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上杉謙信女性説ファン倶楽部コミュの上杉ファミリー

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謙信を知るために、要点が掴めるお話しがあれば便利かと思いますので、武将名鑑のリンクを貼らせていただきます。

http://kamurai.itspy.com/nobunaga/uesugiSS/index.htm

しかし、長尾、上杉には元々資料が少ない上に紛失、創作、誤記により、かなり曖昧にしか分からないそうです。
一族、家臣団、及び関連事項について、ご存知だったり、思い入れがあることを、お気軽にお話ししてください。宜しくお願いします。


長尾景為・・・謙信の父親。戦国の梟勇。府中長尾氏の総領。主筋に当たる人物を2人も討つなど、戦国でも比類が無いと言われる下克上の世界に生きた人物。

虎御前(青岩院)・・・謙信の母。栃尾の栖吉城主長尾顕吉の娘。娘たちの信心深さはこの母の影響が大きいと言われている。

長尾晴景・・・謙信の18歳年上の長兄。病弱。謙信が19歳の時に養父となる。

長尾景康・・・謙信の兄。1542年、黒田秀忠の反乱により死亡したと言われる。

仙桃院(於亀?・綾姫)・・・謙信の姉。強気な性格で知られる。姉妹の従兄であり本家筋にあたる上田長尾家の政景に嫁ぐ。二男二女をもうける。長男義景は10歳で早世。景勝と娘婿2人は謙信の養子となる。
林泉寺を始めとする多くの寺社に寄進を行い復興する。

上杉喜平次景勝・・・長尾政景と仙桃院の次男で長尾顕景。政景の死後に養子となり、謙信の晩年の1575年に弾正少弼を譲られ景勝となる。能登出兵と織田氏との戦いが初陣とされる。
謙信を慕い、様々な事を学び、酒食を共にする。
初陣直後の謙信死後、景虎との跡継ぎ争い(御館の乱)、織田家や徳川との苦闘など、波乱万丈の人生を送る。それ故に人前で笑顔を見せる事が少ない。それらが、後の上杉藩の家風を作り上げる。
妻は武田勝頼四女於菊。子に定勝、於菊、於虎。
法号の宗心は、縦にくっ付けると、虎の字になる。

上杉三郎景虎・・・北条氏康の庶子氏秀。(別説は甥で孫二郎康元。実父は北条綱成。)
一説には東国一の美男子。北条幻庵の婿養子だったが、1570年、上杉と北条の同盟により、謙信の養子となり、今度は仙桃院の次女(又は長女)華渓院と結婚する。景勝より3歳上。北条家が実効支配していた関東管領の山内上杉家の領地を継ぐ予定ではなかったかと思われるが、謙信の死後、北条家と結び景勝と争い敗死。息子道満丸も景勝方に討たれる。

長尾政景・・・仙桃院の婿。上田長尾氏の当主で、謙信と仙桃院姉妹の従兄にもあたる。南魚沼市坂戸城城主。夫妻は謙信をよく支え信任を得る。謙信出陣時に春日山城の留守居役を任される。

上条政繁(宜順)・・・畠山義続の次男。仙桃院の長女(又は次女)の婿養子。御館の乱の当初は中立、後に景勝に味方。
柴田勝家を再三食い止めるなどの活躍をする。
1586年、景勝が秀吉に降った際に出奔。
後に徳川家の旗本になり、更にその後に畠山家を復興。

【春日山城】・・・長尾上杉の居城。標高189mの蜂ヶ峰を要塞化したもの。

【御実城(おみじょう)様】・・・城主への敬称。

【御館(お屋方)様】・・・館主への敬称。

【御中城様】・・・中城とは二の丸。景勝が呼ばれる。

【越後】・・・現在の新潟県。国府は上越市。当時は湖沼が多い。佐渡、阿賀北に金山、魚沼に銀山を持つ。また、青麻による繊維産業が盛ん。

上杉定実・・・養父である越後守護職上杉房能の死後、景為に傀儡として守護職に擁立される。
その定実にも男子が無かった事から、跡取りに伊達氏から養子を招こうとして、伊達氏と長尾氏の双方で争いあう「天文の大乱」の原因となり、それが謙信の初陣となる。跡取り不在のまま死去し、謙信が越後守護となる。

上杉憲政・・・関東管領山内上杉氏。北条氏康に追われ謙信に庇護され、謙信を養子にする。御館の主で、御館の乱では上杉景虎に味方し、景勝方に討たれる。

【御館(おたて)】・・・国府。憲政は亡命後、越後の御館を居館とする。
謙信の死後、上杉景勝と上杉景虎の間で相続争いが起こり、春日山城を脱出した景虎が立てこもる。

天室光育・・・林泉寺六代目住職。謙信が幼少の頃の師。

益翁宗謙・・・林泉寺七代目住職。謙信が参禅し、宗謙を信じるという法号を名乗る。

【林泉寺】・・・春日山の麓にある。謙信の曽祖父長尾重景を祖父能景が勲業を顕彰しようと、開基建立した曹洞宗の禅寺。謙信が師事し、仙桃院が中興開基し、上杉藩が米沢に移っても、その地の曹洞宗の寺を総括した。

上杉景信・・・古志長尾氏総領。長岡市栖吉(すよし)城城主。謙信の母の弟で、叔父にあたる。謙信より3歳年上。謙信が上杉性を継いだ時に同時に上杉を名乗る。
御館の乱では景虎に味方し、村上吉清の子の国清に討たれる。

本庄実乃(仍)(慶秀?)・・・古志長尾氏の支城、栃尾城城主。謙信の初陣の頃から付き従う。

門察和尚・・・謙信が栃尾にいた頃に師事した瑞麟寺の住職。

【栃尾城】・・・虎御前の実家、古志長尾氏の支城。長岡市古志町。盆地になっている。この城の近郊の国人との戦いが謙信の初陣になる。
栃尾の大野鉱泉は薬用と美容に効果があると言われる。

【長尾氏】・・・関東管領山内上杉氏の守護代。三条市と越後は三条(府中)長尾氏。南魚沼市は上田長尾氏。長岡市は古志(栖吉)長尾氏。白井長尾氏は上野渋川市。総社長尾氏は前橋。

【曹洞宗】・・・当時は瑩山禅師を始め、比較的男女が平等に扱われている。細川ガラシャ玉子も曹洞宗の和尚に師事した事がある。

小島弥太郎貞興・・・通称鬼小島。武田方の山県昌景に「花も実もある勇士」と称賛されたという伝承を持つ。謙信の好んだ相撲の力士でもあるらしい。

柿崎景家・・・為景の代から仕えた武将で柿崎家の惣領。第四回川中島合戦で先陣を務める。北条家との同盟の際には謙信に代わり子供を人質に出す。

安田顕元・・・安田家総領。父景元は為景の側近。
川中島の戦いの際に飯田城を任される。
御館の乱の際に景勝方への誘い役となるが、領地の減少、国力の疲弊、織田家の圧力の中で、褒賞が公平に行き渡らず、責任をとり自害する事になる。

直江景綱・・・為景の頃から仕えた地侍で、与板城主となり、直江津を宰領する。
謙信の家督相続に貢献したとされる。景勝の養育係。

北条(きたじょう)高広・・・謙信の関東出兵の際に駐屯した、箕輪城の支城である厩橋(まやばし・前橋)城の城代。無双の勇士と言われる。諜報や外交の任も負う。
御館の乱では景虎方につき、後北条氏と結び進攻してきた武田勝頼に城を明け渡し、景勝の実家の上田長尾方の坂戸城を攻撃するが、後に景勝に味方し、武田氏を景勝方に引き入れる。

河田長親・・・謙信が上洛の際、近江で出合った若い長親を家臣にした。各地を転戦し、よく功を立てた。御館の乱では景虎に味方し、後に景勝に味方する。魚津の役の直前に病死。

斎藤朝信・・・重臣の一人。武将型の多い上杉家の中で、政務の面でも存在感を見せる。
御館の乱では景勝方に味方する。

甘糟景継・・・甘粕氏の送料で田上町の護摩堂城城主。第四回川中島の頃から頭角を現わす。軍記で武田信玄の別働隊と戦ったと言われる三条市の甘粕景持とは別人。

【阿賀北(揚北)衆】・・・ 阿賀野川から北を地盤にする国人領主衆。上杉家最強の集団とも言われたが、独立性が強く、武田、北条、織田、芦名などから調略を受け、しばしば離反、独立し、謙信を悩ませる。本庄(ほんじょ)、色部、新発田(しばた)、五十公野、鮎川、安田、水原、竹俣、加地、黒川、中条など。

色部勝長・・・阿賀北衆の実力者。平林城主。上杉定実の伊達家からの養子入りに反対した。為景から長く長尾上杉に仕え、武田、後北条との戦いで活躍したが、本庄重長の反乱で夜襲を受け戦死。

長尾景直・・・謙信の従弟。椎名康胤の婿養子。康胤が追放された後、椎名家を継ぐ。柴田勝家の攻撃を受ける。御館の乱で景虎方に付き敗死。

本庄繁長・・・阿賀北衆。本庄(村上)城主。1568年、謙信の越中出陣中に離反する。高城(三条市)長尾藤景を殺害し、城を攻め落とす。
芦名氏や伊達氏からの調停を受け、謙信に人質を差し出す。
御館の乱では景勝に従い、後の最上氏との戦いでは大きく活躍する。

新発田長敦・・・阿賀北衆の実力者。新発田氏の総領。
外交手腕に優れ、阿賀北衆の統率に尽力する。
御館の乱の際、景勝より武田氏との和解交渉を任され成功させる。

新発田重家・・・長敦の弟。御館の乱の後に兄が死去し家督を継ぐ。景勝に対し、褒賞の少なさ、行政への干渉などを不服とし、織田氏や芦名氏と結び、8年に渡り争う。

加地知綱・・・阿賀北衆。新発田長敦などと共に活躍する。

【善光寺】・・・奈良時代に開基した無宗派の古い寺。飯縄山の麓、犀川の北側に位置する。本尊は大阪堀江の阿弥陀池から引き上げられたという伝説がある。

【川中島】・・・北アルプスの雪解け水が運んだ土砂が堆積した長野盆地(善光寺平)の南半分。犀川、千曲川の間。春日山城からは70km〜80km。武田信玄居城の躑躅ヶ崎城からは150kmほど。

【八幡原】・・・川中島の中央東寄り。第四回川中島の合戦(八幡原の戦い)が行われる。

【海津城(貝津城・松代城)】・・・武田信玄が川中島を支配する橋頭堡として築く。後の真田藩の城。

【飯山城】・・・善光寺平の北側に築かれた上杉方の城。

【野尻城】・・・信玄の越後侵入を防いだ城。

【妻女(西条)山】・・・八幡原の戦いで、海津城に攻撃を仕掛けるべく謙信が本陣を置いたとされるが、疑問視もされている。
後年、景勝が後北条氏の出兵に際し滞陣した事がある。

【飯縄(いいづな)山】・・・川中島の北西にある。飯縄権現崇拝の本拠地。剣術や忍術や修験術の地でもある。

【飯縄権現】・・・不動明王、弁財天、ダキニ天、歓喜天、カルラ天などの集合した神。シヴァ神に由来する。カラス天狗の姿をしている。上杉謙信、武田信玄、北条氏康など、多くの武士の間でも信仰された。

武田信玄・・・甲斐の国(山梨)を統一し、佐久平(滋野氏)、伊那平(藤沢氏)、松本平(小笠原氏)、諏訪平(諏訪氏)、木曽谷(木曽氏)、上田平(村上氏)など肥沃な信濃の盆地を、高遠城、深志城を拠点に制圧していく。

村上義清・・・上田平の国人領主。武田信玄を二度破るが、信玄に離間工作による国人衆の切り崩しに合い、謙信を頼り落ち延びる。ここから謙信と信玄の戦いが始まる。

高梨政頼・・・現在の長野県信州中野市にあたる善光寺平北部の国人領主。本拠地は中野小館。村上氏と共に武田信玄を破るが、国人衆を切り崩され、謙信を頼り飯山城に入る。
川中島の戦いなどで、信濃衆の先陣を務める。

須田満親・・・現在の長野県須坂市にあたる、善光寺平東部の国人。武田信玄の進攻により須田氏は二つに分かれ、満親は謙信の元へ落ち延びる。外交能力にも優れていたとされる。河田長親が死去した後の越中支配と一向宗との繋ぎ役を受け持つ。真田昌幸が徳川家康に攻められた際に救援する。
景勝が豊臣秀吉と同盟した際に随行し、交渉役となる。後に秀吉配下となる。

【関田峠】・・・上越市から飯山市に入る時に使われる峠。川中島へ向かう際に使われる。他に、野尻坂峠、涌井峠、富倉峠など。

北条氏康・・・北条早雲の孫。関東の管領上杉家などの巨大な旧勢力を騙し討ちなどで打ち払う。

里見義堯・・・北条氏の力を借り、一族内の争いに勝ち家督を得るが、関東足利氏と北条氏の争いでは足利氏側に着いて破れ、長尾景虎と房越同盟を成立させる。

長野業盛・・・上野箕輪城の城主。生存中、武田信玄の進攻を全て食い止める。家臣に真陰流の開祖、上泉信綱がいる。

横瀬(由良)成繁・・・上野金山城の城主。元岩田家家老で下克上を果たした戦国大名。情勢に応じて、上杉方と後北条方のどちらと組するかを選んだ。

【清水峠・三国峠】・・・南魚沼市から群馬県に入る時に越える峠。関東出兵の際に使われる。
御館の乱では北条氏照、新発田重家の乱では織田氏の滝川一益が、ここから進入するる。

椎名康胤・・・越中の国人領主。松倉城城主。長尾景直の義父。武田信玄の出兵に呼応して離反する。

【越中】・・・越後とは境川を境にする。

【越中一向宗】・・・椎名氏と対立した神保氏などと結び、謙信に抵抗する。
椎名氏が離反し、織田氏の勢力が北陸に伸びると、今度は謙信と結ぶ。関ヶ原の際、米沢に移転していた景勝に呼応する。

【松倉城】・・・現在の富山県魚津市。松倉金山と河原波金山を有する。支城に魚津城や天神山城がある。1582年、織田氏の進攻により城兵は全滅する。

蘆名盛氏・・・福島県西部の会津盆地の守護大名。黒川城(会津若松城)城主。越後の混乱に頻繁に介入する。

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