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☆北京に住んでる人☆コミュの水俣病を考える会

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みなさん
お世話になっています。
山口直樹@北京日本人学術交流会です。
第95回北京日本人学術交流会では、「日中歴史カフェ」としてかつて熊本の水俣市で取材にあたっていた共同通信中国総局の大熊雄一郎記者をゲストに迎え、水俣病についての映像をみて水俣病の問題が共同討論されます。現在、高度経済成長のただなかにある中国は、PM2.5に象徴されるような環境破壊の問題に直面しています。一方、日本では高度経済成長時代のはじまりの1950年代に水俣病という恐るべき環境破壊あるいは人間破壊に直面していました。
この水俣病とはなんだったのでしょうか。
そして現代中国では、原田正純著『水俣病』(1972)というような本も中国語に訳されていますが、中国は、日本の高度経済成長時代の生みだした「歪み」から何を学ぶことができるのか、この点が、日中で共同討論される予定です。
(諸事情で直前にお知らせになってしまい、もうしわけありません。)
以下のような要領で行われます。
参加を希望される方は7月4日(木曜)深夜までに連絡係の臼井氏(pngk218523@gmail.com)まで参加希望のメールをお願いいたします。
◎第95回北京日本人学術交流会
◎日時;7月6日(土曜日)午後1半から午後5時ごろ(いつもより早いので気を付けて下さい)(のち場所を移して懇親会)(場所は申し込んでいただいた方に詳細をお知らせします。)
◎ 主題:「日本の高度経済成長と水俣病」
水俣病に関する映像をみたあとゲストがコメントを行う、そののち朝鮮窒素という会社に関する報告がなされる。
◎ ゲストコメンテーター:大熊雄一郎(共同通信中国支局記者)
熊本支局時代の水俣病の取材経験をお話しいただく予定です。
◎ 報告者;山口直樹(北京日本人学術交流会代表)
朝鮮窒素という会社について報告する予定
◎場所;五道口駅近くの中国語学校、「説吧」の一室の予定(申し込んでいただいた人に詳細をお知らせします)
◎参加費;50元(資料代、運営費、場所代、ドリンク代など)
◎言語;主に日本語
(要旨)
2013年、3月23日北大東アジアメディア研究センターは、北京でドキュメンタリ―フィルムの上映会を行った。日本からは水俣病を描いた「記者たちの水俣病」(2000、熊本放送)韓国からは都市開発の立ち退き問題を描いた映画「二つの扉」(2009)が上映された。
日中韓の問題意識を共有するうえで貴重な試みであったといえる。
この試みをうけ、北京日本人学術交流会では、水俣病を考える試みを行う。
まず、ドキュメンタリー映像を一本みて、水俣病の取材にあたっていた共同通信記者の大熊雄一郎氏に自らの取材経験などについておはなしいただきます。
その後、水俣病を発生させた日本窒素の植民地期の朝鮮での活動に焦点をあてた報告がなされます。
要旨は以下です。
日本窒素は、明治39年1月、鹿児島県伊佐郡大口村に電気会社が創立されたことにはじまる。これはこの付近の矢楯川の水利を利用して電気をおこし、付近の金山や町村に電燈電力を供給する目的で設立された。発生電力はわずか800キロの小さなものであった。
この電気会社をつくったのは、技術者の野口遵であった。野口は、東京帝国大学で電気化学を学び、明治29年に卒業した人物であった。
日本窒素は、当初カーバイド工業を行っていたが、明治40年ドイツでアドルフ・フランク、ニコデム・カロ―の二人が、カーバイドを原料にして石炭窒素を作ることを発明した。野口はこれに目をつけこの特許を買い取った。
明治41年資本金を100万円に増加し、石炭窒素事業を始めるべく日本カーバイド商会を合併して、社名を日本窒素肥料とあらためた。
そして明治42年11月に熊本県水俣に石炭窒素工場が建設される。これが、日本窒素と水俣の関係の始まりである。創業者の野口遵は、この水俣工場にしばしばでむき石炭窒素を製造していた。
日本窒素を大きくさせた理由としては、硫酸アンモニウム(硫安)の大量生産に成功したことがあげられるだろう。
ドイツでは化学者フリッツ・ハーバーが、空中窒素固定法を発明し、空気中から窒素を抽出し、窒素肥料を合成によって製造することに成功した。
日本窒素が採用した窒素肥料合成法は、カザレ―式アンモニア合成法であってハーバー式とは違うが、硝酸爆薬に関係していることは間違いないことであった。
これらは、軍事とも密接に結びついていた。日本窒素は硫安工業における先駆者であった。
また、これに加え、日本窒素をおおきくさせた理由として日本窒素の朝鮮への進出という事態をあげることができるだろう。日本窒素はもともと鹿児島、宮崎、熊本などを拠点に事業を行っていた。
近代日本の重化学工業化は、西高東低であった。
日本窒素の朝鮮とのかかわりは、1925年に朝鮮水電をおこしたところにはじまる。二年後の1927年には、朝鮮窒素が創立される。
日本窒素の朝鮮における事業は、朝鮮窒素、朝鮮石炭工業、朝鮮窒素火薬、朝鮮マイト、朝鮮石油、朝鮮送電等多数にのぼっていた。
北朝鮮の鴨緑江における水力発電や興南の化学工場もまた特筆に値するものだろう。
戦後日本は、敗戦の廃墟の中から奇跡の高度経済成長を遂げたといわれる。
だが、その戦後のスタートはまったくのゼロからのスタートだったわけではない。日本の高度経済成長は、日本の植民地朝鮮での蓄積と無関係ではない。
ここでは日本窒素の朝鮮での活動を報告し、それが戦後の高度経済成長にどうかかわっていったか、水俣病との関連も視野に入れ報告がなされる予定である。
(以上)
北京日本人学術交流会代表:山口直樹(ngodzilla2185@gmail.com)
http://j.people.com.cn/96507/97399/6683166.html
これまでの北京日本人学術交流会の記録
http://www.nihonjinkai.org.cn/html/doukoukai/beijingribenrenxue-jiaoliuhui/201105/19-1072.html
エスペラント版
http://www.espero.com.cn/se/txt/2013-01/29/content_515338.htm
第89回北京日本人学術交流会の様子
http://beijing.shvoice.com/community/5588.html

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