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洛北高校コミュのあれから何年…。

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私が洛北に通っていた頃 まだ旧い校舎でした。趣の在る、一見大学のようなその姿を懐かしく思い出します。
『湯川秀樹』の出身校と言うだけでなく、京都屈指の秀才の集まりであったとあこがれていました。(そのような人が多くいました。)ですから私のようなものが共に学べたことは、いたく誇りとおもっていました。
校舎も老朽化が進み、建てなおされ、すっかり現代的にじゃれた風貌にはなっていますが、当時のあの校舎をご存知の方がいらしゃれば、嬉しくおもいます。
数学の前原先生をはっきりとおぼえておます。
何年か前学校に赴き先生の消息をたずねましたが、判りませんでした。もう、40年以上も前ですので、調べようも無いとのことで、寂しくおもっています。まさに、三好達治「丸木橋」の心境です。
 帰らぬ日 ものみなの ゆかしかりしよ

当時を覚えていらしゃる方 ご一報くださいますよう…。

コメント(35)

ここは若い人達だけの場所ではないのですから
洛北出身の遠い昔の方も 是非 おこしくださって
昔の話をしようではありませんか。
こちらのトピには場違いな言動になることを予めお心置き戴きたいと願いつつ、僭越ながら一筆。。。言葉とは裏腹に、歴史ある趣豊かな高校に通えて良かったという感謝の念は尽きません。では。。。

たぶん、わたくしの世代(80年代後半)前後は「洛北の歴史からぬぐい去りたい世代」だと自負しております。諸先輩また優秀な現役の後輩方、我々の若気の至りをお許しくださいませ。原付き免許取り上げられる、再履修、留年、停学、仮装行列の仕込みに担任(ここポイント)共々徹夜、飲酒喫煙、ブッチ、友達の読書感想文をバイトで書いて、その友達が賞をとった等々、あらゆる想い出が今の私の原点=打たれ強く、そして這い上がる、となっております。あれらは意味のない行動だったのでしょうか。いえ違います。数々のドラマが残してくれたもの、、、それは、友人がとった賞への雀の涙程の屈辱(はぁ?)が私を書き人への道に導いてくれたことです。今では(1)マイペース、(2)白黒ハッキリ、で社会人やってます。そして、その屈辱(はぁ?)がバネになって生まれる数々の私の作文が世界を飛び回ることへの喜びは、洛北での生活なしには生まれなかったと、誇りに思っております。

この場をお借りして、我々の世代の一般常識を逸脱した行動にお詫び申し上げます。

また、ここで諸先輩方の想い出話をお聞かせ頂ければ、なお一層、我々の浅はかな行動を振り返り反省し、、、、。ちと言葉が浮かばない。

なにせ、ここには「あゆみ」(でしたっけ?間違ってたらごめんなさい)よりも強い世代を超えた交流がございますので、皆様、和気あいあいと想い出話に花を咲かせようではないですか。ちょっとしつこかったかな?ごめんなさい。

かしこ
私の祖父(私が高校入学当時90歳)は
私が洛北に入学する事を伝えると

「京一中か!でかしたっ!」と

大喜びして、涙を流してくれました。。。。。。
今ではその祖父の想いに負けないように精進しております。

かしこ
「洛北高校前」とい路面電車がありました。
私はそこから修学院に数学を習いにいっていました。

私の頃はそれ以前の方々とは少し違ってきた頃で
そこそこの成績でも入学できていたようです。
「まっさん」のお父様はきっと少し私などより前の秀才の集まり
ではなかったかと…
誰でも(語弊はありますが)入る事の出きるような校風になっていますが「洛北以外の高校なんていかせへん」とおしゃったお父様におみせしたいですね。
お父様に感謝です。『洛北』は素晴らしい高校です。
この誇りは生きていく上にずっと輝いて、歩む道を照らしてくれるでしょうから…
まっさん
畏れ多いことです。
おとうさまは私よりはるか上級のご立派なかたのようで…。
路面電車は学校の前ではなく、少し歩いた大通りに停留場がありました。お父様はご存知かそれともお使いにならなかったのでは?と思います。私はごく近くに住んでおりました。(学校に近い事は大きな魅力でした。)
名門「洛北」は丁度私達の頃にきえていったのでしょう。
誇るに足る学校です。
あそこから京大をめざしたものです。
今は昔 ですが。


洛北でのそのころの思い出を
素晴らしい先生のことなども
今度きいてくださいますか?
懐かしいです
当時弓道部でした。「洛北高校前」の電停から市電に乗って試合に行きました。
 在学中は、『ルビーの指輪』が流行ってたっけ?
たのきん、あみん、横浜銀蝿・・・そんな時代だった。
 授業サボって、ビリヤード行ったり(パチンコラッキーの二階、まだあるのかな?)、ボーリング行ったり。楽しかった。
 先生方も‘味のある方’が多く、あの3年間は一生の宝物です。
勉強はキライでしたが、学校へ行くのはすごく楽しかったし、好きだった。
あの、自由でおおらかな校風、今はどうなっているのでしょうね?
校門を入ってすぐまずその正面玄関から入りましたね。薄ぐらい、
入るとすぐ真ん中にどでかいかいだんがありました。私のお目当ては左上の掲示板に書かれている「休講」のお知らせに他ありませんでした。見つけるとすぐ家(五分もかからない)にとって返し2度寝をするのが喜びでした。
やたら「休講」が多くて母は帰ってくる私に呆れ顔で「またぁ?」と嘆いておりました。
しかし、勉強はしました。(きにいったものだけてすが)
特に数学はすきでしたね。素晴らしいとしかいえないあの偉大な
前原先生に教えていただいた事は一生の宝と思っています。
前原先生の事は次回また。
☆まっさん

今日は「前原先生」の事を…。
さきほど苦労して折角書きこんだのに
ちょっと間違えてうっかりクリックしたら 消えてしまいました。

再挑戦です。

人にはその一生に忘れることの出来ない心の「師」がいるように思う。ただ一人であっても。
私にもそのような出会いがあった。
高校に入学して初めての数学の授業でのこと。
恐らく「洛北」がそうであったのか 中学とちがって
選択する科目ごとに講義室まで移動しながらの授業であったと記憶する。
大学ならいざ知らず高校でのそういった授業は斬新で驚きの連続であった。
クラスとも名ばかりで同級生のなかには同じ授業でかおをあわせることのないまま終わってしまう「クラスメイト」もいたのである。
その日も数学の教科書を片手に第五講義室にでむいた。
ぞろぞろとクラスの違う見慣れない新入生たちがいた。
そのことごとくが初めての授業にあたっての不安と期待とで
緊張し そのためか やかましいほどのどよめきに似た空気が絶え間なく続いていた。
講義室のドアがいつのまにか開いて一人のひどく痩せたひどく変わった 白衣を身にまとった人が現れ 喧騒の中 気に留めることもなく また誰も気づく風でもなく
その人は つと 手にチョークをとって
黒板の上の方から 書き始めた。
「π」の値を。
やがて黒板は一面に細かい数字で覆われた。
その頃にはもうだれも声を発する生徒はいなくなり
目の前で起きている信じられないような 恐ろしいとさえ思えるような 場面を前に しずかになった。
静寂だけが 私達をつつんでいた。

『数学はごまかしがききません。出来なくてもそれは恥ずかしい事ではありません。ごまかそうとする心の方がずっと恥ずかしい事です。』確かに「前原先生」はそう言われた。

何も仕掛ける事もせずまた生徒の歓心をひこうとませず
たった何分かで あの場にいた生徒の心を 一人残らず
つかんでしまった。

その日 「前原先生」にたいする畏敬の念で
ぼんやりしている私に 父はたずねた。
高校生活の事を。
私の口から「前原先生」のことを聞くやいなや
父は 素早く車を手配し 先生に会いに行くのだと
驚いている私を強く促した。
それは 先生のお宅にむかう車のなかで 明かされた。
父には 大学の時初めて心から信頼し尊敬できる先生に巡り会ったのだということ それは自分の人生にとってどれほどの財産であったかということ それはどんなにか得がたく尊いものであるかということ その時は突然訪れて その時を逃すともう二度と気がつくことはないということ 自分の力で掴み取らなければならないこと
父は熱くそう語ったのだった。

何年も昔の事なので 何故あの時 父が先生のお住まいを知っていたか等 不思議なことばかりである。
たずねようにも父はもういない。
遠い日のこの夜の事は 我が事のように 興奮し 力強く
私を 「前原先生」のもとに連れて行ってくれた父の姿とともに
忘れる事はできない。
ありがたいと心から感謝している。

その「前原先生」はあれからそして消息の途絶えてしまった今も
私の中で輝き続けている。
おそらくこれからも。
>チャーさん

↑の書き込み、大変感銘を受けました。


思えば「洛北」という高校は、その辺の大学よりも大学っぽい、先生たちも個性的で印象的な方揃いでした。あの頃のことは今でも大事な思い出です。


私は、昭和62年卒。特に印象深いのは社会科の山本先生と音楽の松田先生、そして国語の河野先生です。

山本先生と言えば台湾バナナ。歴史の年表や地名を記憶するだけが社会科じゃないと教わりました。毎日新聞を読む習慣がついたのは彼のお陰です。

松田先生は調律方法の違う2台のグランドピアノでの「月光」そしてメサイア。半年がかりでドイツ語の発音から教わりました。とてつもなくハイカラな香りがして、一発で参ってしまった記憶があります。

河野先生はよく授業を忘れる先生でした。授業が終わる頃に真っ赤な顔で教室にやってきて「あんたたち卑怯だわよ!」と叫んでおられました(笑)特に古文を重点的に叩き込まれました。小テストも多かった。


みなさん気付かれていると思いますが、洛北高校出身者はわが母校のことを「洛北」って言いますね。なぜか「洛北高校」っていうより「洛北」っていうほうがピンときます。
syuさん

そうですね 確かに「洛北」と。

「楽」で「ほくほく」していた面もおおくありましたが。

もう跡形も無く昔の校舎は無くなってしまったのですね。
さびしくかなしいことです。

校庭にあった大きな樹は銀杏の樹だったのでしょうか
それとも違ったのか…なんの樹だったのか…
あまりのも昔ですので 定かではありませんが

私のクラスの扉はいつも開け放されていて
(えらくこだわりのない自由な校風だったせいなのか)
最前列にあった私の席からその大きな樹は 窓の外 よく見えて
春 美しい「緑」の葉が風に揺れていました。
この 一瞬を後々までも 覚えておこうと
しっかり 目に 焼つけた日のことは
その時の 深い感動と共に 決して 忘れる事は
ないでしょう。
洛北の試験 (実力考査とか中間・期末考査などの)の時
今でもそうなのかどうか わかりませんが
前の教壇の上に できた人は 試験用紙を裏にしてどんどん重ね
退出してもよかったものです。

私は その結果如何に関らず 真っ先に出して家に直行 自分の時間を有効に使う事ができて 試験の期間は大好きでした。

これ以上いくら考えてももう答えは望めそうもない時さっさとその場の息苦しい空気から一刻も早く逃れられて退出できるという選択肢はとても素晴らしいと洛北ではのやり方に 感動していました。

その時の私は成績はどうでもいいことで
大切な自分の時間を いかに意義あるものにするかと
それだけでした。
幾何の問題を解いているほうが
あの教室に残って ああだこうだと 出てこない解答を
無理矢理考えているよりも
遥かに 大切に思えたのです。
勿論 音楽を聴いたり 本を読んだり
人は なんと思ったかは知りませんが
充分に楽しく有意義な時間の過ごし方でした。
すべて 洛北ならではの 遠い日の
思いでです。

今でも
試験の時 あのように と…
今年も 行って見ようと思っています。

もう電車は走っていませんがバスはあります。

あの道を歩いて見ようと思います。

暑い暑い京都の夏ですが。

洛北は どうなったのでしょうね。
最後に見た時 立派な今風な建物になっていましたが。

昔の姿を 見たいと おもっています。
そのころの 写真なり 何か映像を お持ちの方は
是非 見せていただきたく お願い申し上げます。
ルイさん

休講の黒板 ありましたよね。
あんなに頻繁に休講があっていいものだったのかと
今思えば不思議です。
16歳の私にはただただありがたく思え 毎日の様に家と学校の間を走りまわっていました。
どんなにか母は納得いかなかったことでしょう。

当時 服部・松本・黒澤・大島・村山などの先生方がいらしたのですが。

昔の洛北の(卒業アルバムでも)写真など
よろしかったら こちらで 見せていただけないでしょうか。

父の仕事の関係で日本を転転としている間に
洛北関係のものは 全て 無くしてしまい なにもないのです。
試験の時 みなさんは 持ち物を 当然持っていかれるのでしょうね。調べ上げたノートなり 重要な事を書き出したメモなり
それなりの入れ物につっこんで 持ってこられるのでしょうか。

ほんとうに何年も前になります。
試験当日の朝 校門のくぐるAくんを見かけました。
日ごろからとても大人しくそして間違い無く秀才で(確か お父さんが教育に携わっている方だったと記憶します。)けれど多くの目だった秀才の中にいて比較的控えめなひとでした。
Aくんはむきだしの下敷きと筆記用具だけを片手にしていました。
私は その潔いとも言える姿に 清々しいものを 感じないでは
いられませんでした。感動を覚えたといってもいいでしょう。
ゆっくりと それだけを 手に 試験に臨んで行くAくんの姿は
それ以後ずっと 私の心にのこっています。
だからと言っては 語弊がありますが
以後わたしはどのような時も試験に臨む時はその姿勢を忘れませんでしたし それこそが 本当のような気がしてなりません。
勿論これは 私の勝手な思い込みですので
ひとそれぞれの 試験への臨み方は あって然るべきとは思っています。
試験を受けるからには その時 すべてを もうだしきって
潔く臨むというのは しかし 美しいと思っています。
今年もまた夏がきました。
毎年京都に出かけるのですが
今年は 洛北の写真をとってきます。
京都にいる方ばかりではないでしょうから
変わり様をご覧になって きっと 驚かれるのではと 思います。

昔の面影は 全くありません。
構内に入れるようなら 素早く 入ってみましょう。
最近このコミュニティに参加しました。
syuさん・・国語の河野先生って正子先生ですか?私の
担任だった先生かもしれません。だとしたら結構長く洛北におられたのですね。
>まろんままさん

そうです。下の名前はうろ覚えなんですが、そうだと思います。気の強い反面すっとぼけたとこもあって憎めない先生でしたw
syuさん

クラスで何かあって先生が泣かれたことを覚えています。
結構迷惑をかけたクラスだったのかも?
とにかく感情の起伏の激しい先生でしたねw
授業をすっぽかしたときの逆ギレの様子は今でも鮮明に覚えています。
 国語の河野先生、私も3年間、お世話になりました。
 よく、教えておられる内容のことについて私がクレームを付けていたものですが、ある時など喧嘩みたいになって、

「ほな、あんたが教えなさい」

 と言うなり、私が教壇に立たされて「先生」にさせられ、河野先生が私の席に座って聴講するという事までありました…(苦笑)

 2年の時に河野先生が産休を取られ、その時にピンチヒッターで来られていたのが中村(現姓・豆野)先生(=当時・講師)でしたが、その中村(現姓・豆野)先生も後に正式な教諭となられて洛北で教えられていたようです。
ほんまに面白い先生が多かった「洛北」でした。枚挙に暇なしとはこのことです。
俺は授業時間はクラブの為の休息の時間だったから授業をまともに聞いた記憶が全く無いんよねぇ。常に寝てたし。だから担当の先生の名前も誰一人憶えてないし。思い出が無いなんて今から考えれば勿体無い事をしたと思います・・・
修学院 方面でした。
あの辺りもすっかり変わってしまい
昔の記憶を辿り歩いて見ましたが
すっかり面影がなくなり 開けた土地となっていました。
中林町・・というぼんやりとした場所を求め
何時間か探して漸く見つけた懐かしい先生のお宅は
廃屋となり あれた姿で私の前に現れました。

もう 手だてはありません。
そういう先生が生きていらしたとの
私の思いだけしか・・
空気までもが「洛北」を暖かく包んでいました。
そこには時間の流れも優しく過ぎていき私たち「洛北」の生徒は
随分と贅沢な空間を共有していたようです。
遥か昔・・帰らぬ日ではありますが。
いつまでも音たてて蘇る「洛北」での澄んだ時間は
同じ今の『洛北』とは違った遠い昔の「洛北」なのでしょう。

その「誇り」に似た思いは いつまでも
消える事は無いのだとおもっています。
少し前の書き込みにあった豆野(旧姓中村)はるみ先生は、小生の高校のときの同級生で、今も洛北で国語を教えています。高校生のころは、勉強だけでなく、スポーツも万能で、恒例の鴨川沿いのマラソンで、1、2位を争ってました。今でも若くて、子供が3人いらっしゃると聞きましたが、外見は昔とほとんど変わってないようです。
豆野先生に3年間直接ではないけどお世話になりましたよワタシ(^O^)/
いつも出席簿を手にして名指しで質問を投げかける先生がいらして おおいに皆の顰蹙をかっていました
今では懐かしいあの先生はどうされたことでしょうか 質問されても何も答えず 黙っていたのは
私だけではなく 泣きそうになっていたあの先生のことを思います 呼び出されて 何も言葉を発することもない私に絞り出すように言って言葉が忘れられない 「もう話し合う余地もないのですか?!」  先生ごめんなさい   遠い昔です 先生ごめんなさい
ここで頑張っているのは私だけなのかと思うくらい静かな場所になっています。こんな静かなmixiもまたいいのかなと思うことにします。それにしても静か です。

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