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「自由クラス理論」非標準集合論コミュの小林さんとの議論 4

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 Re: FC 投稿者:小林泰三  投稿日: 5月30日(日)02時02分53秒

 

>河本さん

>  FCは単純だよ。 (^^) 

 

その点が気に入りました。

 

 

 

 自然数 投稿者:河本  投稿日: 6月 1日(火)21時30分1秒

 

 

 自然数 : 

 自然数の定義を、「0」と「N+1」の二概念を定義することによって行いたいと

思います。

 

 >「0」  

 要素を持たない集まりの作るクラスが0です。

 式で書くと、

    { } ma 0         −0−

 

 >「N+1」  

 集まりNがクラスnを作る

    N ma n 

 とすると、

    N+1=N U {n}      −D−

 となります。

 

 これらの定義で0から順番に自然数を定義できます。

 

 0式とD式より、

    { }+1={ } U {0}={0}  

    {0} ma 1         −1−

 要素を持たない集まり{ }は「空」集まりで、それが作るクラスが0です。

 

 空集まりに1を加えると要素一個を持つ「一」集まりになり、それが作るクラスが

1となります。>1式

 

 さらに、1式より、

    {0}+1={0} U {1}={0,1} 

    {0,1} ma 2         −2−

 一集まりに1を加えると要素二個を持つ「二」集まりになり、それが作るクラスが

2となります。>2式

 

 3以上も同じように定義できます。

    {0,1}+1={0,1} U {2}={0,1,2}

    {0,1,2} ma 3

 ・・・・

    {0,1,2,・・・・k−1} ma k

    {0,1,2,・・・・k−1} U {k}={0,1,2,・・・・k−

1,k}

    {0,1,2,・・・・k−1,k} ma k+1

 

 「+1」という操作は無限に続けることができ、実際そうするとZFで定義された

自然数と同じ体系になります。                   

        

 >FCで考察することのメリット

 自然言語で「数」というと「個数」と「序数」の区別がありますが、ZFでは「順

序数」が両者を兼ねています。

 

 >例   

 「5」は「5個」と「5番目」を表す。

 

 「無限」の数の場合は、同じ濃度を持つ順序数の内最小のものに「基数」=個数も

兼ねさせる。

 

 一方FCでは「個数」には集まり、「序数」にはクラスを用いて分析することが可

能です。

 自然言語で異なる概念が、FCでは自然に区別されています。

 

 これだけではたいした利点と言うほどではありませんが、次回にFC以外では構成

不可能な「有限な体系」を解説します。

    

 小林さん

 >その点が気に入りました。

 

 嬉しいです。

 

 

 

 実数も可算濃度 投稿者:河本  投稿日: 6月10日(木)15時07分46秒

 

 連続体仮説 : 

 FCでは「集まりCの要素より、その部分集まりの作るクラス全てを集めた集まり

P_cの要素のほうが多いとは限らない」ことを示しましたが、これを具体例で考えて

みます。

 

 >例

 C={0,1,2,3,4}とすると、

 Cの部分集まり……例えば{0,1,4}……の総数は、各要素を含むか含まない

かの二通りづつの可能性がありますから、2^5=32となります。

 

 ZFで示される定理、「#C<#P_c」は、この例の5<32を表現しているわけ

です。

 ZFの範囲で考れば、有限の場合はかなり当たり前の事実ですし、無限の場合も否

定のしようがありません。

 

 FCでなぜこの定理が否定されることもあり得るかというと、Cの異なる部分集ま

りが同じクラスを作る可能性があるからです。

 例えば、{0,1,2}ma 0、{0,1,4}ma 0、も可能です。

 「ma」という述語は「関数」と同じ「多対一」という関係ですから、Cの部分集ま

りの総数が32だとしても、それらが作るクラスの総数は、最小で1まで少なくなる

場合があります。

 すなわち、全ての部分集まりが、同じ一個のクラスを作る場合です。

 

 FCが示すこの可能性は、「連続体仮説」に対して、ZFでは想像不可能な世界の

存在を見せてくれます。

 「連続体の濃度はAleph_1か?」−C_1−という問いに対して「Yes」というのが

「連続体仮説」です。>「アレフ」という文字、どうすれば書けるの?

 GedelやCohenによって、この命題の肯定・否定のどちらもZFの公理に対して無矛

盾であることが証明されています。

    *連続体=実数

    *「Aleph_0」は自然数の濃度、「Aleph_1」はその次に大きい濃度、

「Aleph_2」はその次に大きい濃度・・・・と続きます。「濃度」は個数のこと。

 

 FCのC_1に対する答えは、「連続体の濃度はAleph_0もあり得る。有限の値でさ

えあり得る。Aleph_1もありうる。任意の1<iについてAleph_iでありうる」と相当自

由なものです。

 式で書くと、

    0 < #C < Aleph_ω

               *ωはAleph_0のこと

 ようするにFCでは「連続体の濃度についてほとんど制限はない」という結果で

す。

 

 「実数の濃度が自然数と同じ」なんて、ZFでは「ありえへん」結果ですが、FC

を用いてその命題が成り立つModelを構成可能です。 >実際ラトヴィアのKarlisに

見せるために作ったのですが、表現が難しい

 

 

 

 Re: 実数も可算濃度 投稿者:小林泰三  投稿日: 6月13日(日)19時13分44秒

 

>河本さん

>  連続体仮説 : 

 

>  FCのC_1に対する答えは、「連続体の濃度はAleph_0もあり得る。有限

> の値でさえあり得る。Aleph_1もありうる。任意の1<iについてAleph_iであ

> りうる」と相当自由なものです。

>  式で書くと、

>     0 < #C < Aleph_ω

>                *ωはAleph_0のこと

>  ようするにFCでは「連続体の濃度についてほとんど制限はない」という

> 結果です。

 

これは目から鱗がぼろぼろと落ちました。超限数の存在を知ったのと同じぐら

い感動しました。

 

でも、ZF による「連続体濃度は自然数の濃度より大きい」という結論を知

らない人にはこの感動はないのかもしれませんね。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kbys_ysm/

 

 

 

 解説など 投稿者:河本  投稿日: 6月16日(水)14時11分22秒

 

 

 小林さん

 >これは目から鱗がぼろぼろと落ちました。超限数の存在を知ったのと同じぐら

 >い感動しました。

 

 理解してもらえたことが嬉しいです。

 

 >でも、ZF による「連続体濃度は自然数の濃度より大きい」という結論を知

 >らない人にはこの感動はないのかもしれませんね。

 

 そうですね。美しい作品を作りそれを壊す、というのが愉快ですよね。>なんか違

う?

  

    

 

 2004年07月31日 14:01

送信者:河本 <zbi74583@boat.zero.ad.jp >

表題:M5他

 

 小林さん

 「不完全性定理の否定」最終回です。

 

 五つの要素を持つ次のようなmodelを考察します。>名前はM5 

 

 世界 :  U={0,1,2,3, n}

 公理 : { } ma 0, {0} ma 1, {0,1} ma 2, {0,1,2} ma 3, {0,1,2,3} ma n, {0,1,2,3,n} ma n,

 その他の集まりXについては全て X ma n 

  

 M5はFCの公理を満たします。

 A. ma ∀A∀B∀x∀y  A ma x ∧ B ma y ∧ A=B ⇒ x=y

 

 A. el ∀A∀B (∀a a ∈ A ⇔ a ∈ B) ⇒ A=B

 

 A.F ∃x∃B (∀a a ∈ B ⇔ F(a)) ∧ B ma x

 

 A.maについては、公理により確かに、M5の全ての集まりに対して唯一のクラスを作るようになっている。

 A.elについては、有限集合Uとその部分集合がM5の集まりなので、ZFの「集合の同一性」の公理を満たし、それはA.elそのものです。

 A.Fについては、F(a)として如何なる条件を採っても、F(0)、F(1)、F(2)、F(3)、F(n)、それぞれの真偽値を確かめるという五回の手間でF(a)を満たす集まりBが決定できる。

 

 さらにM5には「自然数」が存在します。

 1.0は自然数

 2.nが自然数 → n+1も自然数

 Uの要素は公理1,2を満たしている。

 何故なら、

 1.{ }は自然数 >こう仮定する

 2.{ }が自然数 → { }+1も自然数

             { }+1={ }U{0}={0}     

             *K+1の定義は、K ma k とすると、K U {k}

             故に{0}も自然数 

 

{0}が自然数 → {0}+1も自然数

             {0}+1={0}U{1}={0,1}     

             故に{0,1}も自然数 

                

{0,1}が自然数 → {0,1}+1も自然数

             {0,1}+1={0,1}U{2}={0,1,2}    

             故に{0,1,2}も自然数 

    ・・・・

             故に{0,1,2,3,n}も自然数 

 すなわち、U=Zとなっている。                   

    *Zは自然数全体の集まり

 M5の「自然数」のユニークな点は、「最後の自然数=n」が存在すること。

    {0,1,2,3,n} ma n >公理より

    {0,1,2,3,n}+1={0,1,2,3,n}U{n}

                 ={0,1,2,3,n} 

 となり、集まり{0,1,2,3,n}あるいはクラスnは、1を加えても変化しない。

 nは自然数のターミナルなのです。

 

 今まで議論してきて分かるように、FCはZFの数々の矛盾を解消し、しかも「自然数」を表現できるのだから、既に「自然数を表現可能でしかも無矛盾な体系」と思えるのですが、「証明」が出来ていません。

 

 M5は「証明」のためのmodelなのですが、実際にどういう風に無矛盾性を証明するのか知識がありません。

 しかし、M5がFCのmodelだということは、「M5の論理式がFCの式として読める」ということですから、もしFCが矛盾しているのなら、その矛盾を表現している論理式はM5の論理式でもあるわけで、M5に矛盾があることになる。

 故に、対偶を取れば、M5が無矛盾ならFCが無矛盾と言うことが可能。

 それで、M5は有限な体系ですから、その全体を見渡すことも容易です。

 こういう「小さな」体系が無矛盾であることなど容易く出来そうな気がします。>精細は分かりませんが

 

 今回の議論は、数学としての精密さに欠けますが、スーガク者としては、まあいいのではないだろうかと思う。

 

 M5が矛盾していないことなんか一目で分かるわ。

 

 というわけで、「自然数を表現可能でしかも無矛盾な体系」とはM5のことです。

 あるいはFCのことと言ってもよい。

 

 

 

 2004年08月01日 02:05

送信者:小林泰三 <kbys_ysm@mbox.kyoto-inet.or.jp >

表題:Re: 小林掲示板の書き込み

 >「不完全性定理の否定」

 

素晴らしい。人間の思考原理はひょっとすると、ZF 的なのかもしれませが、

それが必然的に矛盾を内包しており、アクロバチックな逃げ方をしなければな

らないのなら、いっそ思考方法を見直してもいいのではないかと思うようにな

りました。

問題は後天的に人間の思考メカニズムを FC 的に変えられるかどうかですが。

 

 

 

 2004年08月10日 19:01

送信者:河本 <zbi74583@boat.zero.ad.jp >

表題:うなぎとFC

 

 >>「不完全性定理の否定」

 

 >素晴らしい。人間の思考原理はひょっとすると、ZF 的なのかもしれませが、それが必然的に矛盾を内包しており、アクロバチックな逃げ方をしなければならないのなら、いっそ思考方法を見直してもいいのではないかと思うようになりました。

 >問題は後天的に人間の思考メカニズムを FC 的に変えられるかどうかですが。

 

 数学の世界では、思考原理はたしかにZFが基礎になっているようですが、自然言語の基礎は実はFCなのです。

 

 そう判断できる材料はいろいろあるのですが、一例を示します。

 

 所謂「うなぎ文」を標準的な文法で分析することは、なかなか難しいようです。

 

    「僕は昼はうなぎだ」     −S1−

 

 この文が「AはBに等しい」……英語のbe動詞……を表現するのは、かなり稀な場合で、例えばある男が「うなぎ人間」であって、夜はひと、昼間はうなぎの姿をとるなどという事情があれば可能でしょう。

 たいていは「僕は昼食にうなぎ料理を食べる」という、一人の人間の希望・予定を表しているのが普通のことでしょう。

 

 こういう分析が可能な構文として、「僕は」はこの文のテーマの宣言であって、be動詞の主語ではなく、「昼食は」といううなぎ=補語に対する主語が「省略」されているとするのがよく行われる方法です。

 

 しかし、文章に顕れない「隠れた」要素を仮定すると、構文の分析はややこしくなり、さらに、S1がすなおな「be動詞文」なのか、「うなぎ文」の典型なのかを判断する基準として、その会話がなされている「場」……昼休み前のサラリーマンの会話……まで分析の対象にすると、実際に言語学者が分析している「記号の列」はS1の単純さから遠く離れた「文法解析のために整えられた記号列」になってしまうのではないでしょうか。

 

 FCの分析法は単純です。

 「文法」はそれぞれ個人のものです。

 

 ある人にとっては、

 

   僕は∈S1 、 昼は∈S1 、 うなぎだ∈S1

   S1 ma [僕は昼間は人の姿をしている]I1

 

 というのが、彼の考える概念達の間の関係=文法であり、

 

 ある人にとっては、    

 

   僕は∈S1 、 昼は∈S1 、 うなぎだ∈S1

   S1 ma [僕は昼食にうなぎ料理を食べる]I2

 

 というのが、彼の文法なのです。

    * [ ]の中の日本語は、話者の気持ちを記述するメタ言語です

 

 隠れた要素もなく、文章が存在する「場」なども考慮の必要がない。

 ただ、{僕は、昼は、うなぎだ}S1という文が、[僕は昼食にうなぎ料理を食べる]I2という概念を作る、それだけです。

 

 ひとの言語認識の過程をどんなに探ってみても、標準文法の言うような構文などは存在せず、S1 ma I1やS1 ma I2という関係があるだけなのではないでしょうか。

    *前者と後者は同じ体系の文法ではない

    *「ma」は唯一の概念を作る述語だから、I1≠I2 故に違う体系の規則

   

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