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原始仏典コミュの中部経典 第142経 施分別経

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個人よりも団体に布施をしたほうが功徳が大きいということと、悪人に布施しても功徳はあるという経です。布施の功徳の段階についてはこの経典がもっとも詳細な経典です。全訳しました。






(『南伝大蔵経11下 中部経典4』大蔵出版 P356−364 に相当)



中部経典 第142経 施分別経[ダッキナー・ヴィバンガ・スッタ]


「   第十二 施分別経

376.このように私は聞いた。
 あるとき先生はサッカのカピラヴァットゥ、ニグローダ園に住んでいた。
 ときにマハーパジャーパティ・ゴータミーは新しい一揃いの衣服を取って先生を訪ねた。訪ねて先生に挨拶して一方に座った。一方に座ってマハーパジャーパティ・ゴータミーは先生にこう言った。
 先生、この新しい一揃いの衣服は先生のために私が自ら裁断して自ら織ったものです。
 先生、どうか先生は私を哀愍をしていただきこれを受け取ってください。
 こう言われて先生はマハーパジャーパティ・ゴータミーにこう言った。 
 ゴータミー、サンガに与えなさい。
 サンガにこれを与えれば、私もサンガも供養することになる。

 再びマハーパジャーパティ・ゴータミーは先生にこう言った。
 先生、この新しい一揃いの衣服は先生のために私が自ら裁断して自ら織ったものです。
 先生、どうか先生は私を哀愍をしていただきこれを受け取ってください。
 再び先生はマハーパジャーパティ・ゴータミーにこう言った。 
 ゴータミー、サンガに与えなさい。
 サンガにこれを与えれば、私もサンガも供養することになる。

 三たびマハーパジャーパティ・ゴータミーは先生にこう言った。
 先生、この新しい一揃いの衣服は先生のために私が自ら裁断して自ら織ったものです。
 先生、どうか先生は私を哀愍をしていただきこれを受け取ってください。
 三たび先生はマハーパジャーパティ・ゴータミーにこう言った。 
 ゴータミー、サンガに与えなさい。
 サンガにこれを与えれば、私もサンガも供養することになる。

377.こう言われて尊者アーナンダは先生にこう言った。
 先生、先生はマハーパジャーパティ・ゴータミーの新しい一揃いの衣服を受け取ってください。
 先生、マハーパジャーパティ・ゴータミーは先生に多くのことを為しており、先生の叔母であり、乳母であり、養母であり、乳を与えた方であり、先生の生母が命終した後に母乳を飲ませました。
 先生、先生もまたマハーパジャーパティ・ゴータミーに多くのことを為しています。
 先生、先生によってマハーパジャーパティ・ゴータミーはブッダに帰依し、ダンマに帰依し、サンガに帰依しました。
 先生、先生によってマハーパジャーパティ・ゴータミーは殺生を離れ、盗みを離れ、欲邪行を離れ、虚言を離れ、穀酒・果実酒など酔わせる放逸処を離れました。
 先生、先生によってマハーパジャーパティ・ゴータミーはブッダへの疑いのない浄信を成就し、ダンマへの疑いのない浄信を成就し、サンガへの疑いのない浄信を成就し、聖者が愛する戒を成就しました。
 先生、先生によってマハーパジャーパティ・ゴータミーは苦において迷いなく、苦の集起において迷いなく、苦の滅において迷いなく、苦の滅に行く道において迷いがなくなりました。
 先生、先生もまたマハーパジャーパティ・ゴータミーに多くのことを為しています。

378.その通りだ、アーナンダ。
 しかしアーナンダ、人がある人によってブッダに帰依し、ダンマに帰依し、サンガに帰依することになったならば、アーナンダ、この人はその人に善く為すことはできない(恩返しすることはできない)と私は言う。即ち敬礼や起立して迎えることや合掌をしたり、正しい行ないをしたり、衣食住薬資具を与えるとしてもである。
 アーナンダ、人がある人によって殺生を離れ、盗みを離れ、欲邪行を離れ、虚言を離れ、穀酒・果実酒など酔わせる放逸処を離れることになったならば、この人はその人に善く為すことはできないと私は言う。即ち敬礼や起立して迎えることや合掌をしたり、正しい行ないをしたり、衣食住薬資具を与えるとしてもである。
 アーナンダ、人がある人によってブッダへの疑いのない浄信を成就し、ダンマへの疑いのない浄信を成就し、サンガへの疑いのない浄信を成就し、聖者が愛する戒を成就することになったならば、この人はその人に善く為すことはできないと私は言う。即ち敬礼や起立して迎えることや合掌をしたり、正しい行ないをしたり、衣食住薬資具を与えるとしてもである。
 アーナンダ、人がある人によって苦において迷いなく、苦の集起において迷いなく、苦の滅において迷いなく、苦の滅に行く道において迷いがなくなったならば、この人はその人に善く為すことはできないと私は言う。即ち敬礼や起立して迎えることや合掌をしたり、正しい行ないをしたり、衣食住薬資具を与えるとしてもである。


379.アーナンダ、十四の個人に対する布施がある。何が十四か。

 如来・阿羅漢・正覚者に布施を与える。
  これが第一の個人に対する布施である。
 単独ブッダに布施を与える。
  これが第二の個人に対する布施である。
 如来の弟子である阿羅漢に布施を与える。
  これが第三の個人に対する布施である。
 阿羅漢果の実証のために行道する者に布施を与える。
  これが第四の個人に対する布施である。
 不還者に布施を与える。
  これが第五の個人に対する布施である。
 不還果の実証のために行道する者に布施を与える。
  これが第六の個人に対する布施である。
 一来者に布施を与える。
  これが第七の個人に対する布施である。
 一来果の実証のために行道する者に布施を与える。
  これが第八の個人に対する布施である。
 預流者に布施を与える。
  これが第九の個人に対する布施である。
 預流果の実証のために行道する者に布施を与える。
  これが第十の個人に対する布施である。
 欲を離貪した外の[教えの]者に布施を与える。
  これが第十一の個人に対する布施である。
 戒ある凡夫に布施を与える。
  これが第十二の個人に対する布施である。
 破戒の凡夫に布施を与える。
  これが第十三の個人に対する布施である。
 畜生に布施を与える。
  これが第十四の個人に対する布施である。

 アーナンダ、畜生に布施を与えても、百の功徳[グナ guṇa 徳]を布施に期待することができる。
 破戒の凡夫に布施を与えれば、千の功徳を布施に期待することができる。
 戒ある凡夫に布施を与えれば、十万の功徳を布施に期待することができる。
 欲を離貪した外の者に布施を与えれば、一兆の功徳を布施に期待することができる。
 預流果の実証のために行道する者に布施を与えれば、計算できない無量[の功徳]を布施に期待することができる。
 預流者についてはどう言おうか。
 一来果の実証のために行道する者についてはどう言おうか。
 一来者についてはどう言おうか。
 不還果の実証のために行道する者についてはどう言おうか。
 不還者についてはどう言おうか。
 阿羅漢果の実証のために行道する者についてはどう言おうか。
 阿羅漢についてはどう言おうか。
 単独ブッダについてはどう言おうか。
 如来・阿羅漢・正覚者についてはどう言おうか。

380.アーナンダ、また七つのサンガ[集団]への布施がある。何が七か。
 ブッダを首長とする両サンガに布施を与える。
  これが第一のサンガへの布施である。
 如来が般涅槃した後の両サンガに布施を与える。
  これが第二のサンガへの布施である。
 比丘サンガに布施を与える。
  これが第三のサンガへの布施である。
 比丘尼サンガに布施を与える。
  これが第四のサンガへの布施である。
 「これだけの比丘たちと比丘尼たちへとサンガに私は指定します」と布施を与える。
  これが第五のサンガへの布施である。
 「これだけの比丘たちへとサンガに私は指定します」と布施を与える。
  これが第六のサンガへの布施である。
 「これだけの比丘尼たちへとサンガに私は指定します」と布施を与える。
  これが第七のサンガへの布施である。

 アーナンダ、未来において袈裟をまといながらも破戒にして悪法ある種姓の者たちが現れるだろう。
 そしてその破戒のサンガを指定して布施が与えられるだろう。
 しかしアーナンダ、そのサンガへの布施であっても計算できない無量[の功徳]があると私は言う。
 アーナンダ、それゆえにいかなる方法によっても個人への布施がサンガへの布施よりも大きな果があるとは私は言わないのだ。

381.アーナンダ、これら四の布施の浄化がある。何が四か。
 アーナンダ、布施が与える者によって浄化され、受け取る者によらない場合がある。
 アーナンダ、布施が受け取る者によって浄化され、与える者によらない場合がある。
 アーナンダ、布施が与える者によっても受け取る者によっても浄化されない場合がある。
 アーナンダ、布施が与える者によっても受け取る者によっても浄化される場合がある。

 アーナンダ、何が「布施が与える者によって浄化され、受け取る者によらない場合か。
 アーナンダ、ここに与える者は戒があり善法があるが、受け取る者は破戒であり悪法である。
 アーナンダ、これが「布施が与える者によって浄化され、受け取る者によらない場合」である。
 アーナンダ、何が「布施が受け取る者によって浄化され、与える者によらない場合」か。
 アーナンダ、ここに与える者は破戒であり悪法があるが、受け取る者は戒があり善法がある。
 アーナンダ、これが「布施が受け取る者によって浄化され、与える者によらない場合」である。
 アーナンダ、何が「布施が与える者によっても受け取る者によっても浄化されない場合」か。
 アーナンダ、ここに与える者も破戒であり悪法があり、受け取る者も破戒であり悪法がある。
 アーナンダ、これが「布施が与える者によっても受け取る者によっても浄化されない場合」である。
 アーナンダ、何が「布施が与える者によっても受け取る者によっても浄化される場合」か。
 アーナンダ、ここに与える者も戒があり善法があり、受け取る者も戒があり悪法がある。
 アーナンダ、これが「布施が与える者によっても受け取る者によっても浄化される場合」である。

 先生はこう言った。こう言って善きところに達した方である師はさらにまたこう言った。

382.戒ある者が破戒の者に布施を与える
   それは法によって得られたものであり 善き浄信ある心によって
   大富なる業の果を 信じながら
   その布施は与える者によって浄化される

   破戒の者が戒ある者に布施を与える
   それは不法によって得られたものであり 善き浄信ある心ではなく
   大富なる業の果を 信じないままに
   その布施は受け取る者によって浄化される

   破戒の者が破戒の者に布施を与える
   不法によって得られたものであり 善き浄信ある心ではなく
   大富なる業の果を 信じないままに
   その布施は広大な果とはならないと私は言う

   戒ある者が戒ある者に布施を与える
   法によって得られたものであり 善き浄信ある心によって
   大富なる業の果を 信じながら
   その布施は彼らに広大な果をもたらすと私は言う

   離貪した者が離貪した者に布施を与える
   法によって得られたものであり 善き浄信ある心によって
   大富なる業の果を 信じながら
   その布施こそ実に「最上の財施である」と私は言う

       施分別経 終」

   『南伝大蔵経11下 中部経典4』大蔵出版 P356−364 に相当





どうして衣を受け取らないのか理解できないゴータミーとアーナンダ。
理由を教えるゴータマ。

 悪人より善人に布施したほうが大果があること。
 如来への布施が個人への布施では最高であること。
 しかし如来への布施よりも集団への布施が優れていること。
 悪比丘たちへの布施であっても施者により清浄となり功徳があること。

ゴータミーに「如来である私への布施は個人としては最高」と言い、
「如来である私への布施よりもサンガへの布施のほうが優れている」と言い、
「たとえ悪比丘サンガであったとしても布施は清浄となる」と言います。

 衣を受け取らないゴータマ。
 個人への布施の十七段階。
 集団への布施の七段階。
 四種の布施の浄化。

この四つの相互の連結はいちいち解説してありませんから、文脈から読み取る必要があります。原始仏典は定型句から成り立っていますので、そういった解説がありません。他の経典も同様の形式になっています。


こうして
「個人よりも集団へ布施しなさい。
たとえ悪い集団であっても
如来である私への布施よりも大果がある」
と二人を説得し終えて経が終わります。




この教えは今日の寄付でも使えます。

個人より集団に寄付する。
用途を限定せずに集団それ自体に寄付する。
寄付金が悪用されているとしても寄付は浄化され功徳になる。

寄付金がうまく使われないことを理由に寄付しない人は多いです。
しかしそれは無用な心配であることが四施浄化の教えで説かれています。
この経を信じれば安心して布施の果報を信じて寄付することができます。




[在家の聖なる弟子としてのレベル]


1.三帰依(預流果を実証していない信)
 仏 buddhaṃ saraṇaṃ gato hoti,
 法 dhammaṃ saraṇaṃ gato hoti,
 僧 saṅghaṃ saraṇaṃ gato hoti,

2.五学足(預流果を実証していない戒)
 不殺生 pāṇātipātā paṭivirato hoti,
 不偸盗 adinnādānā paṭivirato hoti,
 不邪淫 kāmesumicchācārā paṭivirato hoti,
 不妄語 musāvādā paṭivirato hoti,
 不飲酒 surāmerayamajjapamādaṭṭhānā paṭivirato hoti,

3.四預流支(預流果を実証した信・戒)
 仏 buddhe aveccappasādena samannāgato hoti,
 法 dhamme aveccappasādena samannāgato hoti,
 僧 saṅghe aveccappasādena samannāgato hoti,
 戒 ariyakantehi sīlehi samannāgato hoti,

4.慧(預流果を実証した慧)
 苦 dukkhe nikkaṅkho hoti,
 集 dukkhasamudaye nikkaṅkho hoti,
 滅 dukkhanirodhe nikkaṅkho hoti,
 道 dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya nikkaṅkho hoti,


imassānanda, puggalassa iminā puggalena na suppatikāraṃ vadāmi, yadidaṃ – abhivādana-paccuṭṭhānaañjalikamma-sāmīcikamma-cīvarapiṇḍapātasenāsanagilā- nappaccayabhesajjaparikkhārānuppadānena.

   四具足  信具足・戒具足・施具足・慧具足





[十四の個人への布施  Cuddasa pāṭipuggalikā dakkhiṇā]

1.畜生 tiracchāna  百功徳 sataguṇā
2.破戒の凡夫 puthujjanadussīle  千功徳 sahassaguṇā
3.戒ある凡夫 puthujjanasīlavante 十万功徳 satasahassaguṇā
4.欲を離貪した外の者 bāhirake kāmesu vītarāge 一兆功徳 koṭisatasahassaguṇā
5.預流果の実証のために行道する者 sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipanne
   計算できない無量 asaṅkheyyā appameyyā
6.預流者 sotāpanne  どう言おうか ko pana vādo
7.一来果の実証のために行道する者 sakadāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne
8.一来者 sakadāgāmissa
9.不還果の実証のために行道する者 anāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne
10.不還者 anāgāmissa
11.阿羅漢果の実証のために行道する者 arahattaphalasacchikiriyāya paṭipanne
12.阿羅漢 arahante
13.単独ブッダ paccekasambuddhe
14.如来・阿羅漢・正覚者 tathāgate arahante sammāsambuddhe



[七の集団への布施 Satta saṅghagatā dakkhiṇā]

1.ブッダを首長とする両サンガ Buddhappamukhe ubhatosaṅghe
2.如来が般涅槃して後の両サンガ Tathāgate parinibbute ubhatosaṅghe
3.比丘サンガ Bhikkhusaṅghe
4.比丘尼サンガ Bhikkhunisaṅghe
5.「これだけの比丘たちと比丘尼たちへとサンガに私は指定します」
  ‘Ettakā me bhikkhū ca bhikkhuniyo ca saṅghato uddissathā’
6.「これだけの比丘たちへとサンガに私は指定します」
  ‘Ettakā me bhikkhū saṅghato uddissathā’
7.「これだけの比丘尼たちへとサンガに私は指定します」
  ‘Ettakā me bhikkhuniyo saṅghato uddissathā’
悪.‘‘Bhavissanti kho panānanda, anāgatamaddhānaṃ gotrabhuno kāsāvakaṇṭhā dussīlā pāpadhammā.
 Tesu dussīlesu saṅghaṃ uddissa dānaṃ dassanti.
 Tadāpāhaṃ, ānanda, saṅghagataṃ dakkhiṇaṃ asaṅkheyyaṃ appameyyaṃ vadāmi.
 Na tvevāhaṃ, ānanda, kenaci pariyāyena saṅghagatāya dakkhiṇāya pāṭipuggalikaṃ dānaṃ mahapphalataraṃ vadāmi.


[四の布施の浄化 Catasso dakkhiṇā visuddhiyo]

1.施者浄化 Atthānanda, dakkhiṇā dāyakato visujjhati no paṭiggāhakato.
2.受者浄化 Atthānanda, dakkhiṇā paṭiggāhakato visujjhati no dāyakato.
3.未浄化  Atthānanda, dakkhiṇā neva dāyakato visujjhati no paṭiggāhakato.
4.両者浄化 Atthānanda, dakkhiṇā dāyakato ceva visujjhati paṭiggāhakato ca.



[最上の財施]

‘‘Yo vītarāgo vītarāgesu dadāti dānaṃ,
Dhammena laddhaṃ supasannacitto;
Abhisaddahaṃ kammaphalaṃ uḷāraṃ,
Taṃ ve dānaṃ āmisadānānamagga’’ [taṃ ve dānaṃ vipulanti brūmi (sī.)] nti.

‘‘Yo 離貪した者がvītarāgo 離貪した者にvītarāgesu
与えるdadāti 布施をdānaṃ,
法によってDhammena 得られたものでありladdhaṃ
善く浄信ある心によってsupasannacitto;
信じてAbhisaddahaṃ 業の果をkammaphalaṃ 大富なるuḷāraṃ,
そのTaṃ 実にve 布施こそdānaṃ 財āmisa施dānānam最上agga’’
   [taṃ ve dānaṃ vipulanti 私は言うbrūmi (sī.)] nti.



阿羅漢が阿羅漢に布施することだと思います。
マハーカッサパがゴータマに軽くて肌触りのいい衣をプレゼントして
ゴータマのぼろぼろの袈裟をマハーカッサパが受け継いだ件など。




どんなに貧乏でも収入の1%は寄付するといいと思います。収入の10%を寄付するのはハイレベルな人です。お金をケチりたい人は慈心を修すればいいと思います。僕はお金に関してはケチだけれど慈心を修する人がいるならば、その人のほうが気前がいいと思います。お金を出すことよりも精神力と労力を他者のために使う慈心のほうが遥かにレベルが上だからです。ヴィジョンを作り出すことは寄付するよりも遥かに困難なことです。

そもそも出家者にして四梵住の比丘たちは何も財施しません。托鉢食や袈裟を互いに分け合う以外は。利他の義は寄付や財産贈与だけではありません。神々やブラフマーたちもお金ではない善きものを人間たちに与えることによって栄光を維持しています。ゴータマも財施によって人々を摂事したのではなく、四摂事によります。財産を獲得する道は仕事をして給与を受け取ることとビジネスを立ち上げて収益を上げること以外にもあります。実際に社会に貢献することと、実際に人々に認められることとは同義ではないことをよく理解すれば、自分の自尊心が破られることはありません。真実と事実に基づく事柄は全てその真実性と事実性においては不壊です。



最高の貧乏人である出家者が、慈心によってどれだけ未来に莫大な財産を築くかを考えれば利益が多いと思います。

コメント(10)

poyoriさん、ありがとうございます。

僕もそのグナ[guṇa 徳 功徳]が何なのかわからないので一応原語も表記しておいたのですが、多分「倍」で良いのではないかと思います。一つの布施を1と計算するのだと思います。ですから虫や動物に布施をすれば、100グナということはその最初の布施の1に対して100が福の報いとして相続することになるという意味だと現時点では解釈しています。

だから犯罪者に布施しても1000倍、一般市民(具戒として)ならば一万倍、五欲貪を断っている者ならば預流でなくても一兆倍、預流者以上ならば在家でも測定不能の功徳ということで良いと思います。

それで個人よりも集団のほうが功徳がありますから、虫や動物の群れ・犯罪者集団や犯罪組織・一般の団体や組織・五欲貪を断っている人が所属する組織などへの寄付のほうが功徳があると思います。

布施の場合は倍々していく感じですが、では悪業の場合はどうなるのだろうと思います。個人に対する悪業、集団に対する悪業、たとえば破僧がなぜ大罪かなど、僕もよくわかりませんので、今後も考察していきたいと思っています。

多分ご存知だとは思うのですが、他の人のためにも一応紹介しておきますが、これらの形ある布施よりも慈心のほうが功徳があるという記述を貼っておきます。


・偉大なる果報  布施と慈心
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42124861&comm_id=951429


原始仏典の記述が現実に対応しているかどうかは天眼がないとなかなか確認できないことなので、身近な人で寄付を習慣にしている人と寄付を習慣にしていない人を継続して調査していくことを自らによる検証と合わせると効果的だと思います。

確実に言えることは寄付や援助をされた人はしてくれた人にその分は友好的な感情を持つということで、それだけでも布施は良いことだと思います。時に応じ分に応じて寄付することは素晴らしいことだと思います。
>poyoriさん

1万円、寄付されたんですね。いかなる集団であれ寄付は素晴らしいことだと思います。慈心も修しておられてより素晴らしいです。慈心の効果と成果についてはある程度実証してきているので、その分は自信をもっておすすめでき、称賛できるところです。

原始仏典の記述をどう思うか、というのは非常に本質的で重要なところで気になるところだと思います。僕はゴータマの教えを中核とし、またゴータマ・シッダッタ本人が繰り返し使用していた単語と文章を型枠として、それをもとに残された阿羅漢たちがエッセンスを失わないように定型文化して記憶の便宜を計って伝承されてきたものだと思っています。だから詩や偈がより古いとは考えません。定型文による繰り返しが多く見られるところがより古いと考えています。

特に法数に関連する教え、たとえば四諦三学八正道や三十七道品など数による分類の教えはゴータマ自身による教えの体系化が計られていると考えています。三十七道品については有漏と無漏で二分すれば非常に多くの場合でも応用ができ、且つ必ず不死に至る修行法と不死に資するけれども必ず不死に至るわけではない修行法の区別も意識的にわかるようになってくると思います。

第一にゴータマ・シッダッタ本人の教えにもっとも近いと思われる聖典を選択すること、第二に原文が意味するところの本義を追求すること、第三にその教えが現実に対応するか自分で検証すること、が大事だと思っています。「私はゴータマを越えた」と宣言した人間はゴータマ没後出ていないはずです。「私はブッダである」と宣言した人間もいないはずです。いるかも知れませんが。ですから、ゴータマ本人に遡るのが順当です。

教えの真偽については僕はすでに部分的に実証しつつあります。その分はある程度自信を持って書いています。あとは読まれる方が欲するならば自ら検証されていってもよいと思います。検証せずにただ読むだけでもよいし、読まなくてもよいと思います。読んでいるその人が大事だと思います。


>月さん

「南伝大蔵経・・・に相当」と書いてあるものは僕がWeb上のパーリ語の原典から翻訳しているものです。営利でないならば勝手に使用していただいて構いません。

「根性無し」というのはもともと信勤念定慧の五根がないからこの教えにおいては駄目な人という意味であったかも知れませんが、普通はあまり継続的に頑張れなくてへこたれて途中で諦めてしまう人を意味すると思います。僕は根性なしでもいいと思っています。本人に頑張る理由がないから頑張らないだけなので、理由がないことを頑張れないのは自然なことです。多分、無理をしているのだと思います。だから努力をやめてまた頑張りたくなったら、頑張りたいその分だけ頑張ればいいと思います。

翻訳はこの施分別経の分量だとコピーとペーストしたりして短縮しても1時間かかったりします。だから最近はしていません。このコメント分ぐらいの文章だと推敲しないで打ち続けて20分ぐらいです。見直して25分ぐらいだと思います。打つ前に全体の内容と構成をある程度はっきりイメージしてから打ち込むやり方を覚えないと行けないような気が、今しました。
日記を読ませていただき月さんの見解はある程度了解しました。
原始仏教を学びつつも別の信、別の見解を持っていても全然構わないと考えているので、他の教えも含めて学ぶ人が納得できることが大事だと思います。

参考になったようでよかったです。また何かあれば書き込んでください。

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