、彼女は姉のルース、妹のボニー、ジューンと共に幼い頃からゴスペルに親しみ、聖歌隊で歌っていた。

ポインター・シスターズの起源は、ボニーとジューンが「ポインターズ・ア・ペア」という名前でナイトクラブでパフォーマンスを始めた1969年にさかのぼる。すぐにポインター・シスターズと改名し、妹のアニタが加わってトリオに。アトランティック・レコード契約後の1972年12月、ルースが加入して4人組となった。

1972年にブルーサム・レコードに移籍。1973年にデビューアルバムをリリースし、アラン・トゥーサンが作曲した「Yes We Can Can」はビルボードのポップチャートで11位を記録するヒットとなった。1975年には「Fairytale」でグラミー賞の最優秀カントリー・ヴォーカル・グループ賞を受賞した。1976年、ポインター・シスターズは『Car Wash』で長編映画デビューを果たした。

1977年にボニーがソロ転向のため脱退、ポインター・シスターズは3人組となるが、その後も「Jump (For My Love)」「Automatic」「Fire」「Slow Hand」などのヒットを放つ。1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、「We Are The World"」のコーラスを担当した。

2015年、アニタは体調不良のためグループから引退した。

ポインター・シスターズはキャリアを通じて3つのグラミー賞を受賞。2005年にはヴォーカル・グループの殿堂入りを果たし、ソウル・トレイン・ホール・オブ・フェイムにも殿堂入りした。
『トップガン』の「Danger Zone」「愛は吐息のように」の作詞家 トム・ホイットロック死去 - amass 2023/02/24
https://amass.jp/164799/

映画『トップガン』から生まれたヒット曲、ケニー・ロギンス(Kenny Loggins)の「Danger Zone」と、ベルリン(Berlin)の「Take My Breath Away(邦題:愛は吐息のように)」の作詞家として知られるソングライター/ミュージシャンのトム・ホイットロック(Tom Whitlock)が死去。68歳でした。

米ミズーリ州スプリングフィールドの斎場Gorman-Scharpf Funeral Homeのお悔やみ欄にて、2月18日にテネシー州ギャラティンで亡くなったことが明らかにされています。死因は発表されていませんが、地元の新聞Springfield News-Leaderによると、近年はアルツハイマー病と闘っていたようです。

トム・ホイットロックことトーマス・ロス・ホイットロックは1954年2月ミズーリ州スプリングフィールド生まれ。幼い頃から音楽を始めた。10代のころはバンドを渡り歩き、地元でライヴをしたり、作曲をしたりしていた。大学卒業後、レコード会社との契約を求めてロサンゼルスに移り住む。しかし、レコード契約は実現せず、音楽理論を学ぶために学校に戻った。その後、ロサンゼルスに渡り、念願のレコード契約が成立したが、その後は失速してしまう。

転機となったのは、ジョルジオ・モロダー(Giorgio Moroder)との出会いだった。モロダーは、この時点ですでにアカデミー賞受賞者、レコードプロデューサーとして成功していた。ロサンゼルスのレコーディングスタジオで出会った際、モロダーはフェラーリのブレーキに不満を抱いており、ホイットロックはそれを直してあげると申し出る。これがきっかけとなり、ホイットロックはモロダーのスタジオで働くようになった。

モロダーがサウンドトラックを手がけた映画『スカーフェイス』『フラッシュダンス』『ビバリーヒルズ・コップ』では、ホイットロックはスタッフとして参加した。

モロダーが『トップガン』の仕事を始めたとき、彼はホイットロックに歌詞を提供するよう依頼した。ホイットロックとモロダーは『トップガン』のために5曲を共作。ケニー・ロギンスの「Danger Zone」と、ベルリンの「Take My Breath Away(邦題:愛は吐息のように)」は大ヒットを記録した。「Take My Breath Away」はアカデミー歌曲賞およびゴールデングローブ賞 主題歌賞を受賞した。

ホイットロックは長いキャリアを通じて様々なアーティストのために書き、100曲以上の曲を作った。グラハム・ナッシュ、ボニー・タイラー、マイケル・マクドナルド、レイ・チャールズ、ダイアナ・ロス、ロジャー・ダルトリーなど、多くのアーティストがレコーディングしている。

1987年の映画『オーバー・ザ・トップ』に収録されたサミー・ヘイガーのシングル「Winner Takes It All」もホイットロックとモロダーの作品。

また、1988年の夏季オリンピック(「Hand In Hand」)と1990年のFIFAワールドカップ(「To Be Number One」)の公式テーマソングもホイットロックとモロダーの共作。

ボビー・コールドウェルが死去 - amass 2023/03/16
https://amass.jp/165264/

ボビー・コールドウェル(Bobby Caldwell)が死去。コールドウェルのSNSアカウントで発表。71歳でした。

彼の代理人によると、3月14日の夜、ニュージャージー州の自宅で眠るように亡くなったそうです。サイトTMZが報じています。

以下、妻のメアリー・コールドウェルの声明より

「ボビーが自宅で息を引き取りました。 私は彼が私たちのもとを去るとき、彼を腕の中でしっかりと抱きしめました。 私は永遠に心を痛めています。 長年に渡り、たくさんの祈りを捧げてくださった皆様に感謝いたします。 彼は6年2ヶ月の間、“FLOXED”に侵され、健康を害していました。神とともに安らかに、私の愛」

サイトvarietyによると、フロックス/フロキシング(Floxing)は、「フルオロキノロン系抗生物質の副作用によるミトコンドリア損傷と酸化ストレスによって体内で発生するもの」だという。

サイトTMZやコールドウェルのSNSアカウントによると、コールドウェルは、痛みを伴う神経障害と足首の腱の断裂のため、5年ほど歩けなかったという。昨年、彼のチームはコールドウェルが2017年に処方された抗生物質に悪い反応を示したことを明らかにしていました。それがアキレス腱の断裂を引き起こし、神経障害につながったという。そういった状況にもかかわらず、ボビーは車椅子、杖、そしてヘルパーの助けを借りながらパフォーマンスを続けていました。しかし、残念ながらボビーの状態は悪化していき、2021年夏に、それ以降のコンサート出演をキャンセルすることを発表していました。

「What You Won't Do for Love(邦題:風のシルエット)」「スペシャル・トゥ・ミー」など、今もなお色褪せることのない大ヒットナンバーで絶大な人気を誇った“ミスターAOR”ことボビー・コールドウェルは1951年8月ニューヨーク生まれ。幼少の頃、父親からプレゼントされたギターがきっかけで音楽に目覚める。

22歳の時にリトル・リチャードのバンドに参加し、1976年に「The House is Rockin'」でデビュー。1978年に発表されたデビュー・アルバム『What You Won't Do for Love(邦題:イヴニング・スキャンダル)』の時点で、すでにメロディ・メイカーとしての才能を開花。ソウルフルなヴォーカルと完成度の高いサウンドがAORファンを魅了した。

80年代には『Cat in the Hat(邦題:ロマンティック・キャット)』『Carry On』『August Moon 』を発表。またコンポーザーとしても活躍し、86年にはピーター・セトラとエイミー・グラントのデュオに提供した「Next Time I Fall」が全米チャート1位に輝き名実ともにコンポーザーとしての地位を確立した。コンポーザーとしての代表作としては、このほか、ボズ・スキャッグズに提供した「Heart of Mine」などがある。

90年代以降もアルバムを複数リリース。日本では非常に人気が高く、AOR界ではクリストファー・クロスやボズ・スキャッグスと並び立つ存在だった。

“ミスターAOR”ボビー・コールドウェル氏死去 71歳 抗生物質の副作用から6年の闘病の末 - スポニチ 2023/03/16
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/03/15/kiji/20230316s00041000116000c.html

 米国のミュージシャン、ボビー・コールドウェル氏が死去したことが分かった。同氏の公式ツイッターで報告された。71歳だった。

 コールドウェルの妻・メアリーさんが「ボビー自宅で息を引き取りました。彼が私たちの元を離れる時、私は彼をしっかりと抱きしめました。私は永遠に悲嘆に暮れています。長年にわたり、多くの祈りを捧げてくださった皆様に感謝します。彼はFLOXEDでこの6年と2カ月間、健康を害していました。神とともに安らかに、私の愛する人よ」とつづられた。

 コールドウェル氏は51年ニューヨークで生まれ、22歳の時にリトル・リチャードのバンドに参加し、76年「ザ・ハウス・イズ・ロッキン」でデビュー。78年のシングル「風のシルエット(What You Won't Do for Love)」がヒットし、AORの新星として注目。のちにボズ・スキャッグズと並んで“ミスターAOR”と呼ばれる。86年にはピーター・セトラとエイミー・グラントに提供した「Next Time I Fall」が全米チャート1位に輝いた。87年公開の市川昆監督作品「竹取物語」の「ステイ・ウィズ・ミー」の作詞、作曲もしている。

 コールドウェル氏は、17年に処方された抗生物質の副作用でアキレス腱を断裂し、神経障害を起こしていたことが報告されていた。その後も車椅子や杖を使いながら活動を続けていたが、復活はならなかった。



ザ・スミスのベーシスト死去、長年にわたりすい臓がん闘病 (ナリナリドットコム 2023年05月20日 06:12)
https://www.narinari.com/smart/amp/2023/05/79525/
https://mixi.at/w8ox5oC

ザ・スミスのベーシスト、アンディ・ルークが死去した。59歳だった。

同バンドで一緒に活躍したギタリスト、ジョニー・マーが友人の訃報をツイッターでこう伝えている。

「深い悲しみと共に、アンディ・ルークがすい臓がんとの長い闘病生活の後亡くなったことをお伝えします。アンディは、彼を知る人からは優しく美しい魂を持った者として、音楽ファンからは素晴らしい才能を持ったミュージシャンとして思い出されることでしょう。この悲しみの時にプライバシーへの配慮をお願いします」

モリッシーをフロントマンとして、ジョニーを中心に1982年に結成されたザ・スミス。アンディは同バンドの初のコンサートの後に加入、そのプレイスタイルは英マンチェスター発の同バンドの要であり、ザ・キラーズやThe 1975といった後世のバンドに多大な影響を今も与え続けている。

ヘロイン中毒の影響で、1985年に2週間のみ同バンドを離れたアンディだが、「ザ・クイーン・イズ・デッド」のリリース前に復帰を果たす。ジョニーは同作でのアンディの演奏を「他のどのベース奏者にも真似できないもの」と絶賛していた。その後、同バンドは1987年にアルバム「ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム」を完成させるも、発売前に解散となっていた。

同バンドの他にもアンディはシニード・オコナーや、ザ・ストーン・ローゼズのイアン・ブラウンらと共演していた。

一方、ジョニーは以前、ザ・スミス再結成に関して巨額オファーを受けていたものの、実現には至らなかったとして、「俺たちは3公演か5公演ぐらいで5000万ドル(約69億円)をオファーされたこともあるよ」と明かしていた。1989年にはアンディとドラムのマイク・ジョイスがモリッシーとジョニーに対して、バンドの印税の1割以上の支払いを求めて裁判を起こし勝訴するなど、確執が絶えなかったことでも知られている。

ティナ ターナーが亡くなってしまったexclamation
あの力強い歌声、素敵なダンス、
楽しかった思い出は、あなたの歌がいつも一緒でした

ご冥福をお祈りいたします。
>>[188] そうなんですかお悔やみ申し上げます。
エリック カルメンさんの訃報が届きましたね、
大好きな80sソングの偉大な方々が、どんどんと鬼籍に入られるのは、自分が歳を重ねるので、仕方ないのは分っているが、やはり寂しです。
hungy eyes とても好きな曲を聴きながら、冥福をお祈りしています。
>>[190]情報をありがとうございます涙 エリックカルメンさん素敵な音楽をありがとうございました。安らかにお休みくださいねと申し上げます。

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