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ヒロシマ・ナガサキを受け継ぐコミュの被爆者訪問その4〜報告&感想交流

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本日の被爆者訪問お疲れさまでした。
今回は小金井市にお住まいの泉順太郎さんから体験談をお聴きしました。

放射線の恐さについてなど今までの体験談とはまた違った話が聴けたと思います。

参加された皆さんは、報告と感想をよろしくお願いします。

コメント(5)

印象に残っていることを箇条書きで書いておきます。

【被爆体験】
・泉さんは兵庫県姫路市出身だが、山口県と県境(川を隔てて岩国市)の大竹市(概要は大竹市ホームページ「おおたけってどんなまち」→http://ww2.enjoy.ne.jp/~otake-city/0100shinogaiyou.html)というところにあった海軍特殊潜航艇の基地に配属された。

・あの日は、ちょうど東の方を向いていた時に稲光とものすごい音を見聞きし、“宮島の火薬庫が爆発したと思った”。きのこ雲も見た。

・8月15日に100人ぐらいの兵隊とともに広島駅へ行き、地下道で待機していた。その時、地下道の両側にはボロボロになった被爆者がたくさん並べられていた。暑さと死臭が漂うに4時間ばかりいた。それだけで残留放射線の含まれた水を飲んだり食べ物を食べたせいで体内被曝したと思われる。

・昭和39年に東京に出てきて結婚するが、息子には生まれながらにケロイドがあった。また、孫娘も原因不明の脳腫瘍で死んでしまった。

・原爆手帳取得のために2人の証人が必要だったが、最初は見つからなくて東京都から許可が下りなかったが、課長が変わったからもらえたというようなこともあった。

・放射能の隔世遺伝が恐ろしい。自分自身もいつ健康を害するかわからないとうことで、核兵器をなくすために活動しているし国に対して原爆症と認めてほしいと集団訴訟の闘いも一生懸命支援している。

【戦後】

・進駐軍(GHQ)の命令で、日本兵を帰国させる「引き揚げ船」に乗りトラック諸島などの南洋諸島から、旧満州など華北地方までいろんなところに行った。

・船は島に着くと一夜停泊するが、まったく下船できない。日本兵たちを集めて消毒し、乗せて帰るの繰り返しだった。

・無謀な特攻兵器―潜水服を着て背中には磁気機雷を背負い、海底で待ち伏せするというもの。連合軍艦が通れば磁気機雷が吸い寄せられて体当たりしてしまうという話を聞いた。

【感想】
今回は被爆体験というよりも、日本の近現代史から、戦時中、戦後の暮らし、泉さんの職業や趣味まで多岐に渡る話でとても楽しかったです。

泉さんは78歳という年齢をまったく感じさせないようなバイタリティの持ち主なのですが、もう40年以上毎年スキーを教えているという話を伺って、妙に納得してしまいました。

しかし、たった4時間広島駅に滞在しただけで、子どもがケロイドを持って生まれてきてしまったり原因不明の脳腫瘍で孫娘が亡くなったというお話に、放射線の恐ろしさを改めて実感するとともに、何の罪もない子どもたちの命を守りたいと思いました。
全体の話はてぃろ〜が書いてくれましたので、自分が印象に残った話を書きたいと思います。

泉さんは「自分は大した被爆者ではない」と言っていましたが、入市被ばくの影響により、長男にケロイドがあり、また孫娘は脳腫瘍で亡くしています。

放射線の影響はとてもおそろしく、本人だけでなく自分の子孫に何世代にも渡って影響が残っていきます。
泉さんの知り合い(被爆者)の娘さんも親が被爆者だと言うことが知られてしまい、相手家族から「奇形児が生まれるのでは」と疑われ婚約破棄されてしまったそうです。
こういう差別はよくあったそうです。
被爆者の方たちは「自分は生きていてはいけない人間なんだ」と考えていたそうです。

私が核兵器廃絶に関心を持つきっかけになったことのひとつが、「セミパラチンスク核実験場」の被害者や家族の写真を見たことです。
この写真にも、放射線による障害を持った人や、障害を持って生まれてきた子どもたちが写っています。
おそらく彼らも何世代に渡って障害が遺伝してしまうのでしょうか。

終了後の感想交流でも原子力発電所の問題が出されました。事故が起これば非常に大きな放射線の被害が出てしまいます。
一日も早く原子力に頼らない社会や生活に変えていかなければと思いました。

今回は被爆体験だけでなく、海軍での話や戦後の仕事の話などあまり聞くことができない貴重なお話が聞けました。
今回初参加させていただきました。
てぃろ〜さんとこばおさんが、かなり書いてくれているので、私は報告というより少々個人的な感想を書きます。

泉さんの話は、私の父が体験したかもしれなかったことだと思いながら聞いてました。
1928年生まれの原さんは1930年生まれだった私の父の2歳上にあたります。

父は8年前に他界しましたが、晩年に、終戦時の体験を書いています。
それによると終戦間近の夏に長野県で15歳を迎え、8月18日には広島・江田島の海軍予科兵学校から合格通知が届くことになっていたそうです。遅くとも8月末からは広島で特攻隊となる訓練(6ヶ月未満)を受けることになっていたとのこと。
長野で終戦を迎えた時は放心状態で、「自分も大人になれるんだ!」と思えるようになったのはかなりの時間を要した。戦後もずっと心の中で1945年夏をこだわり続けた、と、戦争・原爆を伝える仕事を始めるまでの経緯を書き残しています。

・・・もし戦争が長引いていたら、原さんが体験したのと同じような過酷で暴力的な軍隊生活に入っていたのかもしれません。
日常的に殴られ、志願先を聞かれて特攻隊と答えなければまたボコボコに殴られるので皆行きたくなくても志願していたという。
原さんが詳細に話してくれたことは、それだけ忘れがたい体験だったのだと感じました。

原爆の熱線も爆風も浴びず、被爆を免れたはずの原さんが、時間広島駅に滞在したことで被曝してしまったこと。しかも敗戦の日に、というのがあまりに皮肉でした。

その4時間が、原さんご自身だけでなく子・孫の世代にまで影響を及ぼしていること。
お孫さんを亡くされたときの悲しさはあまり表情には出していらっしゃらなかったですが、もう一人のお孫さんに「まだ」出ていないけれど…という言葉の裏に、放射能の恐ろしさを改めて教えられました。

また、以下のエピソードに驚きました。

・奥さんのお兄さんが戦死したのは、グアム、1945年の12月で、戦争が終わったことを知らずに戦い続けていて、上陸した米軍を攻撃してやられた

・復員輸送で船が日本に着いた時、嬉しさの余りショック死した人が3人もいた

・ケロイドが息子さんの身体にできた

・被爆者の方が、銭湯に入ったら、それまで入っていたほかの人がみんな出て行ってしまい、もう来ないでくれと言われた

「終戦」の日が、一人ひとりの戦争の終わりでは決してないことを、再度認識させられました。

私たちにできることは、聞いたお話を自分の中にとどめず、一人でも多くに「戦争はだめだ、核兵器はあってはいけないんだ」と気づき、反戦反核の輪に加わってもらっていくことだと思います。

戦後の人生体験も、いろいろと話してくださり、とても楽しかったです。
バレンタインデーの頃にはスキー教室をやっていらっしゃるとは!驚きでした!
泉さんにお礼と上記感想部分を抜き出した手紙を郵送しました。
>てぃろ〜

ありがとうございます。
お疲れさんです! ∠(・ω・`⊃)

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