ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ヒロシマ・ナガサキを受け継ぐコミュの5.28被爆者訪問〜報告&感想交流

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
今回は7人の参加者でした。
その中には高校生が3人と先生がいました。
なおコミュに入っているのは私だけでしたので報告します。

町田市にお住まいの72歳の助産師をやっているおばあさんです。
7歳のとき広島で被爆しました。

 8月6日の朝、お母さんと一緒に家にいたとき、赤紫色の光とドーンというお腹に響く音とともにガラスが飛んできました。その時はワンピースだったので手足や頭にガラスが刺さり、お母さんに抜いてもらって頭に包帯を巻きました。しばらくしてから、髪の毛をつかむと抜けたり、あごの下に湿疹が出たそうです。
 被爆してから間もなく、お母さんや近所の人が「貯金局(郵便局)で避難していた妊婦が赤ちゃんを産んだ。産婆さん(助産師)が助けたそうだ」と大喜びで話していたそうです。それを聞いて自分も将来は助産師になろうと決めたそうです。のちに看護学校に入ったときに『うましめんかな』(栗原貞子)の詩を知って、「あの産婆さんは死んだのか」とわかったそうです。
 岡山に引っ越して、そこの中学校に通っている時、「ピカちゃん」と呼ばれ差別を受けたそうです。だからお母さんから「原爆のことを人に話してはいけない。黙っていろ」と言われたそうです。それから40年間、原爆のことは黙っていたそうです。被爆者の女性は夏でも長袖を着ていたそうです。ケロイドで被爆者だとわかってしまうからです。だから長袖を着ている女性とは結婚するなと言われていたそうです。それだけ差別されていたのです。しかし、お兄さんはケロイドのひどい女性と、家族の反対を押し切って結婚したそうです。そのお義姉さんはずっと健康に恵まれず、50歳くらいでガンで亡くなったそうです。その亡くなる1週間ほど前にお義姉さんから「子どもがかわいかったら何で黙っている。子どもを私みたいにしてもいいのか」と怒られたそうです。でもその時は「子どものために黙っている。被爆者の子どもだと知られたくない」という思いがあったそうです。お母さんからは黙っていろと言われ、お義姉さんからは黙るなと言われる。ずいぶんと葛藤があったと思います。しかし「自分がやらなければ」の思いで、いま核兵器廃絶に立ち上がっています。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ヒロシマ・ナガサキを受け継ぐ 更新情報

ヒロシマ・ナガサキを受け継ぐのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング