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原始仏典コミュの両親は梵・先生・応請

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増支部経典>三集>第四 天使品


「     第四 天使品

   第一 同梵

31.比丘たちよ、子が家内の父母を尊敬供養している良家には梵(ブラフマー)がいるのである。 
 比丘たちよ、子が家内の父母を尊敬供養している良家には先生(プッバ・アーチャリヤ)がいるのである。
 比丘たちよ、子が家内の父母を尊敬供養している良家には供養すべき人(アーフネッヤ[応請])がいるのである。
 比丘たちよ、「梵」とはこれ、父母の別名である。
 比丘たちよ、「先生」とはこれ、父母の別名である。
 比丘たちよ、「供養すべき人」とはこれ、父母の別名である。それはなぜか。
 比丘たちよ、父母は子のために多くを作す者、養う者、育てる者であり、この世を見ることができるようにするからである。

  父母はブラフマー    先生と言われる
  また子らである人々は  応請として大切にする
  それゆえ賢者は彼らを  礼拝し尊敬せよ
  食事をまた飲み物を   衣服と臥具と
  身体に塗ることと入浴と 足を洗うこと
  賢者は父母に      これらの奉仕をし
  ここに彼らは称賛され  死して天にて歓喜する」

   『南伝大蔵経17 増支部経典1』大蔵出版 P214−215 に相当



梵:ブラフマー、brahmāti
先生:プッバーチャリヤ、pubbācariya、プッバ(先)アーチャリヤ(阿闍梨)
供養すべき人:アーフネッヤ、āhuneyya
尊敬供養する:プージェーティ、pūjeti、プージタ(pūjita)で「尊敬供養された」、



「プッバ・アーチャリヤ」(先阿闍梨)を「先生」と訳しましたが、普通は「師」と訳されます。サッター(satthā)も「師」ですが、サッターの方は会社の社長のようなもので、一人だけです。一方、アーチャリヤの方は新参比丘が先輩比丘に就いて色々教えて面倒を見てもらう会社の上司のようなもので、別のアーチャリヤに就くことも可能であり、アーチャリヤを替えることもできるのであえて「先生」と訳してみました。ゴータマへの呼びかけの「先生」はbhanteですからもっと尊い感じです。

「上長」や「先達」でもいいと思います。密教の方面で「阿闍梨」と言うとかなり上の人を意味するようですが、律蔵においては「自分の面倒を見てくれる先輩」と言う意味合いが強いです。ただ律蔵においても徹底して尊敬し尊重するのは同じです。もちろんアーチャリヤも自分の後輩である新参比丘を徹底して面倒をみます。

「アーフネッヤ」を「供養すべき人」と訳しました。「供養すべき人」という語はよく「阿羅漢」の訳で使われてしまっていますが、差別化のために僕は「価値ある人」と解しています。アラハティ(arahati、価値ある、値する)という語から来たものと考えて。どのような価値があるのかというとそれは「アーフティ(āhuti、供儀、供祭、祭祀)をする価値がある」、即ち「アーフネッヤ(āhuneyya、アーフティの義務形)」、「供養すべき」ということなのだと思います。聖サンガの一員である流れに入った人々と流れに入ると決まった人々はみな「供養すべき人」です。有学と無学を供養すべきであると別の箇所で書いてある通りです。しかし、この経においてサンガ以外にも供養すべき人がいることが明らかになっています。「両親」がそれであるということです。別箇所で「無信・無戒・無捨・無慧」の親に信戒捨慧を具えさせれば、恩を返したと見ていいという記述があります。

親孝行に慣れていない場合は照れくさいと思いますので、その場合は遠くから「慈心」を修するのが有効です。僕は寝る前に親への慈心を修するスイッチにしています。数秒ですが十分、反応が変わってきます。自分なりの慈心スイッチや親孝行方法を考案すると利益があります。お土産は基本で、手堅く効果があります。余裕がある人は四摂事の「お土産・優しい言葉・面倒を見る・一緒に行動する」を全部やれば、信・戒・捨・慧を得させ易くする基盤ができます。僕はまだ両親に信戒捨慧の四財を完全には得させていませんから、だいぶ長いスパンで、数年、十数年かけて植えて行こうと考えています。親が嫌いな人はこう考えてみてください。

「親は自分に善いこともしたし、悪いこともした。しかし、それは区別されるべきことだ。親が自分にした一つひとつの善いこと、それは事実だ。一方、親が自分にした一つひとつの悪いこと、これもまた別の事実だ。しかし、ある一つの善いことをしてくれたからと言って、全部の悪が帳消しにされるわけではない。逆にある一つの悪いことをしたからと言って、してくれた全部の善いことが帳消しになるわけでもない。自分の行為を必ず相続しなければいけないなら、親に悪いことをされたからと言って恨むべきではない。恨みという悪感情を持つ行為が自分に悪い報いを将来与えないようにと思って。逆に親に善いことをされた分は、恩に感じ、無理なく恩に報いた方がよい。恩に感じるという善感情と恩に報いるという善行を原因として自分に善い報いが将来来るだろうから。さらに、もし仮に親が善いことをしてくれないとしても、親に善いことをした方がよい。善行は自分が将来相続することになるだろうから。こう考えてみると、親にされた全ての悪いことは水に流して、親がしてくれた全ての善いことに恩を感じて、来世の果報を見ながら親孝行をすることが自分にとって利益がある。しかし、付き合いにくいときもあるし、こちらを不愉快にすることもままある。すると、これからも親は自分に不利益を与え続けるものと見た方が確実だ。その場合は、巧みに避けるようにし、またたとえ不愉快にさせられてもそれにひたすら耐え、絶対に怒らないようにしよう。何をされても怒らないこと、これは親孝行の初めだろう。親孝行を二つに分類するならば、一つは親に悪いことをしないこと、二つは親に善いことをすることとなるだろう。親に何をされても怒らず、怒鳴らず、害さないならば、親に三悪行を為さないことによって半分はクリアだろう。そして、慈心を修し、優しい言葉をかけ、お土産と手伝いや肩たたきなどをすれば、親に三善行を為すことによって円満だろう。そして、真の恩返しは法句という語行を巧みに転じ、信戒捨慧を得させれば完了だ」というふうに。

「人格を劇的に向上させること」、これは求道者にとって重要な成果です。僕の人格向上に資するところが多かった考え方はこれです。


「その苦しみを自分はよく知っているはずなのに、どうして自分はその苦しみを他者に与えているのか」という自分への問いかけです。


たとえば「人に受け入れてもらいたい人にかぎって、人を拒絶し軽蔑していることがままある」ということです。あるいは「人に関心を向けてもらいたい人にかぎって、人に関心を向けず自分のことしか考えない」、あるいは「人に見下されたくない人にかぎって、心の中では人を見下している」などです。

イエスは「何でも人にしてもらいたいと思うことは、人にするようにしなさい」と言っています。外道ですらこの境地なのですから、四諦を最高の真実であると理解している人が、この業の報いを四諦に取り入れないわけにはいきませんし、マスターしないわけにもいきません。つまり、「その苦しみは自分がよくわかっている苦しみじゃないかという苦しみ」、これが苦諦。
「自分が恐れ嫌がるその苦しみを他者に与えてしまっているという事実」、これが集諦。悪報の原因は悪業だから。
「その苦しみをもはや他者に与えないこと」、これが滅諦。悪業の滅は悪報の滅。
「そのために自分が嫌がるこの苦しみを絶対に他者に与えないぞという戒を守り、そのための努力と念と集中、そして以上のことをときに応じて考察する見解、すなわち、自分が嫌がる苦しみを他者に与えないための八正道」、これが道諦。
これを実証して、悪業とその報いの悪循環を断ちます。この方法によって他者が苦因となることを削減し、他者は人生にとって楽因となっていきます。しかし、いまだ聖ではありません。

渇愛と貪りを伴う業を作せば、その愛着対象の変化に応じて苦が生じるという報いがあります。そこで一切の渇愛・貪り・執着を滅するための業を作し、それを完成すれば、愛着対象が変化しても苦が生じないという報いを相続します。言い換えれば、自己を滅する業を作せば自滅という報いを相続します。そのときはブラフマブータ・ダンマブータです。「これが自分である」という執着がゼロになれば「全部自分ではない」ということになります。そのときは「かつて自分と執着していたものは全部捨てたので自分はなくなった。六触処は自分のものではないと知って、六触処は滅した。自分は滅した。しかも経験があり、感受がある。それも自分ではないのだが、確かにある」ということになります。ただ苦のみが滅するということです。また五力は完成されますが、完成されるからこそ「五力は自分ではなく、自分のものでもない」と五力も滅することになります。何も自己として取らず、自分のものとしても取らないこと、これをもって取らずして涅槃する、無取般涅槃とします。しかし、端から見れば「いつものあの人はあの人のままだが、どうやら三毒が尽きたらしい」というそれだけのことです。彼が苦滅を作してもそれは彼だけのことです。他の人はまだ苦に沈んでいます。真正の沙門にとって無明は破壊して当然のことであり、苦滅は常識であり、そこからさらに先があります。しかし、苦滅は最上利益で、他はそれより劣ります。しかし、劣るといっても在るのは快楽の増大のみ。その因果連鎖体を何と表現すればいいのでしょうか。まだそれを実証していない僕があれこれ憶測するのはかえって恥ずかしいことなのでもうやめます。もっと自分が精進しないといけません。


明確な理論的根拠があるわけではないですが、僕としては

 「阿羅漢が身体を捨てた後でも、他者に利益を施すことはできるのではないだろうか」

と考えています。ただあまりこの領域について考えると「無記」を記することになるので考えませんが。素朴に「不死」を考え、その一方で「無我との両立」を考えれば、案外、簡単に両立するかも知れないということです。消去法から言ったら、そのような存在者は可能であるとわかりますし、それでこそブラフマブータ・ダンマブータ・不死者です。ただ「転生」とか「再生」とは言わないだけで。というのは固定的な五蘊を取ることがないので。「では、流動的な五蘊は取るのか」と言われても、「取るとは言わない」と言うしかないのですが。

分を越えた詮索です。








4. Devadūtavaggo

1.Sabrahmakasuttaṃ

31. ‘‘Sabrahmakāni , bhikkhave, tāni kulāni yesaṃ puttānaṃ mātāpitaro ajjhāgāre pūjitā honti. Sapubbācariyakāni, bhikkhave, tāni kulāni yesaṃ puttānaṃ mātāpitaro ajjhāgāre pūjitā honti. Sāhuneyyāni , bhikkhave, tāni kulāni yesaṃ puttānaṃ mātāpitaro ajjhāgāre pūjitā honti. ‘Brahmā’ti, bhikkhave, mātāpitūnaṃ etaṃ adhivacanaṃ. ‘Pubbācariyā’ti, bhikkhave, mātāpitūnaṃ etaṃ adhivacanaṃ. ‘Āhuneyyā’ti , bhikkhave, mātāpitūnaṃ etaṃ adhivacanaṃ. Taṃ kissa hetu? Bahukārā, bhikkhave, mātāpitaro puttānaṃ, āpādakā posakā, imassa lokassa dassetāroti.

‘‘Brahmāti mātāpitaro, pubbācariyāti vuccare;
Āhuneyyā ca puttānaṃ, pajāya anukampakā.
‘‘Tasmā hi ne namasseyya, sakkareyya ca paṇḍito;
Annena atha pānena, vatthena sayanena ca;

Ucchādanena nhāpanena [nahāpanena (sī.)], pādānaṃ dhovanena ca.
‘‘Tāya naṃ pāricariyāya, mātāpitūsu paṇḍitā;
Idheva [idha ceva (sī.)] naṃ pasaṃsanti, pecca sagge pamodatī’’ti [sagge ca modatīti (sī.) itivu. 106 itivuttake]. paṭhamaṃ;

コメント(4)

僕は両親に対しては自分の中で特別な地位を授けています。


両親からは肉体相続・養育・様々な援助、最後に両親が死んでからの遺産相続など様々な利益を恩として受けています。その中でも「肉体の相続」こそが両親が常に特別な地位にある最重要の要素だと思います。

クローンとして生まれたわけではないので、父親と母親の双方の遺伝子が必要だったということを長じてから類推します。胎児期・乳児期の記憶は相当な念自覚がある人でなければ自覚して体験できていないでしょうし、思い出すことができないと思います。ですから、自分の親が確かに自分の親であったのだろうと母子手帳や色々な情報から類推してこの二人が自分の親だと結論します。

父親からも母親からも遺伝子を受け継ぎますので、ここではまだ二人の間に差別はないです。しかし、受胎してから生まれるまではずっと母親の胎内で育てられるので、それがたとえ母親にとって無意識だとしてもその恩恵において母親からの恩はここで父親を凌駕します。このゆえに男女問わず誰にとっても母親が近しく恩ある存在として現れてきます。

生まれてからは養育や援助は実の親でない人もいると思いますが、肉体相続は誰もが共通です。この肉体相続という利益と恩のために両親は特別な地位にあると思います。様々な業の報いにより人間として生まれるのは必然であったとは思います。しかし必然であったとしても両親の肉体を相続するという恩恵を享受しているということも事実です。偶然であっても必然であっても、恩恵を受け利益を与えられた以上はそこに恩を感じるということ。これは善人の資質として相応しいものです。

恩義に感じて、できる範囲で自分も他人も傷付けずにいささかでも恩に報いる三行を為すことをするならば、それはさらなる親愛と絆を深め、長きにわたって信頼を獲得するものです。与え与えられて、互いの絆と信頼を強くすることによって双方が互いに長く繁栄するものです。仮に裏切られたとしても、業の報いは与えた分の恩恵を必ずもたらすものと信じれば、善業を為すに十分です。

親の恩に報いるには聖なる信・戒・施・慧を与えれば恩に報いたと言えるという主旨のことが書いてあります。しかし四諦八正道を信じさせるのも、五戒を守らせるのも、寄付を習慣にさせることも、四諦を実際に確認してもらうことも困難なことです。信戒施慧の四聖財を両親に与えるために長期的な視点をもって五カ年計画を基本単位にして、辛抱強く優しく働きかけるほかありません。その布石として慈心を修することは効果的だと思います。

僕は無量心以外の慈心をするとき、つまり無量ではなく対象を特定して慈心を修するときはまず両親に数分慈心を修してから他の対象に慈心を修します。利益を与える対象はまず恩ある人々からだと思います。ゴータマも正覚後はまず以前に師事したアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタに説法しようとしました。もちろん二人の心が清浄で聞く耳を持っていたというのもあると思います。しかし二人はすでに死んでいたのでかつての修行仲間であって五比丘のもとに行きました。すでに確定的な善利を獲得している正覚者でさえかつての恩に報いようとします。それならばいまだ漏尽を得ず世間で色々な援助が必要な在家の人間こそが多く恩に報いて自分の生活の土台を確固たるものにする必要があります。


両親に特別な地位を授け、両親の恩に自他を傷付けない範囲で報いつつ、できれば信戒施慧を学ばせることができたならば、それこそが真の意味で両親の恩に報い、親の呪縛を破り、親を越えたと言えると思います。さらに業の報いを相続して長く利益と楽を享受し、そこに無常苦無我も見ることにより出離を知って福を享受できるならば言うことはないと思います。結果的に親不孝は自分の不利益となり、親孝行は自分の利益、大利になるものと思います。
僕は両親をはじめ、家族や友人や地域に対して慈心を修するときに四つのものを時々思います。


一つは相手に与えられた利益です。相手が身体・言葉・心で利益を与えてくれた分を全て思い出します(実際、全ては思い出しきれませんので、「全て思い出す」という意識の使い方を短時間行なう感じです)。この分において、自他を傷付けない範囲で相手の恩に報いようと改めて思うことによって恩返しのモチベーションを高めます。徐々に恩に報いていずれは聖なる信財・戒財・施財・慧財を獲得させることを目指します。実際、聖なる四財を獲得させるのは難しいですが。たとえば両親から受けた恩や良い思い出などを全想起してみるといいと思います。僕はあることに関する事実関係を全て一瞬で想起する意識の使い方をすることを「全想起」と勝手に名付けています。

二つは相手から受けた不利益です。相手がこちらにしてきた三悪行の分です。これに関する怒りや復讐心は業の報いという自動システムに任せて信頼して、全て水に流します。「許す」「許し」です。相手がこちらに犯した全ての三悪行を全想起し、それを全て許します。復讐は業の報いが実在すれば、悪循環の開始のスイッチになりますのでこれを避けます。

三つは自分が犯した相手への罪で、身体・言葉・心で相手を傷付けた分です。自分が相手に犯した三悪行を全想起し、それを原因として生じた自他双方の不利益性を考察します。いずれ自分に返って来るであろう悪業の報いを予期して、さらにその受けるであろう苦受を耐え切る覚悟をして、二度と利益なき苦を生じないように、同じ三悪行を為さないように未来への防御として戒と無害を修習します。

現実の全てはもともと取り返しのつかないものですが、せめてもの「罪滅ぼし」として相手に新たな三善行を為す意図をここで作り出します。罪滅ぼしの意向が生じるには、罪を罪として認めることと、取り返しはつかないけれど、相手との新たな関係を作れると信じて努力することが必要です。業の報いを信じるならば、より継続的な努力は固くなります。

しかし罪滅ぼしは義務ではないです(厳密な意味での罪滅ぼしは業の報いを受け切ることでしかないとも思いますが一般に通用される語として用いています)。罪滅ぼしは気持ちの表現、気持ちの伝え方の一つであると思います。また罪滅ぼしを原因として結果される利益を求める場合でも、罪滅ぼしは生じ得ます。気持ちを伝えるということは「見解の一致」の一環であり、これは六可念法、六和合法の最重要項目です。

離婚の原因の多くが「価値観の不一致」ですが、これは因果連鎖から見ても正しいと思います。離婚だけでなく友人との絶交や外交の途絶もまた価値観の不一致がもっとも大きな要因であり、宗教的にも破僧や分裂や派閥抗争のほとんど全ては価値観の不一致から起きています。「話せばわかる」と信じるかぎりは互いの関係は続きますが「話しても無駄だ」と一方が結論した段階で関係の崩壊が始まります。そして場合によっては暴力の行使が始まります。語行で駄目なら身行でわからせようというのも暴力の原因の一つです。暴力をコミュニケーション手段として使えば、さらなる分離と未来に苦の報いが期待されます。

全ての人間関係はもたれ合って立つトランプのように、一方が嫌になればそれで簡単に崩壊します。「互いが利益を得られる範囲でのみ」人間関係は維持されます。不利益が生じ始める段階から、相手への嫌悪が生じ始めます。

「価値観の不一致」というのは原始仏教の正見や邪見で使われるところの「見解」と同じ意味です。八正道、それに正知と正解脱を加えた十正法の最初に正しい見解、価値観、考え方が来るのはそういう意味でも必然的なことです。

人と人は同じ考え方であれば仲が良くなりやすく、違う考え方であれば仲は悪くなりやすいです。違う考え方や見解や生き方であれば、相談や話し合いや契約書を交わすなどして明確な一致を得るまでは互いに空気を読み合うだけでは維持し難いのが人間関係です。サービスと代償と違反を明確にしなければ、後で揉めることになります。互いの考える「空気」や「当たり前のこと」が見解を違える者同士では、まったく異なっていることが事後的に明らかになってきます。

罪滅ぼしや反省の意を示し、相手に自分の気持ちを伝えるということは「私の気持ちは事の一件他に関してあなたと同じ見解を有しているところから生じたものです」という意味も含まれています。これが友好と和合と一致を生み出します。反省しないひねくれ者が嫌われるのは自然なことであり、素直に反省して謝る人間がその評価を取り戻し愛されるのも自然なことです。
四つ目は自分が相手に為した三善行を全想起し、自分が相手に与えた利益を全想起することですが、これに関する報酬は相手からは期待しないで、業の報いという自動システムに期待すれば、恩着せがましい態度を取らなくて済み、相手に「お返ししなければ」という圧迫感を与えずに済みます。こうして利益を与える者は恩着せがましい態度を取らないことにより、ただでさえ愛されるのにさらに愛される者となっていきます。それもまた無常ですが、しかし滅する諸々の俗事に依拠して聖なる修行を修行して、聖なる力を手に入れて悪がもはや生じなくなる境地に達することができれば、それは関わる全てのものに長期にわたって利益をもたらす無常ではあるが福多き俗事となります。


この自分から相手に与えた利益と不利益、相手から与えられた利益と不利益の四つを全想起して、改めて自分と相手の関係を洗い出して、業理論を適用して今後の相手との関係の方針を導き出します。ついで、その場において許しや慈心や謝罪の念やこちらの恩に報いなくてもよいという意図を送るなりして、双方に利益ある関係構築の一助として慈しみある心の行ないを実行します。これらは一人で自分の部屋でできます。自分の部屋で外の人間関係の改善の操作ができることは、この方法論を知っている人には大きな利益です。この方法を実行するには身行と語行の他に、「意行が外界に影響を与える」という仮説を信じるか一時採用することが重要です。


対人関係は念力と業の報いという仮説の見解を一時的に受け入れるだけでも、その検証のための言動と心の行ないから多くの利益を生み出すものと思います。その中でも「親から受けた全ての恩恵」「親に傷付けられた全てのこと」「自分が親を傷付けた全てのこと」「自分が親に利益を与えた全てのこと」を全想起することはもっとも身近でもっとも重要な全想起であると思います。


この経典、「両親は神様です」と訳してもよいかも知れません。

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