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庄司 薫 コミュの現代の若者にとって庄司薫とは何ぞや?

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私、正直に言います。46歳です。
けっこうおじさんですが、それでもいわゆる団塊の世代のひとまわり下です。
そんな私は、高校〜大学の頃、相当猛烈に「全共闘」のミーハーっていうか、オタクでして、当時の歴史や、新左翼についてむちゃくちゃ勉強してました。
だから、庄司薫にむちゃくちゃハマりまして、暗唱できるぐらいに何回も読んだものです。

で、本題ですが、「政治の季節」もはるか遠くに過ぎ去りし今日この頃、庄司薫なんて読む人もまれだと思っていたのですが、こんなコミュニティを発見して、正直びっくりしています。
はっきり言って、私の世代でも、庄司薫にピンとくる人は少なかったのですが、最近のお若い皆さんにとって、薫君の青春とか、あの時代は、どういう風に映っているのですか?興味津々です。ぜひ教えてください。

ところで、確か「狼なんか恐くない」で、70ぐらいになったら「福翁‥‥」とかいうペンネームで作家活動をしてやる、と宣言していたのですが、たしか、そろそろそのぐらいのお歳ですよね。ぜひ、約束を守ってほしいと思うのですが‥‥。

コメント(18)

私は政治学を勉強したいと思っているのですが、
庄司薫の政治論に惹かれました。
最初は話の面白さばかりに目がいっていたのですが、
庄司さんにとって、
小説は自ら考える理論の発表手段であると
最近思い知りました。
その多くは、教官である丸山眞男と似通った
エリート精神に基づいているものの、
多くの指摘は的確で、鋭いです。

また1969年を考えた際、
そこに日本の社会的転機があり
さらに
今また転機が起ころうとしているということを
感じずにはいられず、
私は特に日本の現代政治を研究したいと思っているので
庄司さんの著作は
かなりの資料的価値もあると思います。

初めて4部作を読んだのは高校生のときでしたが、
上京して、
分かるようになった記述も多い昨今です。
どうもコメントありがとうございます。

私が庄司薫の本に出会った時は、正直言って、あの文体が大嫌いでした。当時の私は、それこそガチガチの古典的な純文学少年で、「こんな大衆小説!」と思っていたのです。
ところが、友人に勧められるままに読み始めて、その緻密に構築された知的空間の広がりを発見して、自分の先入観の浅さを痛感し、恥じ入りました。芥川賞選考会で三島が推挙したのもうなずけました。

ですから、今の若い人にも是非読んでほしいのですが、いかんせん、この小説の風俗性=時代性が邪魔をしてしまうのです。
あの60年代後半の空気というのは、本当に独特のものがありまして、それがどうしても壁になってしまう‥‥と残念でなりません。
もちろん、そのような時代を超えた普遍性があるからこそ、読んでほしいのですが‥‥。

皆さんは、その「時代の壁」をどう思われますか?
参考までに、あの時代のこと、特に「全共闘」「新左翼」に関心のある方にちょっとお薦めのホームページです。
    ↓
http://marukyo.cosm.co.jp/
「力のある作品は時代の壁を打ち砕く」というのには、全面的に同感です。
というか、そう言ってもらえるとうれしいです。

たぶん、どんな文学作品もそうなのでしょうが、その作品の書かれた時代の「空気」というものがあります。
庄司薫作品の場合、それが本質ではないにせよ、その「空気感」に負うところが少なくないと思うのですよ。
そして、あの全共闘時代と現代とのあまりにもかけ離れた「空気感」は、愕然とするほどです。

例えば、「左翼」と言う言葉一つ取ってみても、語感が全く違います。多くの人が社会党や共産党に期待し、革新自治体が次々と生まれていたあの「左翼」のポジィティブなイメージと、「北朝鮮」「恐い」と言ったイメージでは、全く別物としか思えません。また、「新左翼」「全共闘」にしても、少なからぬ市民から「学生さん負けるな!」と判官贔屓を受けていた当時と、現代の「過激派」とでは、重なる所が全くないように思えてしまうのです。

断っておきますが、「あの時代のことはあの時代の人間にしかわからない」などと特権意識を持ってるわけではないのです。初めにお断りしたように、私も全共闘世代ではありませんから。
浅間山荘事件が小学生の時ですから、左翼に対する
ポジティブなイメージは失われつつある頃の世代です。

浅間山荘以後の世代には、左翼政治活動に対して支援するという概念はちょっと分かりにくいのではないでしょうか。
文学的価値が損なわれるとは思いませんが、文章に引っかかりを覚えることはあると思います。

銀座のイメージも、今とはかなり違うでしょう。
サングラスかけて補虫編っている人は、当時でも少なかったでしょうが、いそうな感じはあったはずです。
新宿が「若者の街」になるのは、そのすぐあとで(ヨドバシカメラのCMソングにその名残がある)、渋谷に至ってはまだ開発されていない時代です。
そういう時代背景が分かると、なお面白いと思いますが、知らないと理解できないということはないと思います。

ところで、「サンパとかミンセー」「反代々木系、代々木系」という言葉はさっぱり分かりませんでした。
代々木系、民青は調べればすぐ分かったのですが、サンパが三派連合のことだと気付いたのは、現代書館 For Beginners シリーズの「全学連」を読んでからです。

その後、気になって連合赤軍がモチーフの三田誠広の小説「漂流記」とか、永田洋子の手記を数冊読みました。

>全共闘世代であるかどうかなんて関係有りません。
>なぜそこを強調するのでしょうか。

「特権意識を持ってるわけではない」「全共闘世代ではありません」と、特に強調されているようには見えないのですが。
全共闘世代をあつかった小説に、結構面白いのが多いのですが、いかんせん、時代背景の知識がネックになってわかりにくくなり、読まれにくくなっているのが残念な気がします。
例えば、柴田翔とか高橋和巳とか、ちょっと古いですけど倉橋由美子とか、三田誠弘や村上龍の一部の作品とか。
そういう意味では、幕末小説みたいなマニアックなものになってしまわざるを得ないのですよね。
確かに、ネットとかで「言葉」の意味とかは理解できるのですが、前に言った「空気感」は伝わりにくくなってると思います。
例えば、ジーパンのポケットに朝ジャー(「朝日ジャーナル」のことです)をつっこんで、NR(「ノンセクトラディカル」のことです)を気取っている学生とか、サークルにオルグにやってくる赤ヘルのお兄さんとかの雰囲気なんてのは、今じゃ全くお目にかかれませんからねぇ。
私はたまたま京都出身で、学生時代に日常風景として京大や同志社の赤ヘル学生やセクト文字のタテカン(これはわかりますよね)を見ていたので、何となく当時の雰囲気が想像できるのですが‥‥。東京とかでは、70年代後半には完全に消滅していた風景ですからね。
始めまして、自分はこの時代な関する知識が無く、薫君シリーズを熟読している人間です。


言論や主義主張の場に棒やヘルメットが何故必要なのかと疑問に持つ事はあれど、時代の壁は感じません。(笑)
しかし、多くの人達が薫クンシリーズを読んで、懐かしいという感想がメインの人が多いようですね。
気にしている人にはそう見えるみたいな所は、どんな作品にもあるのでしょうね。
それにこの作品が闘争というものとは切り離せないものだったんだなーというのをある文章によって知りました。(http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/page240.html)
でもその切り離せないと言うのは、むしろ対極なる物だからであって、そういう傾向を誘発するものではないと思います。

そもそも薫クンシリーズの特徴は全ての人々の悲哀を描き、その人達に○を付けていく事なんです。(まー、これはネットのどこかで見た文章の受け売りですが)
赤ではエリート達の悲哀、黒では闘争の人達の悲哀、青ではヒッピーや大人達の悲哀。
所が闘争の人たちはさっきリンクを貼った文章にあるように、意見の違う者に暴力を振るったりしたわけですよね?
己の夢の為ではあれ、競争し、傷つけ、殺しあうなんてのはむしろこの作品とは対極にあると思うのです。
コメントありがとうございます。
厳密に言うと薫君は「全共闘直後世代」なんですよね。
そして、いつも、全共闘の「兄世代」をクールに客観的に観察しています。
だから「庄司薫」=「全共闘」というのは大変間違った見方で、薫君はどちらかというと全共闘に批判的な立場です。「アンチ全共闘」です。
だから、もちろん「暴力的プロテスト」を肯定してはいません。しかし、かと言って、単純に「暴力反対!」と叫ぶ代々木系(共産党系)学生も肯定できない。その辺の微妙な心理が面白いと私は思っています。
ただ、その批判の対象である全共闘を理解していないと、その繊細で少し屈折した「批判精神」のヒダが読み取りにくいのも事実なんです。
ちょっと荒っぽい説明になったので、もう少し追加しておきます。

「薫君シリーズ」を読むと、あちこちに「君は代々木か反代々木(サンパ)か」「それともノンポリか」といった問いかけが出てきますよね。そして、薫君は、その二者、あるいは三者択一のような色分けの構図自体を否定しようとしてますよね。あそこらへんは、今の人には非常にわかりにくいと思うんです。
今で言えば、「共産党支持か、過激派支持か」になっちゃうんですよ。「そんなのどっちも嫌い」と、今の人なら何の迷いもなく思うでしょう?
でも、「知的人間であること」=「代々木or反代々木」、「ノンポリ」=「知的であることを下りること」という、今では全く信じられない構図が当時はあったんです。いわば、「左翼神話」が生きていた時代なんです。
そんな中で「代々木でも反代々木でもなく、かつ、知的に生きる」という第三の道を歩こうと薫君は決意しています。これが当時なら「日和見」「ナンセンス」とか言われた時代なんですよね。
その辺の、薫君の迷いと苦悩と決意が、ある意味、「薫君シリーズ」の大きな読み所だと思うんです。

私が「時代背景の壁」と言ってるのは、そういうようなことです。
>そううつさん、

そうですね。私はそううつさんより若い42歳ですが、地方の国立大に行ったもので、革マル派が教室に乗り込んできてアジを始めたというような経験があるので60年代の雰囲気が若干分かります。あとで文献も読みました。でも左翼思想そのものが崩壊しつつある今日、何の予備知識もない現代の若者に背景を理解しろというのは難しいかも知れませんね。
でも庄司さんの文体はそういうことを超えてもとってもチャーミングだと思います。「赤頭巾」の最初で「世の女の子の家の電話はだいたい母親の膝の上にある」(・・・だったかな?)には携帯普及前に青春を過した世代としては深く共感したものです。
なるほど、時代の壁を感じなければ大きな読み所を読み流してしまうわけですか。
確かにバックグラウンドは知っておいた方が良いかもしれませんね。
でも書きたかった事はそうい事だったのでしょうか?
もちろん違いますよ。
時代背景は、あくまで背景であり、小道具です。
ですから、今の時代に彼がどんなことを書くのか、ぜひ読みたい、と熱望しているのです。
はじめまして。
全共闘世代という言葉を歴史的にしか知らない世代の人間です。

(私は『赤頭巾ちゃん・・・』から入ってシリーズに行く前に、文庫版『喪失』を読みました。ですので、感じ方が少しずれているかもしれません。お許しください。)

薫クン、とても楽しく読みました。

何より薫クンシリーズは、福田さん御本人にとっての心のよりどころとなる、そうした小説群だったのではないかと思っています。

福田章二が書いた小説3篇(発行されているもの)と庄司薫が書いたそれの大きな違いは、様々なもので目にすることができます。

『喪失』は、どこまでも頭の中で作り上げれた小説だったと思います。それは本人が審査員(三島由紀夫、伊藤整ら)を「信頼できる人たちだと思った」という一種の選択した形をとって中央公論に応募したエピソードからも伺い知れるような気がします。

初めて『喪失』を読んだ時、私は彼の頭の良さにびっくりしました。特に自殺者はずるいといったくだり(もしかすると、同書に収められてた他2編の中にある話かもしれませんが)には、心を鷲摑みにされた記憶があります。

しかし感動の大きさの割に、不思議なもので私が『喪失』を再読したり、熱心に誰かに勧めるということはありませんでした。その理由の中に、福田庄章二という存在の哀しみのようなものがあったのだろうと思います。他方で、お分かりになるように私は、依然として薫クンを楽しみ、人に勧めます。同年代の”全共闘”を知らない友人に。

私は、”全共闘”を知性と行動原理が奇跡的に、ある世代で融合した巨大な津波のような時代だったと思っています。

『喪失』はその世代の知性と行動原理へ憧れつつも届かないものの儚さが書かせ、薫クンシリーズは、その儚さが通り過ぎた後の晴れ間が書かかせているのではないか。

だから、ピクニック気分で気軽に今日も、薫クンは私の生活に顔を出してくるんだろう、と。26歳の者ですが、そういう風に庄司薫を読んでいます。


一つの角度からの読み方になっていれば、幸いです。
小学生のとき、櫻画報を楽しみにしてた。
http://bit.ly/2jnCxZw

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