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SHOW☆SETSコミュのアダプターズ

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コメント(64)

 「吉祥寺!?」

 自分でも驚くほど荒立った岬の声に鳩が飛び立ち、その羽ばたく翼の音で空き教室は包まれた。間野がそれに眉をしかめたので、岬は素直に謝った。

 「ごめん。驚かせちゃった。でも、私も十分に驚かされたのだからお相子よね」
 「・・・何か、問題でも?」
 「ええ。まさか既に吉祥寺にいるとはね」

 岬は鳩から間野へと視線を移し、そして言った。

「早すぎるし、近すぎるわ」 

 当然のことながら、間野には岬の言葉がすぐには理解できなかった。もちろん彼も末端に位置する者とはいえ『美食倶楽部』の一員であり、能力者でもある。終末を回避しようとする一連の流れを、ある程度は踏まえていると言っていい。だからこそ彼は、貴志崎峰鷹を見つけたこと、ここ数日間の不断の努力の成果によって、少なからず心を満たしていたのだ。「獣臭い」。いつもそう中傷され、後ろ指を差されている自分とその能力でも、大切な人の役に立つことが出来たんだ。そう自信を持っていた。これで岬さんの笑顔が見られるんだ。間野はそう期待していた。だが。

 岬はそんな怪訝そうな間野を見つめ、幾分か歯がゆそうに言葉を続けた。

 「風太郎はいま、吉祥寺に住んでいるのよ」
 「そんな。彼は貴方のご自宅に。そこで≪守られている≫と聞いてましたよ?」
 「入学を機にね、出て行ったの」
 「それを許したんですか!?」
 
 間野も思わず声を荒げてしまった。二人の他、何者も存在しない空き教室で、再び鳩の羽ばたきが始まる。
 岬は、気持ち俯きながら、それでも力強く言った。

 「私は、風太郎を本当の弟のように思ってるの。継承者であることを除外しても、彼は私にとってとても大切。姉として愛する弟の自立は喜ばしいものだったわ」
 「・・・しかし」
 「そうね。継承者であることを無視するのはナンセンスよね。やっぱり、それも含めて、風太郎なのよね。きっと」

 岬の背筋はいつの間にか綺麗に伸びていた。

 「風太郎は『一刻館』に送った」
 「いっこくかん・・・。あの、『一刻館』ですか?」
 「あはっ。この話をすると、みんなそんな顔をするのよねー。そう、まるで生まれたての小さなゴキブリを部屋で見つけちゃったような顔」
 「そりゃあ・・・するでしょう」
 「そうね。それは仕方ないかもね。彼らは一体何がしたいのか、正直、理解できないところがあるし。でも彼らなら、風太郎を護ってくれる」
 「僕には正直、逆に思えますよ。あれほど排他的な集団を他に知りませんし。ほとんど野生の獣並みです」

 岬はそこで少し黙った。鳩が羽音を立てて机に降り立つ。それを眺めながら岬は

 「だからよ」

 と言った。

 「彼らにとって身内は最優先。だからこそ、風太郎は安全なの」

 続けて口を開こうとした間野を遮ぎろうとして、岬は少し考えなしに言い過ぎてしまった。

 「風太郎の瞳は、父親によく似てるわ」

 そう言うと岬は振り返り、教室を出て行く。扉を閉める直前、間野への感謝の意をあっさりと伝えて。そのため、間野はその後、愛する動物たちにしばらく愚痴を聞かせてしまうハメになってしまったのだが、彼女が忘れてなかっただけで彼はそれに喜ぶべきであった。彼がもたらした情報は彼の予想を超えて重大な動揺を岬に与えていたのだ。
 そして当の岬は、西棟の階段を駆け下りていた。と言うよりは、むしろ飛び降りていた。

 踊り場から一気に二階へ。

 「潜伏という状況下にしては早すぎる」

 二階、踊り場、そして一階。

 「だが偶然と言うにはあまりにも近い」

 風はモニュメントをすり抜け、その勢いで外気へと鋭く突き刺さった。だがそれは、暖かく緩やかに優しく包み込まれ、岬は立ち止まり空を見上げた。

 「『能力者同士は知らず知らずのうちに引かれ合う』・・・か」

 そこで岬は、どの組織でも最初に教える能力者の大原則をひとりごちた。そして外の世界の陽気と、それを生み出す南中の太陽とを全身でいとおしむと、今度はしっかりと、歩き出した。


 さて一方その頃「一刻館」では、『不仁身の村雨』こと「村雨健二(ムラサメケンヂ)」によって貴志崎峰鷹帰還の報が伝えられていた。
日ノ本岬が違和感を感じ始めたのは大学を出た直後だった。

自分でも嫌になる。
この平和な日本の中で自分の周りからは暴力や死と言った類のものが消えることは果たして有るのだろうか、月並みな表現で言えば『普通の暮らし』ができないものかと身の危険を感じたときにいつも考える事だった。

違和感の原因は直ぐに分かった。自分の部屋について見ると、自分の部屋は何者かによって荒らされていたのだ。ため息をついたその直後、ソファーの陰から彼女の体に3発の銃弾が撃ち込まれた。

サイレンサーで消された銃声は、映画等で聞く音とは随分と違うように感じる。リアルはやっぱり違うな、と言うのが岬の感想だった。

岬が倒れたのを確認し、ソファーに隠れていたものが姿を現す。黒ずくめの服装に身を固めた長身の男だった。顔立ちから明らかに日本人のものではない彫りの深い顔立ちをした男は、倒れた彼女には目もくれず、部屋の中を再び物色し始めたその時だった。

「死ぬかと思ったわよ、実際」

自分の背後から死んだ女の声がする。

驚く暇も無く、彼の身体を物凄い風が襲った、否、風というよりは衝撃波に近い。男は部屋の隅まで軽々と吹き飛び、散らかした部屋を更に散らかしながら這い蹲った。

「無様ね」

そう掛けられた台詞の中には、100%の悪意が篭っていた。男もプロだ、万に一つも助からないであろうと言うことはすぐに悟った。だが、それより不可解なのは、良く見ると彼女の身体には瑕一つ見あたらないことだった。

「化け物め…」

「あら、遺言にしては月並みね。どうせなら大学から私を尾行けてたお仲間に、その通信機で助けを求めるとかしてくれたほうが私としては助かるんだけど」

一方その頃、YAZAWAの元には危機管理研究会のリーダーと目される、貴志崎の傘下である構成員のリストが届いていた。ページを詰まらなそうにめくっていたYAZAWAだが、ふとページを繰る手が止まった。そのページは貴志崎の右腕と目されている日ノ本岬のファイルの一節だった。

能力名:「眠れる森の美女」スリーピング・ビューティー(仮)

瞳を閉じている間の完全遮蔽能力。尚、遮蔽中に加えられたエネルギーを体内に蓄積し、随時放出出来るため注意が必要。

危険度:B

特記事項

能力の命名の際、本人の強い希望により慣例とは異なる名称になっているが、本部はそれを承認しておらず、仮扱い。

YAZAWAは誰にとも無く首を振り振り呟いた。

「おいおい、三十路だぜ」
「夜沢学長、準備が整いました。」

リストに目を通していた夜沢に黒服の男が声をかける。
ここは十文字大学の職員専用駐車場である。この大学は小高い丘の上に位置している関係上外界からの連絡をズムーズにするために、丘を刳り貫く形で中央棟の地下には広いスペースが設けられているのだ。しかし、専らここを利用するのは学生は勿論のこと教授、講師たちでも無くこの大学を裏で支配する『美食倶楽部』の関係者だけであった。
和泉と分かれた後、夜沢は地下駐車場に来ていたのだ。理由は只一つ、ムッシュ・ムラムラに命令されたことを実行するため、すなわち貴志崎峰鷹の確保のためである。

「OK。行こうか、ステージに。」
「はっ。」

 夜沢に準備完了の報告をした黒服は短く応えると、彼に続いて用意された大型の黒いリムジンに向かって歩き始めた。車の前に着くと黒服の男は無駄の無い動きで夜沢の前に出るとそのドアを開ける。だが夜沢はそれに乗ろうとはしなかった。数秒の沈黙の後耐え切れなくなった黒服は恐る恐る夜沢に質問する。

「夜沢様、如何いたしましたか。」
「これはなに?」
「こちらで準備いたしましたお車ですが、何かご不満な点でもございましたか。」
「あんたモグリだね。俺、夜沢だぜ。夜沢さこうやってスターになってから決めてることあるんだよね。そう車。出かけるときの車はこのダイスで決めるのよ。で、今日のダイスは4だったんだよね。だからさ今日はリムジンじゃなくてポルシェだろ。気分的にはフェラーリだけど。」
「・・・も、申し訳ございません。只今用意いたします。」

 そう言うと黒服は最敬礼をして足早に夜沢の下から足早に去っていった。

「どうやら噂通りの男のようね。」
「車からしていたこの臭いはあんたか。」
「どうやらもう見破られていたようね。」
「俺夜沢、違いが分かる男。」

 リムジンの中には二人の人間が乗っていた。一人は放心したように運転席に座っている男、もう一人は助手席にいる黒いローブのような装束に身を包んだ人物だった。
 夜沢はリムジンの中にいる黒装束の人物に振り返るわけでもなく、只右手に持ったダイスを弄んでいる。

「で、夜沢に何の用だい?サインなら喜んで書くけど。そう、夜沢ファンには優しい男。」
「どこまでも自己中心的ね。残念ながら私は貴方のファンでもないし、サインもいらないわ。」
「皆最初はそう言うんだよ。でも俺の歌を一曲きいたら決まって感動の余り黙ってしまう。夜沢そういうスター。あんたにも一曲プレゼントしよう、夜沢が一人の為に歌うなんて滅多に無いよ。」

 夜沢はそう言うと振り返り、リムジンの中の人物を鋭い目線を送る。

「怖い目ね。貴方の歌には興味があるけれど今は遠慮しておくわ。ファンにはなれそうには無いけれど、協力者ぐらいにはなれるかもしれないわ。」
「生憎だけど夜沢、バンド仲間は間に合ってるんだよね。今はでっかいスポンサーもいるし、それに第一夜沢、女には客席を用意することにしてるんだよ。そう、夜沢そういうフェミニスト。」
「それはフェミニストとは言わないわ。」

 薄笑いを浮かべながら応える黒装束の女を横目に夜沢は肩をすくめる。

「ムッシュ・ムラムラに命令されて貴志崎峰鷹を捕らえに行くのでしょう。でも夜沢さん貴方彼の居場所を知っているの。この運転手は何も聞かされてはいないみたいだったけれど。」

「夜沢がコンサートを開けばやってくるさ、峰鷹は正義の味方を気取ってるらしいしな。」
「そう簡単にいくかしら。貴志崎峰鷹もそこまで馬鹿ではないはずよ。それに今あまり派手に暴れるのは良くないんではなくて、夜沢さん。」
「奴が出てくるまで続ければ言いだけの話さ。それに俺が受けた命令は貴志崎峰鷹を捕らえること。それ以上でも以下でもない。それでどうなろうと俺には関係ないさ。そう、夜沢そういう細かいことは気にしないでっかい男。」

 車の中の女はまた軽く笑みを浮かべると、夜沢に話しかける。

「私は貴志崎の居場所を知っているわ。貴方が私にほんの少し協力してくれればその居所を教えてもいいわ。ムッシュの命令も速やかにこなせるし、悪い取引ではないはずよ。」

 「パチン、パチン」と、いつものようにサスペンダーを鳴らしていた夜沢が応える。

「あんたの情報が正しいと言う保障は?」
「私も一緒に行くわ。もし間違いだったらば貴方の美声を心行くまで聞くことにする、それならどう?」

相変わらず夜沢はサスペンダーを鳴らし続けている。

「で、俺はあんたに何をすればいい。プロポーズには応えられないぜ、名前も知らないような相手には。」
「私はミレディよ。貴方に頼みたい事は一つ。私をムッシュ・ムラムラに引き合わせて欲しいの、峰鷹を上手く捕らえられた後にね。」

 サスペンダーを鳴らしていた夜沢の手が止まる。

「交渉成立か。」

 そう短く応えると、夜沢はリムジンに乗り込んだ。

「じゃあ、早速パーティーと行こうか。会場はどこかな、ミス・ミレディ。」
「フフ、貴志崎峰鷹は今吉祥寺のホテルにいるわ。」

 ミレディが言い終わらないうちにリムジンは走り出していた。


夜沢が去った駐車場に先程の黒服が一人悲壮な顔をして戻って来た。

「夜沢様、夜沢様。どちらへ。」

 黒服の呼び声は駐車場に虚しくこだまする。しかしこれは彼にとっては幸運だったかもしれない。なぜならば彼はポルシェがまだ用意できなかったからだ。夜沢がミレディと共に去ったことを知らない彼はこの地下駐車場を探し回るが、どこにも彼がいるわけは無かった。やがて途方にくれた黒服は立ちすくんでしまった。

「諦めたらそこで試合終了ですよ。」

 急に声を掛けられた黒服は驚いて後ろを振り返る。そこには白髪で眼鏡をかけた恰幅のいい老人が立っていた。
 4月23日金曜日、23時30分。駅周辺を、警戒を兼ねて周回してきた貴志崎峰鷹は駅前の喧騒にウンザリしながらホテルの自分の部屋に戻った。週末を迎える夜の吉祥寺駅前は多くの人でごった返し、歩くのでさえ困難な程だ。学生らしき集団が歩道の真ん中で大声を張り上げ、会社員風の数人連れがげらげらと笑いながら歩き煙草をふかし、道を塞いでいる。
 峰鷹は思う。この国は余りに平和だ、と。そして峰鷹は思い出す。自分が歩んできた平和という蓋に覆われた混沌とした世界の裏を。そして峰鷹は思いを馳せる。破滅へ進むしかない、と宣告された未来へと。

「俺がそうはさせない。」

 『梁山泊』で過ごした15年余り、峰鷹は自分と龍洋の運命を呪った。自分たちを残して、そしてこの忌まわしい力を残して逝ってしまった両親を呪った。
 救ってくれたのは皮肉にもムッシュ・ムラムラだった。ムラムラは峰鷹ら双子の能力を許容するばかりか、大いに認めた。双子に能力の利用法、結界生成と運用、戦闘術、作戦立案を徹底的に教え、更には役割を与え、その遂行に対しては本人達の想像以上の敬意を持ってそれに応えた。
 貴志崎の名はすぐさま売れた。二人は不可能とも思われる任務を次々と与えられ、双子ならではのコンビネーションをもって、それを遂行した。二人は高性能の能力だけでなく、智謀、体術ともに優れていた。峰鷹は戦闘能力に長け、結界を圧縮し直接身に纏うことで飛躍的に身体能力を高めることができた。龍洋は結界応用能力に富んでおり、あらゆる種類の結界を誰よりも広く、速く生成した。特に峰鷹はそれに加え抜群の判断力と決断力、類稀なるカリスマ性から弱冠18歳にしてムラムラの後継者と目された。
 龍洋と共に『双璧』と呼ばれた二人。遠く離れていても意識の中枢に直接コンタクトすることで常に相互の通信を可能にする『超伝導(コルシカ)』、更には互いの神経信号を完全にシンクロさせることで発動する『愛がひとりぼっち(タッチ)』の二つの能力を操り、『美食倶楽部』に貴志崎兄弟あり、と恐れられた。
 峰鷹は思う。あの時、ムラムラの教えは確かに真理だった、と。自分達は世界のため、そして人類のためにアダプターとして自らを極限まで追及した。だがそれは次第に疑念へと変貌していった。『美食倶楽部』のみを是とすることは誤りだった。ムラムラの野望は日々膨れ上がり、峰鷹の忠誠は揺らいだ。峰鷹はただ龍洋を守りたかった。そして――峰鷹はセブンスターに火をつける――そしてただ陽子を守りたかった。二人を救うための唯一の手段は、世界を救うことだと、そう信じていた。龍洋と、そして陽子と最後の別れとなったあの運命の『プロジェクトA』までは。

 針で刺されたような鋭い感覚が脳裏をよぎり、峰鷹は一気に現実へと引き戻された。ホテルの周囲に張った侵入者感知のためだけの薄い結界からの反応だ。ホテルの敷地に誰か能力者が侵入したことは明らかだった。

「『美食倶楽部』の独断か…。それとも『同盟』が本気になってきたか…。」

 峰鷹はつい独り言を口にしていた。後者の可能性はまだ低い。自分の日本への帰国を知っている人間はまだ多くはない。それに大した動きを起こしていない今、『同盟』が自分程度を危険視する理由はない。前者であれば目論見通りである。わざわざシャロヌに接触し、ムラムラを挑発したのも『同盟』が本気になる前に有能な能力者を一人でも多く叩いておく必要があるからだ。特に『美食倶楽部』のアルベール中川と『黒色槍騎兵隊』や『真夜中のロックンロール』などは警戒される前に早めにやっておきたい。

「大物がかかっていることを願うぜ…。」

 峰鷹は窓を開けると4階にあたるその部屋からホテルの裏手に一気に飛び降りた。そしてそのまま走って井の頭公園へと向かう。吉祥寺についてから何度かリハーサルしたルートだ。迷いはない。デパートの裏を抜け公園の敷地に入り込む。深夜のため人はほとんどいない。池を左手に見て競技用トラックを目指す。
 玉川上水に沿って結界を張りつつグラウンドに入る。通りの方から人が侵入したりしないよう、今度は逆側に結界を張り、先ほどの結界と繋げて固定する。戦闘を有利に進めるためのものではない。単純に一般の人間に見られたり、被害が及んだりしないようにするための結界だ。峰鷹は結界に細工を施すことはどちらかと言えば苦手なのだ。
 『黒子』のような連中が入って来られなければそれでいい。勝算は十分に考えているが多対一の状態はなるべく避けたい。
 吉祥寺通り側に張った結界が歪む。来た。峰鷹は戦闘態勢を取るべく身構える。結界に入って来た人数は2人。今、結界の内側には峰鷹と追っ手2人しかいない。峰鷹は結界を硬化する。これで援軍が簡単に入ってくることはできないし、一般人が巻き込まれることもない。ここまでは峰鷹の計算通りだった。後の問題は2人が何者なのか、ということである。

 木陰から人影が見えてくる。50歳絡みの男、その後ろ2メートル程度のところをついて歩いてくる長い黒髪の女。峰鷹は体の芯が震えるのを感じた。

・・・いきなりの大物だ・・・!

 峰鷹は男のことを知っていた。自分が知っている時よりも大分老いてはいるものの、白いスーツにサスペンダー、そしてその強烈な眼光は以前の姿からいささかも衰えてはいなかった。『真夜中のロックンロール』、夜沢栄作。『美食倶楽部』最強の男だ。

「おいおい、本当にいたぜ。あんた、峰鷹だろ?」

 夜沢は大きく両手を広げ、ここで峰鷹がと出会うことを知っていたかのような、全く思ってもいなかったような微妙な表情を浮かべた。

「久しぶりだな、夜沢さん。ずいぶんと年が離れたが。」

「年とるってのは細胞が老けることであって魂が老けることじゃない。夜沢、まだまだ現役です。」

 確かに夜沢から感じる闘気は若い頃と全く遜色ないものだ。いや、年齢を経てむしろ更に洗練されているくらいだ、と峰鷹は推察した。単純に戦闘の技術だけなら身体の充実の面を差し引いても互角か夜沢が僅かに上だ。だが、夜沢の能力を峰鷹は十分に承知していた。逆に夜沢は自分の『能力』については知らない。つけ入る隙は大いにある。
 それよりも気になるのはあのもう一人の女だ。峰鷹は女に見覚えがなかった。ただ年齢を考えれば『プロジェクトA』以降に『美食倶楽部』に入会したメンバーだろう。峰鷹に唯一、不安要素があるとしたらこの女の実力が未知数なことだ。女は峰鷹の視線に気づいたのか、微笑を浮かべると口を開いた。

「ご心配なく。私はただの傍観者。どちらに対しても一切手は出さないわ。言った通りムッシュ・ミネタカは見つかったんだから、それでいいでしょ?『真夜中のロックンロール』。」

 夜沢はもう待ち切れない、といった体でサスペンダーをパチンパチンと鳴らし、黒髪の女に振り返りもせず、答えた。

「ノープロブレム、ミス・ミレディ。ちょっと生意気に聞こえちゃうかもしれないけど、夜沢、自信ありますから。」

 夜沢はそう言うや否や、一気に峰鷹との間合いを詰め、一発、二発と拳を繰り出す。峰鷹は一発目を左手でいなし、二発目の拳に合わせて体を捻り、夜沢のサイドへと回り込み、右脚で強烈な蹴りを見舞った。夜沢は吹っ飛ばされながらも背後に一回転し、ピタリと着地した。

「くぅ痺れる、痺れる。夜沢、ハートで汗かいてきたよ。やっぱり、ユーはサイコーだよ。」

 夜沢は片方の唇の端をニヤリと上に持ち上げると、ポケットから出したタオルを肩にかけ、右手の人差し指を峰鷹に突き付ける。

「だけど、あんた一人じゃ夜沢は越えられないよ。一気にいくんでヨロシク。」

 峰鷹は圧縮した結界を体の表面に張り夜沢の攻撃に備える。峰鷹は夜沢の能力を知っていた。『美食倶楽部』だけでなく、『同盟』全体から見ても最強レベルの破壊力を持つ『アリよさらば(ゴールドラッシュ)』だ。生物の体内で熱膨張を起こさせる危険な能力、しかも広範囲にも、一点に集中して放出することも可能な汎用性もある。そして今、夜沢が放とうとしているのは峰鷹一人を狙い、最大限の威力を持つ完全なる定点突破だ。

「『アリよさらば』!!!!」

 夜沢の手から放たれたレーザーのような閃光は一直線に峰鷹へと走る。峰鷹が両手を顔の前で交差した刹那、閃光はその交差した腕の中心へと突き刺さる。峰鷹はそのまま背後へと吹き飛ばされる。轟音、そして強烈なストロボのような光、閃光の通った真下の地面はその軌道に沿って抉られ、水分が蒸発し大量の湯気が立ち昇る。

「ジ・エンド。ステージは喰うか喰われるかの世界よ、ハッキリ言って。」

 夜沢が振り向き、ミレディに声をかける。

「今日のステージは跳ねたぜ、ミス・ミレディ。夜沢、今日は上がりだ。」

「待って。まだ終わっていないわ。」

ミレディの言葉に夜沢が再び峰鷹のいた方を振り返る。そこには両手を十字に交差した峰鷹が立っていた。

「WHY!?何故に!?」

 夜沢は明らかに狼狽していた。完璧な自信を持って放った切り札のはずだった。そして十分な手応えを感じ、終わりを確信した後のことだったのだ。峰鷹は両手を降ろす。その体の表面は金色の膜が薄く張っていた。

「徒手空拳で闘うほど自殺願望は強くない。俺は俺なりに手は用意してきている。」

 夜沢は身を微かに震わせて、ようやく口を開く。

「それは・・・まさか・・・。」

 峰鷹は夜沢が考えていることはわかっていた。そしてそれはまさしく真実であった。

「その通り。これは『世紀末救世主伝説(ラストマン・スタンディング)』だ。」
「目を閉じぬことだ」

 黒塗りの単車に背を預けた男は薄く目を開き、そう答えた。

「どれ程の凶器が迫ろうとも。どれ程の拳が打ち込まれようとも。決して、目を閉じてはならぬ。己を襲うそれから、目を離すでない」

 単車にもたれかかりながらでも、直立不動の峰鷹が大きく彼を見上げる形となるほど、男は大きかった。拳も、それ以外も、何もかも全てが大きい、漢であった。

「一秒だ。それ以下でもなく、それ以上でもない。きっかり一秒。無類無敵と思うならば短すぎよう。だが、その間意識を失うことを思えば、それは長すぎもする」

 男は拳を握り、それを峰鷹の胸に軽く押し当てる。その撫でるような感触だけで、峰鷹の胸はボカリと穴を穿たれたように感じた。 

「それ故、目を閉じてはならぬ。よいか…。痛みは…恐れるものではない。恐れずに、進み続けるのだ。必殺の間合いに入っていかねば敵は倒せぬ」

 男の巨体が単車からはなれ、ゆっくりと構えを取る。そして「覇王」と呼ばれた男の両拳に力がこめられると、空が啼きはじめた。

「恐怖を我がものとせよ。自らが、恐怖となるのだ」

 このとき峰鷹に向けられた眼光ははたして、人間を三度は殺せるだろう。しかし峰鷹はそれを受け止め、そして真っ直ぐに見つめ返す。

 賢央はそこで初めて顔を歪ませて言った。

「そうだ。貴様ならば、それができよう」

 
 
 「「…ラストマン
           スタンディング…!」」

 蒸気の先に見える光景に呑まれたネコの能力者たちは、誰とも無く、しかし声を重ねた。

 畏怖であれ賞賛であれ、「それ」を観た者ならば誰もがそう声をあげざるを得ないのだろう。そう、闘いの終盤は夜沢のものであるように見えた。その名にふさわしく、人外の気性でもって放たれ続ける暴力。いつしか峰鷹の両腕から散りだした血飛沫は、スリリングなギターを思い浮かばせ、ミレディに「ステージと言うのは言い得て妙ね」と独りごちらせた。それほどに圧倒的ですらあった夜沢の拳。それが、ゆっくりと、だが着実に進んできた峰鷹の両手にしっかりと受け止められる。そして全ての動きが止まった。突然の終幕であった。 全てを終わらせ、ゆっくりと立ち上がる峰鷹。そしてまた全てを吸収された夜沢が、それに代わる様に崩れ落ちる。骸はまるで燃え尽きた灰の様に、風に舞った。

 ―それはかつて「扇賢央(おおぎたけお)」が歩んだ跡に必ず見受けられる光景であった。それを見たものたちが誰とも無く、いつしか彼を「覇王」と呼び出したことは極自然のことに思われる。そして時代を超え、今宵はネコの能力者が三名。はたして彼らはそれに何を感じたのであろうか。

 当人である貴志崎峰鷹が感じていたこと。それは何よりもまず身をよじるほどの激痛であった。意識の回復と共に現れたそれのみ。だが彼はそれを味わいながら、《嬉しい》と思った。その痛みこそ、自分が《死んではいない》証であると。流石に相手が相手だったからか、その喜びのあまり彼は、残るミレディに向かいながら独りごちていた。

「ぬっうぅ…なるほど賢央さん、あんたの言う通りだ。こうなるとむしろ…」

 血を、振り払う。
 
「心地よき痛みというべき、だな」
某所某日、某研究室内

「と、いうわけよ」

額にうっすらと汗を浮かべながら両手に分厚い書物を抱えよろよろとした覚束ない足どりで岬は静に言い放った。

「本気ですか?」

せこせこと机の上の小物を整理している静の表情は今いち煮え切らない。

「もう時間も余り残されていないことだしね、この際だからやる気のある人間の選別と強化。今後の編成を考える上でも十分に価値があると思うけれど。」

ドサッと机の上に荷物を開放し、腰をトントンと叩きながら岬は辺りの本棚に目を走らせる。

貴志崎教授の突然の海外出張が決まったのは、つい一昨日だった。

「後ヨロシコ」

人を小ばかにした紙切れ一枚を研究所に残し、当の教授の姿は欠片も無かった。大体直属の私たちには何も告げず、事務所のほうには話を通しておくという滅茶苦茶な行動だ。
 本来なら帰ってきたところをつるしあげるところだが、幸い今回だけは違う。私たちも勝手にやらせて貰う。

 やることは沢山ある。自分もまだ知らない終末関連の記録も、本人のいない今ならより詳細に調べる事も出来る。もっともこの時期に教授が外へ出るということは、新しい手がかりの発見か、もしくは既に何かをつかみそれに関わることだろう。
 また、本格的に危機管の編成、訓練する時間も必要だ。特殊な環境下では一騎当千の能力者とはいえ、彼らの根幹は普通の学生だ。組織されたものに対しては、一般の軍隊にやすやすと敗れるだろう。
能力者といえど所詮は人間。一人では大したことは出来ないのは人間も能力者も大差ない。

「一人は皆の為に、皆は一人の為に」

よく耳にする、そして日本人が大好きそうな言葉だ。

「しっかし、この中から『あたり』引くのは大変そうですねえ」

静は冷静に研究室内を見回しながら呟く。

研究室の名に恥じず彼の著作を含め、膨大な量の書物が文字通り壁となっており、彼女らはまるで書物の迷路に迷いこんだアリアドネのようだ。
 貴志崎は資料を一箇所に集めて置くほど迂闊な人間ではない。山の中にところどころ、中には数種の暗号すら使って来るべきピリオドに対する資料を点在する形によって部外者の存在を無力化していた。

 「大体今の時代にカバラとかってありえなくない?ユダヤ人じゃなるまいし」
岬は先程机に積んだ書物のナンバリングを確認し、順番を変えながら本棚に詰め込み始めた。

「現代にも通用する立派なロジックじゃないですか。好きですよ、こういう趣向が分かる人」

「わたしゃカバラを理解する人間よりは洒落を介する人の方が良いわ」

ガシコッ、と最後の本を本棚に埋めた後、先程本があった場所に自分が座り一息つく。タイミングを計ったように差し出された静のレモネードに舌鼓をうちながら今度は並べた本の背表紙に視線を巡らせる。

 「失敗、ですか?」

 「何が?」

 「いや、てっきり順序良く本をはめると。本棚がゴゴゴ…ってプール開きの様な動きを見せるかと」

「そうそうそしてパイルダーオン…ってんなわけないでしょ」

と、岬の視線がある一冊の背表紙にとまる。そのままめまぐるしく視線を動かしてはまた先程の背表紙に戻る。どうやら何らかの法則性を見出そうとしているらしい。
かれこれ子一時間ほど経った後だろうか、よし、と岬は一声発すると研究室のカーペットを引っぺがし始めた。

そこにはとても大学の一角には似つかわしくない、重々しい古代様式の扉があった…一部うちこみパネルがあるのを覗いて

「雰囲気台無し…」静の鋭い突っ込みには応えず岬はうちこみパネルに「1795 Sir Isaac Newton」と入力した。
 
 するとどうだ。地下への扉がズズズ…と重々しい音を立てて開き始めた。これが冒険映画だったら正にクライマックスにふさわしい重厚さだ。脇で空気を読まずに点滅しているパネルを除けば。

「…いよいよですね」口をつけていたカップを下げ、音も無く岬の背後に立った静かが呟く。何時の間に取り出したのか、彼女の腕には彼女の背よりも大きい2Mはある野太刀が抱えられていた。

「番犬殺ったら先生怒るかなー」

「そもそも犬かも分からないわよ、私だってこの扉までしか見たことないし。ねえ、センセの番犬は何か夕食をかけない?」

「うーん、そうですねえ」

会話を続ける二人の足の下の深遠から。並々ならぬ妖気が漂ってきた…
「準備、良い?」

 振り返らずに日ノ本岬は静に短く問いかけた。その声からはほんの少しだけ緊張感が感じられる。だがそれは地下に待ち受けているであろう番犬との戦闘を考えてのことではない、彼女の緊張の原因は番犬の先にある。いくら世界の未来の為に必要な事とは言え、これまで人生の殆どを仲間として活動してきた貴志崎教授の秘密を暴くのには気が進まなかったからだ。やるしかないのは分かってはいるが、心の片隅には納得しきれていない部分が在る事もまた事実だった。

「大丈夫です。いつでも行けます。」

 そう返事をする岬静の声にも先程までの会話とは打って変わって、かなりの緊張感が感じられる。その声は少し震えてさえいた。静は両腕で抱えていた巨大な野太刀、日ノ本家に代々伝わる名刀「骨喰藤四郎」を鞘から取り出し両手に構えた。彼女の場合は純粋にこれから始まる戦いに対して緊張感を抱いているらしい。しかしそれも無理からぬ事ではあった。何しろ実戦はこれが初めてと言って良かった。確かに岬静も日ノ本岬や間野輝之、広瀬孝一の様に生まれ付いての異能者である。しかし幸運にも他の「危機管理研究会」のメンバーの様に実戦に狩り出される事は無かった。その原因は静が生来戦いを好まない性格であったという事もあるが、何よりも日ノ本が静を戦闘に参加させないようにしてきたからだった。日ノ本がそうしてきたのには勿論訳がある。それは静の持つ能力の為だった。
 静の能力名は「天使なんかじゃない(ドント・ストップ・ミー・ナウ)」と言った。名前の由来はその能力にあった。岬静は一旦能力を発動すると完全に理性を失って暴走、超人的な破壊力で敵味方関係なく破壊の限りを尽くすのだった。もの心が付く以前まだ三歳に満たない頃予防注射のために病院を訪れた静は注射をされることに恐怖し能力を発動させてしまい、その病院の患者から医師に至るまで96人を惨殺したのだった。静と共に病院を訪れていた静の母親が助かったのは不幸中の幸いだったが、この事件は「美食倶楽部」の目に留まり、一般的には新種のウイルスによる院内感染と発表され彼女は何の咎も受けることは無かったもののその、この事件がきっかけになり静の将来は決定してしまった。本人には一切の記憶が無いために自身の能力については全く知らない。彼女の両親はただ教会へ行き神に祈りを捧げるしかしなかったし、「危機管理研究会」のメンバーにしても彼女の能力について静に教える者は無かった、勿論日ノ本岬も。
 静が自分の能力について何も知らないのにこうして何の疑問も抱かずに活動しているのは、能力を発動しなくても十分に強すぎるその怪力のせいだった。成長するにしたがってどんどん周囲の人間よりも強くなっていく力の為に彼女は自分を異能者であるとは認識してはいた、そして「危機管理研究会」は異能者としての孤独を感じ続けてきた彼女にとって唯一の居場所であった。

「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。その刀はきっとあなたを守ってくれるわ、だからもっとリラックスして、ネ。」

 日ノ本岬はそう言うと振り返り、にっこりと笑った。それに応える様に静も口元を緩ませる。
 
この日、日ノ本が「ネコ」との接触を先送りにして静を連れて二人でこの貴志崎教授の研究室を訪れたのには三つの理由があった。一つ目は、文字通り「ネコ」の尻尾が中々捕まらないこと。間野と中心として「ネコ」のアジト及びその構成員の居場所を調査はさせているが未だに色よい報告は無かった。二つ目は、急遽決まった教授の海外出張の為に誰もいなくなったここで「プロジェクトA」や「プロジェクトX」、その他世界の終末を防ぐ手がかりを探すため。もう一つは避けられないであろう「美食倶楽部」をはじめとする「世界賢人同盟」の能力者との戦闘に備えて静の実力を確かめるためだった。これまではその能力と静自身のことを気遣って彼女の実戦への投入を見送ってきた日ノ本であったが、これからそうは行かないだろう。いざ戦闘に入った時に直ぐに暴走してしまうのでは戦力としては計算できない。理想を言えば静には、何とか理性を保ったままその本当の力を発揮して欲しいところではある日ノ本だが、その期待は決して大きくは無かった。
 しかし、一縷の望みを託して彼女には自分の家に伝わる霊刀「骨喰藤四郎」を渡してある。この刀はそれ自身強力な霊力を発しており、それを使うものに絶大な力を授ける。あわよくばその霊力によって静が真に能力に覚醒することを日ノ本は期待していたのだった。

 日ノ本は「ふー」と短く息を吐くと、念のために用意してきたライト付のヘルメットを被り「行くわよ」と言って、足元に広がる闇に向かって一歩を踏み出した。静もヘルメットを被りその後に続く。
 床の下には中世の城のような石造りの螺旋階段があり、かなり深いところまで下っているようだった。二人はもう言葉を交わすことは無く、ゆっくりとしかし確実にその階段を下りていった。一段一段階段を下りる度、地上で感じた妖気は強まってくる。
 どのくらい地下に潜っただろう、数十メートルは優に地下に降りたところでいよいよ妖気が強まり、階段は洞窟を思わせる通路に続いて終わった。
 通路は五メートル程続いており、その先にはここには不似合いな程普通のスチール製らしいドアがあった。そしてそのドアの前にはこれまた不似合いと言えば不似合いだが、見ようによってはこれ以上無い位にこの通路にぴったりの屈強な人間の体に牛の頭をした人の背丈ほっどの像がまるでドアを守るように立ちはだかっていた。

「・・・ミノタウロス・・・見たいですね。」

「・・・」

 静の声に日ノ本は応えない。ミノタウロスの像を見つめたまま何事か考え込んでいるようであった。
 感じていた妖気の大きさからかなりの敵を予想していた静は動かぬミノタウロスの像を見て安心し、不用意にその像に近づいていった。

「なんだか拍子抜けですね。どんな怪物が出てくるのかと思ったらば、こんな像が一つだけなんて。私はてっきり番犬だからケルベロスとか頭は一つだけれど青白く輝く犬とかそういう奴が出て来るんだとばっかり思ってました。」

 安堵の為か一気に饒舌になった静はそう言うと、それまで両手で構えていた刀を下ろし像に手を伸ばした。その刹那日ノ本が叫んだ。

「ダメ、触っちゃ駄目。」

 静は驚き、手を伸ばしたままの形で硬直した。

「それは、ミノタウロスよ。」

「・・・それは見ればわk」

 固まったままの姿勢で静が応える。

「そうじゃないわ。それはただのミノタウロスの像じゃないのよ。どっかで見たことがあると思ったら、前に見た資料にあったミノタウロスの像だわ。それはナチスが第二次大戦末期にヒットラーの隠し財宝を守るために作った最悪の兵器よ。マズったわ、こんな物を用意するなんて流石貴志崎教授だわね。」

「ど、どう言う事ですか。」

「そのミノタウロスの像はね、触った人間の能力から思考パターン、記憶に至るまですべてを完全にコピーするのよ。つまり触ってしまった人間に完全に変身するのよ。そして触った者を抹殺するまで何処までも追ってくるわ。」

 そういうと日ノ本は舌打ちをして、ゆっくりと静に近づいて来た。

「そんな物が存在するんですか、現実に。」

 静はやっと伸ばしていた手を恐る恐る元に戻す。

「私の記憶違いなら良いんだけど、99.99%間違いないわ。世間から見れば嘘みたいな能力を持った私たちが存在しているのよ、こういう物があっても何の不思議も無いわ。それに60年近く前の産物とは言ってもナチスの科学力は世界一よ。」

 日ノ本の言葉に静は返す言葉が見当たらなかった。

「残念だけど、今日はこんな物があったんじゃ出なおしだわ。」

 そう言いながら日ノ本は静の直ぐ後ろまで来ると、憎らしそうにミノタウロスの像を見つめた。
 静は内心ほっとしていた。このまま引き上げるのならば、日ノ本に貴志崎教授の別荘にある研究室に同行するように言われた時には覚悟していた戦闘を回避できたのだ。左手に持った刀を使わずに済んだことが今はただ嬉しかった。

「さあ、仕様が無いから戻りましょう。」

 日ノ本は言うが早いか振り返りさっさと歩き出した。静も急いで後に続く。

「ああ、あの本の山を元に戻すの骨だわ。」

 当然と言えば余りに当然な日ノ本の言葉を聞いて、それまで安心感に浸っていた静は一気に絶望した。そして二人は重い足取りでさっき降りてきた階段を上り始めた。
 その時、二人を見送るようにドアの前に立っていたミノタウロスの像の目が一瞬鈍く光った。



「そして二人はそのまま貴志崎龍洋の研究室を引き上げました。以上が今朝、岬静の記憶を探って分かった結果です。」

「なるほど。報告漏れはありませんよね、和泉君。」

「ご要望と在らばあの二人がどれだけ苦労して貴志崎の蔵書を元に戻したかも報告いたしますが。」

 和泉慎一は冗談めかして眼鏡を掛けた白髪の恰幅の良い老人に言った。和泉も報告を受けている老人も共に柔らかい笑顔である。

「ほっ、ほっ、ほっ。それには及びませんよ。」
 
 ここは十文字大学にある礼拝堂。大学の講義がある日でさえ訪れる者が少ないこの古びた礼拝堂に、大学では特別研修期間と呼ばれる世間で言うゴールデンウィーク中の4月29日に四人もの人間が集まっているのは、異常とも言える事だ。
新緑の季節、世間は年に一度の大型連休を謳歌しているであろう一日の昼下がり、この礼拝堂にも白髪の老人の笑い声に因って和やかな雰囲気が流れているかのように思えるのだが、和泉と老人以外の人物、つまりは黒いローブを頭からすっぽりと被った人物ともう一人の神父の衣装を着た若い男が醸し出すオーラが静かな緊張感をこの清浄なる礼拝堂に齎していた。

「それでは次に貴方の話を聞くとしましょう。ミス・ミレディ。何せ今日皆さんに集まって頂いたのは夜沢さんとの戦いの後行方を眩ませた貴志崎峰鷹について協議する為なんですからね。ほっ、ほっ、ほっ。」

 白髪の老人がそう言って、視線を向けるとローブを被っていた人物は徐に顔を覆っていたローブを外す。中から現れたのは妖艶な美しさを湛えた女性だった。口元の黒子が彼女のとても印象的である。

「そう言えば、和泉君とシャロヌ神父は彼女とは初対面でしたね。自己紹介が先でしたね、ほっっ、ほっ、ほっ。それではあらためて私から。安西と言います。こんな老人ですが何とか『世界賢人同盟』で十傑衆をやらせていただいています。ほっほっほっ。」

 安西にそう言われてはじめに口を開いたのは和泉だった。

「和泉慎一と言います。この大学院の院生です。さっき話した日ノ本岬や岬静が所属する『危機管理研究会』の代表も勤めています。」

「シャロヌと申します。この礼拝堂で神父をしております。以後お見知りおきを。」

 三人の挨拶を受けてミレディの真っ赤な唇が艶かしく動く。

「お二人ともお若いのにしっかりしていらっしゃるわね。フフ。私はミレディ。隠しても仕方が無いから言ってしまうけれど、最近までは『ネコ』に所属していたわ。でも彼らには嫌気が差してしまってね。こちらに移らせていただいたの。よろしくお願いするわ。」

 和泉にしてもシャロヌにしてもミレディについては夜沢死亡の報告と共にその情報は得ていた。和泉に関して言えば彼はこれまでに何度かその能力「悪魔の右手」で他人の記憶を探った際にミレディの事を発見し、以前からその存在は知っていた。ミレディの事を記憶している誰もが彼女の美しい顔と共に「裏切り」という言葉を記憶していることも。
妖しく微笑むミレディに向け、シャロヌが質問する。

「こんな事は私としても言いたくは無いが、貴方が本当に『ネコ』から我々に寝返ったと言う証拠がおありかな。」

「美しいご婦人を疑うものではありませんよ、シャロヌ神父。貴方の心配も分からないではありませんが、聞けば貴志崎峰鷹の居場所を突き止めたのは彼女だそうじゃないですか。」

「そこが怪しいと言っておるのだよ、私は。大体夜沢が死んだのもこのご婦人の情報の策略と考えられ無くも無い。それにみすみす貴志崎峰鷹を取り逃がしているらしいでではないか。」

「そんなことを言ってしまっては元も個もありませんよ。それに仮にも貴志崎はあの『美食倶楽部』最高戦力と呼ばれた『真夜中のロックンロール』夜沢栄作を倒したんですよ。」

 和泉がそう言うと、シャロヌは和泉の目を見つめる。彼は暗に彼女の記憶を隙を見て探れと言っているのだ。和泉は少々辟易した。この神父のなんと疑り深いことか。しかもこうもはっきり自分に命令の仕草を遣すとは。大体がすべてはもう決定されていることなのだ。自分たちは決められた終点に向かってただレールを走っているだけなのだ。ミレディが危険ならばとっくにムッシュ・ムラムラ辺りから通達が来ているはずではないか。それとも姿は若くとも老人は老人と言うことか。
 和泉がそんなことを考えていると、ミレディが口を開いた。

「ご尤もな意見ですわ、シャロヌ神父様。しかし、私はこちらに就いたことは事実です。残念ながら証拠はありませんけれど。なんならばここで裸になって何処にも盗聴器やその他怪しい物が無いかお調べになっても構いませんわよ。」

 ミレディに疑われたことに対する動揺は微塵も感じられない。

「主の御前でご婦人にそのような破廉恥なことを強要するほっどこのシャロヌ外道ではございません。分かりました、そこまでおっしゃるのならばここは信用いたしましょう。」

 口では信用するとか言っていたシャロヌだがまた和泉に目線を送ってきている。結局は俺に調べさせるのが一番だと思っているのだ。

「シャロヌ神父の心配も良く分かりますが、彼女の情報が正しかったこともまた事実ですし。それに夜沢さんが亡くなることはこの「book of watermarks」にも書かれていることですし。ほっほっほっ。」

 安西はそう言って手に持った本をめくり、内容を読み上げた。

「『過去から来たりし穢れた双子の王子の兄によって夜に歌う者は討たれるだろう  そして賢者の肩には戦場を飛ぶ毒もつ蝶がとまる』とね。ほっほっほっ。さて、そろそろ本題に入りましょう。ミス・ミレディ貴志崎峰鷹は夜沢さんを倒した後にどうやって姿を消したのですかな。貴方は一部始終を見ていたはずです。」

 それまで眼鏡の裏でやさしく笑っていた安西の目が鋭くなりミレディを射抜く。しかしミレディは全くたじろぐことなくしゃべり始めた。

「何処から話せばいいかしら。貴志崎峰鷹が夜沢に勝利した後彼は私を次の標的にしたようにこちらに向かってきたわ。恐ろしい形相で向かって来る彼に私は竦んでしまって、動けずにいると私たちの間に男が割って入ってきたの。その男は貴志崎のことを確か『若』って呼んでいたわ。」

「ほう。それは興味深いですね。」

 ミレディの話を聞き、安西の目はさらに鋭さを増した。
 峰鷹にとって、これほどまでに敵に気付かず、接近を許したのは初めてのことであった。戦闘を終えて戻ったホテルの一室。ソファーに落とした腰が、どこまでも沈んでいくかのような錯覚を覚えながら、中川の台詞を邂逅していた峰鷹の目の前で、部屋のドアは音もなく開き、音をたてて閉まった。そして侵入者は、長くゆっくりと深く、紫煙を口から吐き出した。

 あてつけのように濃厚な気配と共に。

 ―村雨健二―
 ―『国際警察機構』所属。特殊部隊「FOXHOUND」諜報部隊員―
 ―部隊の行動指針である「武器も装備も現地調達」という厳しい条件下の中でも潜入任務を完璧にこなし、冷戦時下、第一線で活躍。主な参加作戦に「ペガサス作戦」「サンジバーランド開放」「ヨーロッパ・ピクニック」などがある。また七十年代初頭、悪名高いかの「アルバトロス計画」において、絶対不可能と言われた海底基地への破壊工作を単身で敢行し見事に成功。計画を頓挫されたばかりでなく、無傷で生還するという多大なる成果を挙げた。それ以来、「不死身」の二つ名で呼ばれることとなる―

 貴志崎峰鷹に叩き込まれた習性が、彼の頭の中から必要な情報を瞬時にピックアップしていく。そして現実と照合。戦力を分析。状況と照合。結果を予想―。

「おいおい。そんなに構えんでくれ。気が早いぜまったく」
 
 男はそう言いながら部屋の中央まで侵入する。そしてデスク上の灰皿で煙草をもみ消すとすぐさま次の煙草に火をつける。そのまま峰鷹に向けて差し出されたパッケージには、金色で「PEACE」と書かれていた。

≪無茶を言うぜ…!≫

 ソファーから動けず、言葉とは裏腹にスキの無い男を見上げながら峰鷹は思った。彼は夜沢との死闘を終えたばかり、中川の能力のおかげで出血は収まったものの、心身の疲労は否めない。それと共に不利なこの体勢。この状況下で警戒を緩めるのはあまりにも愚かな行為である。しかし峰鷹にはそれでも相手を倒しきる自信があった。先の闘いがそれを与えてくれた。そして峰鷹が意志を固めんとした瞬間、男が先をとった。

「その気ならもう殺ってるって」

 その通りだった。自分の能力では不意打ちは防げない。峰鷹は己の慢心と共に戦意が崩れていくのを実感すると、セブンスターを懐から取り出しながら少し笑った。それを眺めた男は満足そうに肯くと、ピースをデスクに置いた。

「そうそう。確かに…気配を殺してきたのはオレが悪かったけどな。でもそうじゃなきゃお前、逃げちゃっただろ?」

「まぁそうでしょうね。なにしろ、教本に載っているような相手だ」

 その答えに白髪が混じり始めた男の口元には少しばかりしわが増え、そして男は峰鷹に向けて右手を差し出した。

「村雨健二だ」

 
 村雨健二は峰鷹の予想を超えてフレンドリーな男であった。自己紹介の後まずいきなり先程の闘いの講釈から入られたのだ。見られていたことにも驚いたが、峰鷹はまずそれを当人に向かって喋ってしまう目の前の男に驚愕した。口が、軽すぎる。困惑する峰鷹を他所に村雨はその後もあること無いこと延々と喋り続けていた。ジョンソン大統領の悪口から始まり「アングロ・サクソン男性の八割はホモだ」と宣言するまで一時間。村雨はその間にショートピースを一箱吸い切り、缶ビールを二本空けた。ピンク色のジャケットを着たその男は、とても噂に聞いた伝説の諜報員とは思えなかった。そこで峰鷹は思い出した。現在の村雨は現役ではないことを。帰国後、峰鷹が知りえた情報の中での村雨は確か…。
 村雨が新しいピースのセロハンを開けている間、そのわずかな沈黙を使って峰鷹は初めて自分から話を振った。

「それで、村雨さん」

「ケンヂだ」

 突然笑顔が村雨から消え、すぐに戻る。だがその声は初めて聞くような音だった。

「オレを名字で呼ぶな。オレを名字で呼ぶのは敵だけだ」

「・・・ケンヂさん。今夜は一体どうしてここにいらしたんです?」

 峰鷹は訂正して言い直す。それでいい、と村雨の声も元に戻った。

「やっと聞いてくれたな。お前からの質問を待ってたんだ。一時間も待った。もう話のネタがなくてどうしようかと思ってたよ。もう後は例のアルバト…んん。えーと。で、あれか。何でオレがお前に会いに来たのか?ってことだな。それはそう、お前に一つの質問と一つの忠告をしたかったからだ」

「…もう一つ、質問してもいいですか?」

 峰鷹の呆れた声に対し、駄目だ、と一蹴する村雨。

「次はオレのターンだ。オレから訪れたんだから最初のターンはお前からだった。そしていま、それはオレに移った。ギブ&テイクがオレのルールだ」

 目が本気だった。どうやら素らしかった。恐ろしい男であった。こうなると峰鷹には黙るしか術がなかった。

「では、質問だ。貴志崎峰鷹」

 村雨の声が再び変化する。

「…飛騨博義を殺したのは、お前か」

 峰鷹は予想外の質問に困惑しながらも首を振った。

「嘘には、それなりのものが、返るぞ」

「自分ではありません」

「そうか」

 村雨は峰鷹の表情をなめるようにした後、確信を得たのか、ソファーから立ち上がった。
 峰鷹が見上げながら尋ねる。

「見つけて、どうするつもりですか?」

「そりゃ殺すのさ」

 そして峰鷹はこの一時間の間で一番の驚愕を味わった。
 村雨はその表情に向かって笑いかける。

「何故、驚く?」

「…いや…まさか敵討ち、とはね。失礼ですが、一刻館について調べさせていただきました。正直、何故貴方たちがあそこに留まっているのかと、不思議に思いましたよ。自分は『飛騨博義』を知っています。それに、『V作戦』のこともね。だから、何故貴方たちほどの連中があの男ごときに頭をたれているのかがわからない。あの男は、貴方たちを利用していただけなのに」

 そこまで聞いて村雨は笑みを消した。

「小僧。情報は、正確に、だ。まぁ野郎は確かに最低の男だったよ。そしてオレ達を利用しようとしていたのもまた確かだ。そのためにわざわざ死にかけてたオレ達を助けたんだからな。無い知恵絞って必死に隠してよ。そうさ。全部、自分の利益の為さ。オレ達のためじゃない。だがな、結局あの野郎、俺たちをこれっぽっちも利用しないままに逝っちまったんだ」

 村雨は頭を掻きながら悔しそうに言葉を続ける。

「…借りだけが残っちまってるんだよ」

 そう言って村雨は峰鷹に背を向けた。表情を隠すように。そのままドアに向かって進んでいったが途中で首だけで振り返った。

「忠告を忘れていた。この街で何をしようとお前の勝手だが、オレの身内には、手を出すなよ」

「覚えておきますよ。…村雨さん」

「…ケンヂだ」

 その言葉を最後に侵入者は、音をたててドアを開け、そして音もなく街へと消えていった。
地底探検を諦めた日ノ本岬と岬静は帰路についていた。あの後の調べものの続きや、痕跡を消すための後始末などに思ったより手間取ったせいか、帰る頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。
 二人でアイスクリームを買い(バイト代と称して岬が静の分も買った)、その甘さに舌鼓を打ちながら今後について話し合っていた。

「ところで先輩、あの地下、一体何があるんですかねえ」

「うーん、確定事項ではないんだけど、恐らくBWO(ブックオブウォーターマークス)の欠片」

「欠片?でもあれって一体いくつあるんですか?」

「さあ、そこまでは私には分からないけれど、一度完全な状態で一部幹部の間に報告された後、バラバラにされて上位幹部が欠片を保管するようにしたらしいわ」

「でも、困りませんか?いざと言うとき」

「うん、まあそうね。まあ一応一度目を通せば忘れない程度の記憶力はあるんでしょうけど、曲がりなりにも大幹部だし。まあそれよりね、面白かったのは、その欠片の分配の仕方よ」

「分配の仕方?」

「そう、どうもね、BOWに記されていた地域と、その地域の支部を持つ幹部に渡された部分は一致しているみたいなの。今回手に入れた部分には、ここいらに関することしかかかれていなかったわ、ついでに言うなら、余り収穫自体は無かったのよ、内容的にわね。」

「内容的?」

「そう、いってみるなら今回手に入れた部分は重要な部分じゃなかったのよ、だから逆に、預かっていた飛騨が、その記録を更に分解して、どこかに隠しているんじゃないかってね」

「其れが、あの地下に眠っていると」

「まああくまで予想よ、行ってみたら案外単なる趣味のコレクションでも取ってあるだけかも知れないし…」

「飛騨学長のご趣味?」

「まあ余り聞かない方が良いと思うわよ」

その後は他愛も無い話をしながら帰路につき、静と別れて10分程経っただろうか。岬の身体が違和感を感じ取る。慣れ親しんだ感覚、結界に包み込まれる感覚だ。

 急いで辺りを見回す。結界を張られた以上、民間人が巻き込まれることはまず無いだろうが、つい癖で人を探してしまう、急に自分だけ置いていかれるような感覚は、いつも慣れるまでに時間がかかる。
 次に心配になったのが静の安否だった。相手を特定できない今、相手が複数であった場合、彼女にも刺客が迫っている危険性がある。今すぐ彼女を探しに行こうかと、岬が考えを巡らせていたその時だった。突如彼女の背後に大きな何かが現れ、岬の身体に影を落とした。次の瞬間。

巨大な拳が空を切る。

岬は身を捩りながらすんでのところで身をかわし、相手と対峙した。
全く、よりによってこいつとは…。内心で毒づきながら岬はポケットに手をやった。

岬の視線の先に映っているのは、あの時地下で見たミノタウロスの石像だった。
どうやら教授は、ご丁寧にも古代兵器を改造すると言う、余計な親切心を持ち合わせていたようだ。

「まさか視界に入ったものを追ってくるようにプログラムし直すなんて、悪趣味だわ。」

だが、本人も知らぬうちに顔には笑みが浮かんできた。恐らく、ここまでするからにはやはりあの地底にはBOWの続きが眠っている・・・。

「全く、なんでこう私の周りにはこんなのしか集まらないのかしら・・・」

岬はポケットから手を抜き出す。その手には一組の黒ずんだ赤色の皮手袋が握られていた。
その手袋はかなりの年季が入っているらしく、酷くくたびれてはいるが、見たものの目を引きつける危険な雰囲気を醸し出していた。
ゆっくりと手袋をしながら、相手をもう一度睨みつける。
ミノタウルスの身長はおよそ5メートル。足は細く、まるで牛の其れだが、前足は余裕で岬の二人分ほどの太さがある人のものだ。長い前足を地面につけ、ゴリラのような前傾姿勢をとっており、背は低く見られるが与える威圧感は増していた。恐らく最悪のあの機能は残してあるだろうから、もし触れられたならば圧倒的にこちらが不利になる。それにあの巨体、リーチに見合わずかなり敏捷だということは、先の一撃で体感済みだ。

「鼻を押したらリセット、って訳には行かないか・・・」

手袋をした手をゆっくりと合わせ、腰を低くする。
ミノタウロスは大きく右腕を振りかぶり、大きく、しかし恐ろしいまでの速度で拳を打ち下ろしてきた。
 岬の体が宙に舞う。ゆっくりと、だが確実に拳の軌道を見切り、バク転でその巨大な拳を交わしていた。拳が手首近くまで埋まり、その破壊力の大きさを物語る。
 岬はまだ手を出さない。手を祈るように合わせたまま、まだじっと相手の方を見ている。

ミノタウロスは拳を何事も無かったかのように引き抜くと、地を滑るように間合いを詰めるや、今度は右のアッパーを繰り出した。滑らかな移動はおよそその巨体からは想像も出来ないほどスムーズで、打ち出された拳も先程と同じようなバク転ではかわしきれない、実に巧みな軌道だった。
 と、岬が手を離す。そこには手袋と手袋の間に、何時の間に生み出されたのか糸が幾何学的な模様を描いていた。俗に言う、あやとりの「橋」である。
 その両手の間に張られた糸はミノタウロスの拳を岬の身体に接触されるのを拒むかのように、ぱいんという間の抜けた音と共に岬の身体を後ろに運んだ。先程よりも大きな軌道を描きながら衝撃を殺し、またバク転で地面に着地した岬を待っていたのは連続で繰り出された左の打ち下ろしだった。
 岬は右足を軸に左足を反時計周りに移動させ、倒れこむようなターンで第二撃をまたもかわした。しかし、先程橋を作っていた糸がミノタウロスの左腕を一周していた。岬は身体を引きながら、大きく右腕を自分の胸のほうにひきつける。
 糸と言うものは木綿の其れであっても、摩擦を上手く使うことで人の肉を断ち切れるほどの切れ味を有する。岬の手袋から生み出された材質不明の糸は、原理こそ同じだが木綿のものとは比較にならないほどの鋭利さを見せた。岩のような皮膚を易々と貫き、その巨大な左腕を肘の辺りから切り落としていた。
 ミノタウロスは激痛に絶叫した。泣き声はその顔の通り、牛のものだ、ただし音量は比較にならないが。
 無くなった左腕の傷口を押さえながら痛みと怒りによる聞くに耐えない音量の絶叫を真近で聞きながらも、岬は冷静に距離をとり、次の展開を頭に描いていた。巨人を制する為にはまず末端から。懐かしい声が頭の中で響く。この「殺取(あやとり)」で左腕は上手く行った、ここで左右どちらかの足も取れれば、一気にこちらに戦局は傾くだろう。だが、触れられたら状況は一変してしまう、どう崩すべきか…。そう次の一手を考えていた一瞬だった。ミノタウロスは急に向きを変えると、猛烈な勢いで走り出した。向かった方向を見送った岬の顔が青ざめる。その先にいたのは、先程別れたばかりの静が居た。恐らく結界を察知して、健気にも恐怖を押して自分を心配して来たに違いない。だがこの場合、戦えないものがそういった行動を取るのは逆効果だろう。静は恐怖で身が竦んでいるのか、刀を胸に抱きしめながら、その場から一歩も動かずにガタガタと震えている。その顔は今にも泣き出しそうだ。

「くっ」

岬は急いでミノタウロスを追いかける、だが、スタートダッシュで出遅れた上、ストライドの差で、助けに入るには余りにも絶望的なレースだった。

「静、逃げなさい!!」

 岬の叫んだ時には、既にミノタウロスは残った右腕を、静に振り下ろす直前だった。
 恐怖に歪む静の表情が、岬にはくっきりと見えた。巨大な拳が振り下ろされる。

ぶしゅう

 いやな音が聞こえた。岬は足を止め、呆然と立ち尽くした。その瞳に映ったのは、凄惨な光景だった。
 ミノタウロスは膝をつき、その右腕は地面まで達していた。
ただし今度は右腕の手首から上がなかった。
 静の顔から一切の表情が消えている。先程までの怯えどころか、他のいかなる感情も伺えない能面のような表情だった。丁度伸びをするように両手を上に伸ばした静の手には、あの骨喰藤四郎が握られていた。全長が2メートル近くあるその刀は、両腕いっぱいのところまで引き抜かれていたにもかかわらず、実際には刀身の半分も見せてはいない。だが、その切れ味はそれだけでも十分に伺い知ることが出来た。ミノタウロスは、この結果を予想できなかったに違いない。岬も勿論例外ではなく、あっけにとられその場に立ち尽くしていたのだから。そして、其れがミノタウロスの最後だった。
 静が刀を納めるやその場で独楽のように左に一回転する。がっという音と共に、地面に落ちていた小石を弾き上げると、石は歪に回転しながらも、真っ直ぐミノタウロスの左目に吸い込まれる。ぐちゃっと言う破裂音、ミノタウロスの左目が潰れた。ミノタウロスは再び絶叫しながら、うずくまるようにその場で左目を無い腕で押さえようとする。
 その隙に静はまたくるりとその場で身を翻す。今度は右回転だ。回転するエネルギーをそのままに、今度は鞘ごと骨喰藤四郎を脳まで届けとばかりにミノタウロスの右目に突き入れる。
 ミノタウロスの絶叫が更に大きくなる。静は何も聞こえないかのような冷静さで次の行動に素早く移った。再度その場で3度目の回転。左、右、左と2度目になる左回転で、静は遂に刃を抜いた。右手に塚、左手に鞘という腕を交差させた形で、逆手に刃を引き抜く、その小さな腕で引き出せる1メートル程の刃で、ミノタウロスの右の頚動脈を断ち切っていた。
 この一連の動きを終えるまで、10秒もかからなかったに違いない。すさまじいまでの速さで、静はミノタウロスを葬り去っていた、全く相手に触れられることも無く。

「す、凄い・・・」

岬は思わず呟いていた。今はまだ静はこの力をコントロールできない、だが、これからの合宿で、もしこの力をコントロールすることが出来たなら…。

「一人目、ゲットかもね」

岬は自分でも気づかないうちに、再び頬を緩めていた。
夢を見ていた。

「今日はここまで。」

 いつものように訓練は苛烈を極めた。指導者であるアルベール中川に手酷くやられ、峰鷹は指の先を動かすほどの力も残っておらず、道場の真ん中にバッタリとうつ伏せに倒れこんだ。
 毎日のように血反吐を吐き、列挙出来うるありとあらゆる怪我をした。訓練とはいえ、それは常に死と隣り合わせであった。焦り、油断、奢り、迷い、恐怖。その全てがこの世との別れと直結した極限での修練。しかしそれは峰鷹が自ら望み、そして信じた道であった。

(水が・・・水が飲みたい・・・)

 宿舎へと戻ることはおろか、ピクリとも動けない。瞼がやけに重く、そして夏だというのにやたらに寒い。峰鷹はゆっくりと目を閉じ、ゆっくりと海の底に沈んでいくような快感に身を任せた。
 突然、ヒヤリとした感触を背中に感じた。冷たい布のようなものが体に当てられている。そして―峰鷹は体中の痛みが和らいでいくのを感じている―暖かい手が体に触れた。それは痛みだけではなく、苦悩をも取り去るような暖かさだった。

(か・・・神の手か・・・?)

 峰鷹は戻りつつある力でかろうじて首を動かした。

(だ・・・誰だ・・・?)

 ゆっくりと目を開ける。外の光が眩しく目を刺す。いや、そこにいた人物は確かに光り輝いて見えたのだ。峰鷹が眩しいと感じたのは太陽の光ではなかった。峰鷹の体から優しく苦痛を取り除き、微笑を見せた人物――十河陽子から放たれた光だった。

「十河・・・陽子・・・!?」

 峰鷹が夢から覚醒し、勢い良く体を起こした時、そこには勿論、十河陽子はいなかった。そこは吉祥寺のホテルのベッドの上であり、あの日の道場ではないのだから。
 峰鷹は大きく溜息をつく。呼吸に合わせて体中に亀裂が走るような痛みが伴う。それでも峰鷹はベッド脇のテーブルに置いてあったセブンスターに火を点けると一息、大きく吸い込んだ。

「陽子・・・。」

 峰鷹は十河陽子のことを思った。1999年7月、来るべき未来で別れた後、彼女の行方はようとして知れなかった。社会的には『プロジェクトA』の前日に十文字大学、礼拝堂の火災で遺体が見つからないまま死亡、となっている。しかし、その後、扇風太郎に『神の左手』を『継承』したことは確かなのだ。その後の動向を峰鷹は一切掴むことが出来なかった。
 続けて峰鷹は村雨のことを思い出す。奴は飛騨を殺した犯人を追う、と言った。そして奴は自分のところに確認(おそらく警告も兼ねていたとは思うが)に来た。峰鷹には―それはおそらく村雨本人も同様だろう―飛騨を殺した人物の予想はついていた。
 飛騨は臆病で矮小な人間であることは確かだが、それ故に慎重で狡猾な男だった。少なくとも油断や愚策で安易にやられるようなタマではない。であればもっと圧倒的な『何か』にやられたと考えた方が自然だ。そして飛騨を殺す理由と圧倒的な『何か』を共に持つ人物、それは村雨ら、『一刻館』の連中を除けば一人しかいない。『V作戦』のもう一人の生き残り、弥勒院恭司の他あるまい。
 峰鷹が最後に恭司に会った時、彼はまだ僅か9歳であった。しかし峰鷹は恭司の底知れぬ才能に気づいていた。ともすれば自らの身をも滅ぼしかねない、圧倒的なまでの才気に。
 峰鷹が知っている限り、恭司は現在、どこの組織にも属してはいない。以前は龍洋直属として十文字大学に出入りしていたが、5年前の『V作戦』以降、行方不明ということだ。
 複数の『継承』による『能力』の人造。初めて『V作戦』の詳細を知った時、峰鷹は耳を疑った。『能力者』への『継承』、即ち『能力』の複数所持については理論上のみならず実践上も問題ないことはかなり前から実証されている。更にいうとそれは峰鷹が自ら体現したことでもある(もっとも彼のかつての能力は半身を削がれたに等しい今となっては効力を発揮することはできなくなっているが)。
 しかし『継承』による『能力』の掛け合わせ、というものなど、かつては考えもよらなかったことだ。まして『能力』の複数所持ですら、予測不能の副作用が起こる可能性は極めて高い。『継承』による拒絶反応で死に至るケースも少なくはない。特に精神面へのダメージは深刻なものとなる可能性は高い。峰鷹も例外ではなく、『世紀末救世主伝説』の発動時には攻撃性、嗜虐性とも言うべき感情が激しく昂ぶる。しかしこの程度で済んでいる、というのは非常に幸運なことなのだ。
 『V作戦』は結局中止に至ったがそれでも生き残りが9名。9名もの成功例を出すために一体何人の命が犠牲になったというのか・・・。峰鷹はその想像すら躊躇われる所業を思い、胸を締め付けられるような想いだった。
 だが峰鷹は知っていた。『V作戦』の真の恐ろしさはその過程ではなく結果なのだ。村雨を初めとした成功例に与えられた称号が『victor(征服者)』であることが示す通り、造られた『能力』はまさしく最強レベルという話だ。
 日本に戻るまでの5年間、色々と調査する中でも特に恐れられたのが『廣島(アストロボーイ)』、『不仁身(ハッピーデッドエンド)』、そして『七つの大罪(セブンセンシズ)』。どれも能力の詳細は未知だ。しかし、その名は扇賢央すら警戒するほどのものだったのだ。
 しかしいずれもムラムラや『同盟』の手の内には残らなかった。これが良かったのかはわからないが、少なくとも『一刻館』の連中と即敵対しない、というのは峰鷹には好都合だった。
 セブンスターをフィルターまで吸い終わると峰鷹は再びベッドに倒れ込んだ。今は考えるより体を少しでも回復させることの方が重要だ。明日の朝にはここを出て場所を変えなければならない。『美食倶楽部』や『同盟』の警戒は一層強まり、それとは逆に自分も踏み込まなければならない領域が増すのだ。
 峰鷹は部屋に張られた結界が隙間なく硬化されているのを確認し終えると、目を閉じ、再び眠りに落ちていった。



「合宿だよ、合宿。聞いてるのか?」

 広瀬からの電話を上の空で聞いていた風太郎はハッとして聞き返した。

「え、合宿・・・ですか?」

「そうだよ、この期間、学校ないだろ?まあ、今年に入ってからほとんど授業してないけど。とにかく毎年合宿やってるんだよ。で、お前も参加者リストに入ってるから。」

 突然の広瀬の発言に風太郎は狼狽した。

「いや、でも、僕は、そもそもサークルの内容もよくわからないし・・・合宿って何をすr・・・」

 広瀬が苛々したような口調で風太郎の言葉を遮った。

「いいんだよ、そんなことは。大体、俺だってそんなもん、よくわかってないんだし。ただお前を連れて行く、ってことについては和泉さんも日ノ本さんも絶対、って言ってるんだから。何にしても参加してもらうからな。集合は明日の8時に吉祥寺な。3泊4日の予定だから、伝えたぞ。」

 広瀬は一方的に電話を切った。風太郎は「ちょっと・・・!」と言い掛けていたが、無機質なツーツー、という音ににべもなく遮られた。

 やれやれ、だ。岬姉はいつも勝手にことを進めて、自分のことなど省みてもくれない。

 風太郎が『危機管理研究会』に入会届を出したのは確かだった。井の頭公園で廣島と話をしてから、ゆっくりと考えた結果だった。岬は何かを知っていて、それを隠している。廣島も、そしておそらく『一刻館』の他の住人も、貴志崎教授も、そして和泉慎一も、何かを隠しているのだ。しかしそれは何より自分が同じだった。自分も終わりの風景のことを隠している。(おそらく)唯一、その風景を見ているのに、誰にも語らず、ただ終わりがくることを待とうとしていた。
 風太郎はそれが嫌だった。自分が好意を持つ、持てるかも知れない人達がただ滅びの道を歩むのが嫌だった。何かが出来るわけじゃない。出来るわけじゃないが、少なくとも『危機管理研究会』に入ることは岬の望みなのだ。

 それに―

 風太郎は思う。

 こんなに未来が見通せないのは初めてなのだ。
 自分でも思いもよらない行動に出ることに、風太郎は少し興奮していた。
 和泉慎一は苛立っていた。
 とっくに用は済んだであろう人物が、なぜか彼の後を影法師のようについて来ていたからである。

 先程まで十文字大学の礼拝堂に於いて、夜沢の死と貴志崎の消息についての報告を和泉は受けていた。報告をしていたのは「ネコ」を裏切ったと言っていたミレディ、一緒に報告を聞いていたのは「十傑衆」の安西とシャロヌ神父である。
 結局のところミレディの報告では、4月22日の夜に夜沢を倒してから今日まで一週間の峰鷹の行方はわからないままであった。が、無論彼女が齎した情報から収穫が全く無かったわけではない。第一には峰鷹の使う能力がわかった。それはかつて「覇王」とまで呼ばれた漢、扇賢央の能力「世紀末救世主伝説(ラストマン・スタンディング)」であった。
第二には峰鷹が夜沢を倒した後にアルベール中川が乱入し、更には峰鷹の逃亡の手助けまでしたということ。中川のこの行動はある意味では「美食倶楽部」ひいては「世界賢人同盟」(以下「同盟」)に対する裏切りと取れなくもない。
そして第三に、これが最も重要なことなのだが「BOW(ブック・オブ・ウォーターマークス)」にある記述の通りのことが現実に起こったということである。つまり峰鷹は「同盟」の敵として存在しているのだ。

 ミレディの淡々とした報告の後、今回の会合はすぐに解散した。今後の行動方針、対策について簡単な議論がなされはしたが答えは出なかった。しかしこれは当然といえば当然のことである。全体の作戦について決定権を持つのは「同盟」に於いて「プロジェクトX」の最高責任者であるムッシュ・ムラムラだけである。如何に安西が十傑衆であろうともこの場で次の作戦を立案決定する権限は無いのだ。ましてや今問題になっているのはあの貴志崎峰鷹である。今回の報告がムッシュ・ムラムラに上がれば、すぐに命令が下るだろう。「V作戦」の生き残りか、東アジア支部の「マスターアジア」か、或いはそれ以外の何かか。いずれにしろ今和泉が考える問題ではなかった。そう今考えなくてはならないのは後ろにいる女、ミレディのことである。

「何故、俺について来る。もう用は済んだはずだ。それとも何か言い忘れたことでもあるのか。」

「そんなに怒らないで。何も私は貴方に付き纏ってる気はないのよ。ただ何となく大学というところが珍しいだけ。それとも休日とは言っても私みたいな女と一緒に学内を歩くのは不味いのかしら。」

 少々語気の荒い和泉の問いに、ミレディは全く動揺することなく応えた。
 和泉は思う「この女は他人の感情を完璧に受け流すことが出来る」と。安西に対しても和泉は似たような印象を持っているが、そこには若干の違いがあった。安西の場合は同じようにこちらの感情に左右されないと言ってもそれは人を包み込むような感じなのだが、ミレディにそんなところは全く無い。彼女からは安西とは正反対に全てを深い奈落に吸い込むような、そんな暗い印象を受けた。
 気になることはもう一つあった。他人の記憶を読むことが出来る能力「悪魔の右手(イエスタデイ・ワンスモア)」を持つ和泉にとって、これほど接近した相手ならばある程度断片的にではあるがその考えや、記憶をほんの少し意識を集中すれば読むことが出来る。しかし、ミレディにはそれが出来なかった。能力者ならばそういうことも可能だし、一般の人間の中にも極稀に自分の意識にある種の障壁の様な物を纏うことが出来るのも入るのだが、彼女の場合はそのどちらに当てはまるのかはまだ判然としなかった。

「君も何かの能力者なのか。」

 和泉は唐突にミレディに質問をぶつけた。大抵はその反応を見れば相手が能力者か否かわかるのだ。しかし・・・。

「ふふ、私は只の人間よ。貴方達みたいな能力は持ち合わせてはいないわ。何百体という黒子を一瞬で片付けるような能力はね。でも強いて挙げるならば私の能力は、『男を見る目』かしらね。」

 そう言って微笑んだ彼女から和泉は何の答えも得られなかった。能力を完全に発動させればハッキリするのだろうが、和泉は敢えてそうしなかった。時が来ればいずれわかることなのだ。そう何れは。彼に隠し事が出来る者などこの世に存在しているわけは無いのだから。
 彼はミレディに背を向けると再び歩きだした。

「なにをするもの勝手だが、俺はこれから合宿の為の資料を整理しなくてはならない。其処までついて来られると迷惑だ。」

 そこまで和泉が言い放ったとき、彼は不意に第三者に声を掛けられた。

「和泉君、もう来てたんだ。早いんだね。もう日ノ本さんたちも来てるの。」

 それは弓川であった。彼女は和泉達と翌日から始まる「危機管理研究会」の合宿の資料整理をする約束になっていたのだった。

「君も早いね真莉。まだ待ち合わせの時間には間があるだろ。」

 不意に声を掛けられたとはいえ、和泉の弓川に対する口調はミレディに対するときとは違い、いつものような温和さがあった。

「この時期は面接も無いし、なんだか習慣で早く目が覚めちゃったから。こんなに早く来て・・・」

 このとき弓川は和泉の後ろに佇む、黒いローブを纏った女性に眼を留めた。学生というには年齢が行き過ぎている、それ以前にその風貌から日本人なのかどうかも怪しい。

「和泉さん、後ろの方はお知り合いですか。」

「ああ、こちらはミス・ミレディ。例の広瀬のガールフレンドさ。最近彼と連絡が取れないのでわざわざこの近くに来たついでに大学に寄ったらしいんだ。残念ながら今日はゴールデンウィークだから彼はいないけどね。」

「そうなんですか。始めまして弓川です。」

「はじめましてミレディです。貴方が弓川さんね、孝一君から聞いていたわ。噂通り利発そうな方ね。よろしくお願いするわ。」

「あっ、そういえば孝一君もミレディさんのことを探していましたよ。何なら今私から電話しましょうか。さっきも電話したばかりだし必ず繋がりますよ。」

「いいえ、それには及ばないわ。孝一君とは実際に会ってお話がしたいのよ。実は先に彼を避けたのは私の方なのよ。だって一体何をしてあげれば孝一君が幸せになるのか・・・・私にはわからないんですもの・・・・」

 ミレディは伏せ目がちな態度に弓川はすっかり嵌まってしまったようだ。しかし、和泉にはそれが彼女の本心でないことはわかっていた。本心で無いことだけは。
『キッチン・マカロニ』の店内。そこに流れているゆったりとしたシチリア調のBGMは、女性の声でかき消されつつあった。窓の外を所在無く眺め、食事が運ばれてくるまで、ここがどこなのかもわからなかったような彼女が堰を切ったかのように喋りだしたからである。面接の話から始まり、他愛も無い話を続ける弓川の袖口にはすでに、スパゲッティのソースが飛んで滲んでいる。そして片腕で器用にフォークを扱う和泉が、それを見つけていた。
 几帳面な弓川にしては、珍しい。それに、彼女から静の話を振ってきたのは、初めてかもしれない。当たり障りの無いよう、いつも通りに受け答えながら和泉はやはりその原因はミレディだと確信していた。

 ≪…読んでみるか≫

 「右腕」を、ゆらりと、思わず衝動的に遣いかけた和泉だったが、やはり思い直して左腕を動かした。特製ラザーニャの旨さが口一杯に広がる。そしてホワイトソースとミートソースの調和を味わいながら、和泉は自分の心の緊張もとろけていくのを感じるのだった。

 ≪…そうだな。こんなところで危ない橋は渡るまい。万が一ではあるが、誤って『植え付け』でもしてしまったら元も子もないしな。なんせ…≫

 今のこいつは暴走しかねない。そう思うと和泉は、とうの昔にカタチを失った己の右腕を見やった。そして、唇に付いたソースをじっくりとなめ取った。もし弓川がこの時、顔を上げていれさえすれば、どれだけ歪んだ表情が見れたことであろう。しかし悲しいかな、そして幸いにも、その時の彼女は麺とソースをフォークで絡めていたし、当然、和泉もそうと知っていてのことであった。それ故、彼女は顔を上げ、笑顔の和泉に笑顔で言ってしまう。

 「合宿、うまく行くといいね」

 その言葉に和泉は本日一番の白い歯で返し、そして心の中でこう言った。

 ≪ああ。お前らは大事な『人柱』だからなァ≫



 四月三十日。合宿初日。奇妙な気配に揺り起こされるような感じで、風太郎は目を覚ました。
 眠りが、浅い。それもそのはずである。布団から右腕を伸ばし、やっとのことで時計を捕まえた風太郎は、溜息をついた。朝、五時。これじゃあまるで遠足の前日の子供みたいだな。そう一人ごち、再び眠りに付こうとした風太郎に先程の気配が窓の外から迫った。
 それは、気配と言うよりも鋭い気合。だが、声は伴っていない。つまりは無言の気合である。そんなものがあるのかどうかはわからないが、実際にそのようなもの、気合の籠もった空気の振動のようなそれが、窓の外から迫ってくるのを風太郎は感じていた。
 どうやら自分が目覚めたのはこの所為らしい。一度そう思うと、風太郎はなかなか眠りに付くことが出来なくなってしまった。その気合は、一定の間隔を置いて、外で発せられ続けている。風太郎は目をこすりながら布団を這い出し、窓のそばまで行った。どうしても気になる。そしてぼろくてがたつく窓を慎重に開けて、驚愕した。
凄まじい光景。
 窓の下には広い空き地。一刻館の敷地内で普段は物干しと駐車場をかねている場所だが、現在は村雨の乗る黒塗りの単車が置いてあるだけ。ようやく空が白ばみ、明るくなってきたその場所に、二人の男がいる。その二人が、人間業とは思えないような速度で組み手をしていた。片方が放ち、片方が受ける。手刀、正拳突き、裏拳打ち、足刀、膝蹴り、回し蹴り、後ろ蹴り、下段蹴り、中段、上段、そして跳躍飛び回し蹴り。技から技へ。その合間につなぎ目は無く、流れるように滑らかでありながらしかしそれにはメリハリがあった。
 それは、異様ですらあった。
 何よりも異様であるのは、二人が一言もまったく、声を発していないことである。だがそれにもかかわらず、鋭い気合が確実に伝わってくる。風太郎は窓から出した顔の皮膚がびりびりと振動しているのを感じた。傍の窓ガラスがちっとも揺れないことが不思議に思えたぐらいであった。
 どれだけそれを眺めていたのだろう。一時間かも知れないし、一分足らずだったかもしれない。それぐらい、それに熱中していたのだと風太郎が気付いたのは、いつの間にやら二人の動きが止まり、声をかけられた時である。

 「ずいぶんと早いじゃないか」

 下から送られた声は村雨健二のものであった。捲り上げたシャツの袖を戻しながら、村雨は単車にかけたジャケットを取りに行った。その背中に慌てて風太郎は声をかける。

 「お、おはようございます。ケンヂさん」

 それに村雨は背を向けたまま片手でぴらぴらと応じると、ジャケットからピースを取り出して火をつけた。そして風太郎に向けられた目が、笑っていた。それを見て風太郎も笑うことが出来た。そこに、もう一人の男が声をかけた。

 「お早う、風太郎。どうやら君を起こしてしまったみたいだね。謝るよ」

 102号室の住人。「英土門」(ハナブサドモン)。通称『脂肪遊戯』(バイオレットポーキー)である。だがもちろん風太郎はその名前を知らない。彼が知っているのは、ドモンが一刻館のメンバーの中では珍しく、体育会系のように真面目で、熱血漢であること。そして彼が在日の中国人であることだけ。またその事を村雨に茶化され、頻繁にもめていることはつい先日知った。自分の部屋で。
 傍目には大事に見えるそれが、実は彼等なりのコミュニケーションなのだと(半ば強引に)信じていた風太郎だが、今朝のように二人でいるところを見て、それがあながち間違いじゃないのだと嬉しく思った。

 「お早うございますドモンさん。いや今朝は早く起きる分には良かったんですよ。今日から合宿なんです。おかげで遅刻しないで済みそうですよ」

 もちろん幾分かの嘘があるが、風太郎はドモンが引きずるタイプであることを既に知っている。これから何かにつけて謝られてはたまらない。そう思っての発言だった。それに対してドモンは

「そうか」

 とだけ答えて汗を拭き始めた。どうやら成功のようだ。だのに村雨健二が

 「風太郎は優しいねぇ」

 なんて言うもんだから風太郎は焦った。

 「そ、それにしてもスゴイ組み手でしたね!ドモンさん凄いんですね!も、もちろんケンヂさんもですけど…」
 「…こんなもんじゃ駄目だ。あの人には到底及ばない。村雨ごときの防御を敗れないようじゃとても適いやしないんだ」

 カチン。
 ピンクの男から音が聴こえたようであった。そして先程のそれ以上かと思われる無言の気合が一刻館を襲う。もちろん、これっぽっちも喜ばしくは無かったが、そのおかげで風太郎は約束の時刻まで暇を持て余すことは無かった。
 そしてそのおかげで、目撃した組み手の凄まじさ、そしてそれがどのような事態から起きたものなのか、そういったことに気を回す暇もまた、この日の風太郎には無かったのである。このようにして、風太郎の合宿初日は始まっていった。
 一体どれだけの時間を移動に費やしたであろうか。
 風太郎を含めた、『危機管理研究会』の面々がそこに辿り着いた時には既に陽は落ちかかっていた。休憩もほとんどとらず、ほぼノンストップで歩いてきた。登山行が始まった当初に見えていた緑の歓迎は既になく、辺りは剥き出しになった山の地肌のみとなって久しく、メンバーは一様に疲労の色を隠せずにいた。
 しかし、その中でただ一人、そんな気配を全く見せない者がいた。

「さあ、もう見えて来るわよ。あと30分、ってところだから。」

 日ノ本岬であった。岬はこれまでの道程がまるで無かったかのように、生気に満ち溢れ、メンバーの先頭に立っている。いや、むしろ朝集合時間に10分遅れで彼女がやってきた時の青ざめた顔に、ぼさぼさの頭を考えると、ここに至るまでに回復の一途を辿ってきたかのようだった。

「あと・・・30分って・・・今更ですけど、ここ・・・一体どこなんですか・・・!?」

 ぜえぜえと息を切らしながら岬に尋ねたのは広瀬だった。広瀬はこのような高山には明らかに向いていないようなTシャツにハーフパンツ、という出で立ちで、顔にかいた汗とは裏腹に陽の暮れかかった山の寒さに震えながら両手で肩を抱えながら歩いていた。その後ろには既に口もきけなくなった岬静、弓川真莉が続く。

「言わなかったっけ?ここは鳳凰三山って言ってね。今登っているのは観音ヶ岳。まあ、こっちは普通の登山者が登るコースじゃないけど。」

 岬はさも当然、といった風に答えた。

「ここは裏観音ヶ岳って言ってね。『危機研』で来たことはないけど、短期間での基礎能力向上には持ってこいの場所だ。今日泊まるのは貴志崎教授の紹介の『梁山泊』ってところだよ。かなり由緒正しい・・・・・・合宿所なんだ。」

 和泉慎一だった。登山用のパーカーを着込みバックパックを背負った和泉も息こそ切らせてはいなかったが、流石に疲労の色は隠せてはいなかった。

 吉祥寺駅に集合したのは風太郎、和泉慎一、岬静、弓川真莉、そして時間にやや遅れて日ノ本岬、広瀬孝一の6名だった。
 吉祥寺から韮崎まで電車に乗り、そこからバスに乗り換え。1時間程で辿り着いた夜叉神峠からここまで5時間かけて相当に険しい山道を登ってきた。
 風太郎も通り一遍の訓練は受けてきていた。それは日ノ本家での日課でもあり、『神の左手』を継承する際の必要条件でもあったからだ。そのため一般的な健常者に比べても体力的にはある程度の自信はあったのだが、久々の本格的な運動であることもあり、膝は言うことをきかなくなって、既に言葉を発する体力は残っていなかった。そんな中で風太郎はふと思った。

 ―僕はこの景色を知っている と。


 ・・・・・・

「ムラムラは世界滅亡を防ぐためではなく、自分の野望のため、『プロジェクトA』を発動させている。そのために陽子を利用している。それを知って俺は」

 暫しの沈黙。

「許すことはできない。そんなことを見ぬ振りして帰ってくることはできない。」

「・・・。」

「だから『裏切る』。」

「正気か、兄さん。『裏切り者』がその後どうなるか、知らないわけではないだろう。何者だろうとムラムラは逃がしたことはない。」

「俺は『正しい』と思うからやる。後悔はない。こんな世界とはいえ、俺は自分の『信じられる道』を歩いていたい。ムラムラは必ず倒す。」

 ・・・・・・



 峰鷹は中央線沿線のホテルを転々としながら一週間を過ごしたが、不可解なことに『美食倶楽部』や『同盟』からの追手は全くと言っていいほどなかった。むしろ峰鷹は追手がかかり易いよう、所々に結界の『痕跡』を残して来ており、『同盟』の本格的な網がかかれば、それこそあっと言う間に見つかるようにしてきた。しかし、そのような空気は微塵も感じられず、逆に泳がされているようだ。
 これは大きく予想に反した状況だ。直接ムラムラを叩くのは自殺行為だが、追手の数ならば限られる。特に現在は『プロジェクトX』のこともあり、自分一人に大きな戦力はかけられまい。6月まではこうして組織の体力を少しでも殺ぐことを目的としていた。しかし・・・。
 で、あれば順序を変えるまでだ。もう一つの目的、即ち―

―扇風太郎の確保を優先させる―

 峰鷹が再び『一刻館』を訪れようと吉祥寺駅を降りた時、すでに陽は暮れていた。
 一週間前、村雨に事実上の警告を受けている以上、不用意に近づくのは危険過ぎる。何せ相手は8人もの『victor』達なのだから。
 奴らがそう簡単に扇風太郎に接触させてくれるだろうか。峰鷹は一抹の不安を覚えた。
 いや、奴らは何も風太郎を軟禁しているわけではない。それに利害が一致することはないにしても、対立することもないはずだ。
 『一刻館』の連中の基本理念は常軌を逸した強烈な『仲間意識』だけだ。恐らくは『V作戦』の副作用の一つだろうが、それを侵さない限り、直接的にぶつかり合う可能性は低い。
 とにかく、一度は風太郎に会っておく必要はあるだろう。彼の『神の左手』―今は『ドリームズ・カム・トゥルー』と呼ばれているらしいが―の片鱗は見ておきたい。そしてこの『世紀末救世主伝説』と接近した際、お互いにどのような反応を示すのか。少なくともそのくらいの確認はさせてもらいたいものだ。

 ふと、峰鷹は足を止めた。

 ・・・!?

 『一刻館』へと向かう道の途中、たった今感じた違和感。峰鷹はその正体を知っていた。これは結界だ。峰鷹は体を臨戦態勢へと整え、歩を進めた。

 ―以前、来た時には張られていなかったはずだ・・・それに・・・

 明らかに邪悪な空気を、峰鷹は感じ取っていた。どす黒い悪意に満ちた、刹那的、破壊的な結界。侵入者を感知したり、何かを守ったりするものではない。殺意に溢れたより攻撃的な結界。

 ―誰かが何かを襲っている・・・!

 峰鷹は胸騒ぎを覚え、『一刻館』へ向かって走り出した。

 ―ヤバい。何かヤバいことが起こっている!

 あと2つ、角を曲がれば『一刻館』だ。左。峰鷹は気分が悪くなりそうな結界の中を走った。そして右―

 峰鷹の予感は的中した。

 『一刻館』は炎上していた。そして、その二階建ての建物の上に、確かに峰鷹は見た。

 青白く光った、透明な天使の翼を。

「弥勒院・・・恭司・・・!」



「さあ、着いたわよ!あれが『梁山泊』!」

 既にとっぷりと陽も暮れた頃、岬が指さした先、切り立った崖の中腹に、突然その巨大な建物は姿を現した。
 一見すると寺社の類かと思うような木造の建物。豪奢な門の前にはかがり火を焚く灯篭が置いてあり、その重厚さを引き立たせた。
 門は初めから開いており、その内部に相当に広大な敷地が広がっていることを窺わせた。
 よほど疲れたのか、広瀬を始め、静、弓川はその姿を見て、ヘタヘタとその場に座り込んでしまった。和泉も左手を左膝につけ、大きく息を吐き出した。
 岬はそれに気づいてか気づかないでか、メンバーの方に振り返ると、ニッコリと笑って奈落の底に突き落とすような一言を吐いた。

「それじゃ、皆、荷物を部屋に置いたらすぐに道場に集合。地獄の合宿、スタートね。」
峰鷹は自分の足がふらつきそうになるのを必死で押さえ歩を進めた。
結界に侵入した時点で既に弥勒院には気づかれているはずだ。だが今の峰鷹にとってはそんなことなど些細な問題だった。弥勒院はこちらをちらりと見ると、のろのろと歩を進める峰鷹の前にすっと降り立った。

「何だ、ボックスでも踏んでいるのか?」

ジョークのセンスのなさは相変わらずだった。中身も、タイミングも。

「お前がやったのか?」

「…もし、違うといったらお前は信じるのか?」

自分でもまったく意味のないと思える問いかけに、弥勒院はやはりなんともいえない返答を返した。

「風太郎は?」

「奴はただいま外出中のようだ。それが奴にとって幸か不幸かは別としてな。」

峰鷹は内心胸を撫で下ろした。

「中の仏も何体か確認した。もっともバラバラになってたから人数の照合は曖昧だがな。」

「…バラバラ?」

「ああ、大雑把な分け方になっているのもあれば、細切れになってる奴もある。よりどりみどりだ」

中の光景を想像して峰鷹は胸が悪くなった。

「彼ら、か?」

「ああ、首はよく知ってる顔ばかりだった。お前もよく知ってる面子だ。ほぼ全滅だな、恐らく。」

「ほぼ、だと?」

「…首がない。体のパーツからすると、恐らく人数が一人か二人合わない。」

馬鹿な。内心で峰鷹は驚愕していた。仮にも彼らはV作戦に従事していたメンバーがこうもやすやすやられるとは。だが、すぐさま頭の中で峰鷹は考えを改めた。いや、確かに目の前の男ならそれは可能だろうし、またそれを行うことにためらいを感じるようなこともないだろう。だがしかし、首がないとはどういうことだ?

「何故だ、何故殺した」

語気の荒くなった峰鷹に対して、弥勒院は全くペースを崩さずに静かに言い放った。

「邪魔だから、それ以上の理由があるのか?」

「それはお前にとってか?それとも…」

その続きを遮る様に弥勒院は言葉を発した。

「…を出せ」

バキリという屋根の燃え尽きる音で峰鷹にはよく聞き取れなかった。炎は勢いを増し、こちらにも耐え難いほどの熱気を放っている。

「何?」

「BOWだよ、お前が持ち逃げした分だ」

混乱していた思考が急激に冷えていくのを峰鷹は感じていた。

「何の話だ」

「とぼけるなよ、お前があの本を持ち逃げしてるのは間違いない。」

「美食倶楽部にはあれから一度も戻ってない、俺が手に入れられるはずもないだろう。」

「よくもまあそんないけしゃあしゃあと嘘がつけるな。いくらでもお前には伝手があるだろう、…あの女とかな。」

「何の話かわからないな」

ピクリと弥勒院の表情が変わる、目がすうっと細まり、危険な雰囲気が辺りの空気を染めていく。

「力ずく、っていうのも悪くないと思わないか?」

「おいおい、ネゴシエーションはもっと華麗に行うべきだ、自分の意に沿わないからといって、力ずくっていうのはいかがなものかな。黒が好きな交渉人と同じレベルだぜそれじゃ。今にも黒くて巨大なのが出てきそうな雰囲気だな。」

「…俺は冗談は嫌いだ。」

「そうだろうな、俺も昔からお前はお笑いには向いてないと思っていたよ。」

峰鷹はじりじりと弥勒院から距離を離し始めていた。このままいけば戦闘が始まるのも有り得る。現段階で奴に勝つのはほぼ不可能といっていいだろう。弥勒院の力はそれほどまでに強力だった。何とか隙を見つけて逃げ出さなければ…。

じりっ、と弥勒院が歩を進めたその時だった。突如弥勒院はその場に方膝を落とし、咳き込んだ。よく見ると口元に当てた手から赤いものがにじみ出している。

「おい!」

思わずその場の緊張感も忘れ、峰鷹は弥勒院に駆け寄ろうとした。だがそれを遮るかのように弥勒院はすっと立ち上がり何事かを呟いた。

「……」

「弥勒院!」

立ち上がった弥勒院は峰鷹を目で制し、冷たく言い放った。

「まだお前に預けておいてやる。だが、次に会うときまでに用意しておけ。命が惜しければな。」

「何故だ、お前が何故そんなものを欲しがる?そんなものに興味のないはずのお前が?」

「…いいか、次はないぞ」

凶悪な面相で峰鷹を一睨みすると、弥勒院は音もなく峰鷹の前から飛び去っていた。それと同時に結界が薄れていくのを感じる。
峰鷹はもう一度一刻館を眺めた。火は益々燃え上がり、最早弥勒院との会話の確認に行くことは出来なくなっていた。だが、彼の脳裏には一つの疑問が浮かんでいた。
恐らく、一刻館のメンバーが全滅したというのは嘘ではないだろう。確かに弥勒院の力ならば、それを行うのは決して不可能なことではないからだ。ただ、問題は本当に弥勒院が本当にそれをやったのかという点だった。峰鷹のよく知っている弥勒院の性格からすると、およそ人を殺したところで悪びれるような奴ではない。だが、この歯切れの悪さが峰鷹は気になっていた。ところどころ先の会話で曖昧とも思える点があったことに違和感がある。奴は何か隠し事をしているか、もしくは本当に…。

「嘘のつけない性分だからな、昔から」

遠くから響く消防車のサイレンの音で峰鷹は結界がとうに消失しているのに気がついた。
自分の目で事実を確かめたい気持ちはあったが、タイムオーバーだ。峰鷹はすばやく身を翻し、その場を後にした。
 『一刻館』に於いて喜志崎峰鷹と弥勒院恭治が20年ぶりの再会を果たしたのと時を同じくして日ノ本岬をはじめ、扇風太郎たちの『地獄の合宿』は始まった。

 1999年4月最後の日、朝集合してから休むことなく移動し続け仄かに夏の光を宿し始めた太陽が東の空に沈みかけたときに日ノ本岬が言うところの、由緒正しい合宿所『梁山泊』にやっと到着したのもつかの間、彼らには日ノ本が用意していた過酷な合宿メニューが待っていた。
 到着早々彼らは荷解きもそこそこに『梁山泊』の講堂に集められたのだった。

 『梁山泊』は寺とも日本家屋とも、また中国様式ともつかない建物だった。一階は玄関があり、講堂に直ぐ繋がっている。奥には8畳の部屋が二つと雪解け水を貯めたタンクの水を使った簡単なシャワー室とトイレがある。更に廊下の置くには台所とそれに隣接した
 食堂もあった。険しい山の中腹にあるにしてはかなり珍しい三階建てであり二階と三階には六畳ほどの個室がそれぞれ6つあった。またこの建物には地下室もありそこには講堂と同じくらいの空間がただ広がっていた。
 和泉が作成した資料によれば風太郎たちが訪れているこの観音ヶ岳を含めた鳳凰三山にはここと似たような施設がいくつか存在し、それらをまとめて『梁山泊』と呼ぶらしかった。

「みんな揃ったわね。じゃ、聞いて頂戴。この合宿では何事も時間厳守で行くからね。遅れたらご飯抜きよ。」

「そ、そんなぁ。」

 広瀬孝一が悲鳴に近い声を上げる。が、しかし岬は全く取り合おうとしない。

「えぇ、今日のメニューだけど、女の子は私と一緒に夕飯の用意。それ以外はこの講堂で訓練ね。」

 それを聞いた孝一はまたもや不平の声を上げる。

「そりゃないですよ、岬さん。男だけ肉体労働なんて・・・差別じゃないですか。それに夕飯なら手伝わなくったってここの管理人さんか誰かが作ってくれますよ。」

「ここに管理人は居ないわ。」

 今度は岬静かと弓川真莉も驚きの声を上げる。

「ここって合宿所なんですよね。管理人さん居ないんですか。」

「そうですよ、昨日泉君と資料の作成をしてたときにはここにはちゃんと管理人も居るって書いてありましたけど。」

「管理人は居ないんじゃなくて正確に言えば今居ないのよ。私たちがここを借りている間はね。私が喜志崎教授に頼んで特別にそうしてもらったの。理由は・・・まあ、おいおい説明するわ。夕飯のときのでもね。」

 岬の言葉で一同になんともいえない沈黙が訪れる。ある者はこれから始まる合宿とその先にある戦いに漠然とした不安を抱き、ある者は岬たちが作る今晩の食事に戦々恐々し、またある者は「なぜ、今日の出来事が記憶にないのか」をずっと疑問に思っていた。

「それじゃ、ボーっとしてても始まらないから、後よろしくね。和泉君。孝一君と風太郎を鍛えてあげて。特に風太郎はビッシビッシいってね。さあ、真莉ちゃんと静かは私について来てちょうだい。」

 一方的に自分の言いたいことだけを伝えると、岬は風太郎達を残してさっさと講堂を後にした。

 後に残された三人もすぐには動き出さない。岬の説明では具体的に何をして良いのかは全くわからなかった。
 風太郎に関して言えば、彼は何もしないというより先ほどから何かをじっと考え込んでいて岬の言葉すらまともに聴いていたか怪しいような雰囲気であった。

「どうしたんだい、風太郎君。さっきから何か考え込んで。日ノ本さんの説明は確かに分かり辛かったけど、俺たちは俺たちにできることをしよう。元々体を鍛えるって言うことは伝えてあっただろ。そのはずだろ、孝一。」

 少し不貞腐れていた孝一は和泉に急に水を向けられて少し驚いたように応える。

「えっ、あ、そ、そうだよ。ちゃんと伝えただろ。昨日電話で。来ちゃたものは仕方がないんだからいまさら往生際が悪いんだよ。」

「昨日・・・。何でそんなに押し迫って伝えたんだ。合宿のことは岬さんからも前もって連絡が行っていただろ。」

「おれ、一昨日だったかな。いや、それよりももっと前・・・まあ、そんなことはどうでもいいじゃないですか、和泉さん。僕らはちゃんと時間通り集合場所に間に合ったんだし。岬さんだけですよ遅れたのは。言いだしっぺなのに。」

「それとこれとは、話が別じゃないのか。」

「ま、まあ、結果オーライということで。さっ、風太郎いっちょやろうか。」

 自分の分が悪くなったのを感じると、広瀬は和泉との会話を切り上げ風太郎と向かい合った。
 しかし、風太郎は全く反応しようとしない。

「おい、確かに連絡が遅れたのは俺が悪かったけどさ。ここまできたらなるようにしかならないんだから、そんなに落ち込むなよ。やることやって早く飯にありつこうぜ。」

「・・・やること・・・。なにを。」

「確りしてくれよ。訓練だよ、訓練。明日のためにその一って奴だよ。」

 広瀬はそう言うと、軽くファイティングポーズをとるが、風太郎は動かない。

「そうか、風太郎君は何も聞いていないんだね。岬さんからも他の誰からも。」

 全く進展しない状況に相変わらずの笑顔で和泉が二人に割ってはいる。素振りはかなり考え込んでいるように見えるが、その表情からはそんなことは全く読み取ることができない。

「・・・僕は、何も分からないんです。こんなことは初めてで・・・どかしてしまったのかな。」

「君はどうもしていないよ。何も聞かされていなければ分からなくて当然さ、それが普通だよ。そうだろ。」

「・・・」

 風太郎は何も答えない。

「実はね風太郎君、これは俺から君に言うことではないと思うんだけどね。ここに今日集まったメンバーは或る組織と戦っているんだ。急には信じられないだろうけどね。SF小説でも漫画でもなくこれは本当のことなんだ。」

「えっ。」

 風太郎の表情が一気に不安に染まる。

「そして、その組織は君の能力を狙っているんだよ。君は未来が見えるんだね。」

 風太郎は絶句し、表情は不安から恐怖へと変わった。最早血の気も引いている。しかし、和泉は笑顔で話を続ける。

「君の能力が組織の手に落ちることは非常に危険なんだ。世界の未来にとってね。だから岬さんの下俺たちは誓ったんだ、君を決して奴らの手には渡さないとね。でも、僕らにも限界がある。そして組織の力はあまりにも強大だ。だからこうして俺たちは集まり特訓をすることにしたんだ。勿論君にも強くなってもらうためにね。」

 そのとき風太郎には表現できないほどの衝撃が走っていた。以前、自分の能力のことは『一刻館』の廣島にもばれてしまった。そのときもこれに近い感情を彼は受けたが今回のものはまた違っていた。廣島のときとは違った言い知れない恐怖感がなぜか風太郎の中でどんどんと大きくなっていくのを彼は感じていた。その恐怖の原因がどこにあるのか風太郎には分かるはずもなかった。

「急にこんな話を聞かされて混乱しているのは分かる。でも、もう時間がないんだ。だから俺たちの『仲間』になってくれ。俺たちが一方的に君を守るのではなく、君も敵を知り一緒に戦って欲しいんだ。君の力が必要なんだよ。君の力がね。」

「僕の力・・・」

「さあ、一緒に戦ってくれるね。俺たちは同じ『能力者』じゃないか。」

 和泉は自身の残った左手を風太郎に差し出した。
 風太郎もぎこちなく片方しかない右手を差し出し、そして掴んだ。信じていた現実という船がもろくも崩壊し、まるで混乱の海で藁を掴むかのように。

「これは握手にはならないね。」

 和泉は天使のように美しく、悪魔のように優しく微笑んで風太郎を見つめた。
「ムッシュ・ムラムラはおいでか。」

「お帰りなさい、兄さん。ムッシュは部屋に戻られました。」

「・・・十河様は・・・?」

「ムッシュが・・・先程お連れでしたが・・・。」

「またか。ムッシュは一体何を考えているのだ!」

「兄さん、声を低く。ここでの発言は注意しなければ。」

「確かにそうだが・・・十河様は語らない。彼女が語らない、となればそれが全てだ。それがわからないムッシュではないだろう。にも関わらずあの・・・。」

「『プロジェクトA』・・・ですか。」

「龍洋、先日の回答をまだ受けていないが・・・。お前はどう考えているのだ。」

「兄さんの考えはわかる。だが・・・。」

「これ以上、ムッシュが力を持ったらどうなるか・・・お前だってわかっているはずだ。十河様の『神の左手(アクロス・ザ・ユニバース)』に間違いはなかろうが、このままではどちらに転んでも世界は終わりだ。」

「・・・僕はムッシュに従う。」

「龍洋・・・。」

「少なくとも『予言』は十河様のものだ。『同盟』自体、十河様の『予言』が発端の組織だし、僕はそれに従う。それが僕の生きる目的だから。」

「しかし!十河様はこの流れを望んではいないだろう!」

「ムッシュに逆らって何が出来ると思うんだ、兄さん。僕だって・・・十河様の力になりたいと思っている。あなたとはやり方が違うだけだ。あなたのことは尊敬しているが、これ以上この話を続けるのなら僕は兄さんと戦わなければいけなくなる。」

「・・・とにかく、『プロジェクトA』をムッシュの思惑通りに進めるわけにはいかない。例え俺一人でもだ・・・。」

「兄さん、この話は終わりだ。戻ったばかりだろう。アルベール卿がお待ちでしたよ。」

「わかった。すぐに行こう。」

 龍洋は峰鷹に軽い会釈をすると、その場から立ち去った。峰鷹はその後姿を見詰めていた。

 龍洋は知らないのだ・・・。ムッシュの本当の恐ろしさを・・・。

 ムッシュ・ムラムラの本当の狙い・・・。それは選抜された『アダプターズ』を全員、別の時間軸に置き去りにすること。そして、それは龍洋にはまだ知らせてはいないことだった。ムラムラは峰鷹にのみ、その命令を与えた。
 峰鷹は知っていた。欺瞞なのだ、何もかも。
『プロジェクトA』など陽子を利用するための狂言に過ぎない。そもそも今回の時間転移で1999年に何が起こるかなど、解明できる保証はどこにもない。それにも関わらず、『同盟』の力の入れ方は尋常ではない。何か別の思惑が動いていることは明白だ。しかし・・・。峰鷹は苛立ちを抑えきれず、廊下の壁を拳で叩いた。

「老人共は一体何を考えているのだ。」

 『プロジェクトA』の実行まであと3日。3日後には貴志崎兄弟を始め、各組織選りすぐりの、総勢19名がアダプターズとして未来へ飛ぶことになる。そして、その日が峰鷹と龍洋の決別の日となるかもしれない。
 峰鷹の心は深く沈んでいく。しかしその心の沈んだ底には大いなる決意が既に萌芽していた。
「まさか再びここを使うことになるとはな」

 部屋に灯りを燈すと、灰色に薄汚れた自分の指を見ながら村雨健二はそう、一人ごちた。ここ、とは彼の元の塒。彼が一刻館に住まう以前、現役時代に用いていた隠れ家の一つである。池袋のはずれ。雑居ビルの群れの中にそれはあった。三階建てモルタル塗り。その二階、一番奥に位置するこの部屋には、周りを同じような雑居ビルに囲まれ、昼だと言うのに一筋の光すら届いていなかった。そして現在、実に八年ぶりに宿主を取り戻したその部屋では、一本の蝋燭が壁に張られた鈴木京香のグラビア写真を浮かび上がらせていた。
 村雨はそれを複雑な表情で眺めると、机の上に厚く積もった埃をそのままに、持っていた荷物をそれに重ねて置いた。

「ゴトリ」

 重量感ある音が蝋燭の焔を揺らした。そして村雨がすっかり痺れてしまった両腕を振ると、それはよりいっそう揺らめきを増し、壁の鈴木京香は踊るようであった。

「ドサッ」

 そのピンナップの真下のソファー(やはり埃まみれであった)に腰掛けた村雨が煙草に火をつける。そしてボロボロになった上着を脱ぎ始めた。派手に破れた布の隙間からは薄紅色の煙が立ち昇っていて、紫煙と混ざり合い部屋を埋めている。村雨が衣類を全て剥ぎ取ると、先程まで自らの腹に開いていた大穴は既に塞がってしまっていた。『不仁身』(ハッピーデッドエンド)は、その再生作業をほぼ終了させていた。
 村雨は無表情で、咥えていた煙草を自分の胸に押し当てた。じゅうっと肉の焼ける音、臭い。薄紅色の煙。そして現れる無傷の肌。
 痛みなど、彼はとうに忘れてしまっていた。肉体的な痛みなどは。
 心だけが、とても痛む―。



―ドモン!おいドモン!目を開けろ!

―…むらさめ…か。みな、は?

―…皆、無事だぞ。…先に脱出している。後はお前だけだ。

―…最後まで…嘘が下手な男だなぁお前は…

―…お前は…最後まで一言うるせぇ男だよ…

―…くっくっく…しかし、最後に看取られるのがよりによって村雨とは…。どうせなら…同胞の胸のうちで死にたかったものだ…

―…親友の胸のうち、ってのはどうだ?

―…いいね。嗚呼、それは、いい。…最高だ、ケンヂ…



「…看取る方はたまらんのだぞ…親友」

 彼の独白は、静かに、部屋に響いた。それを聞けたのは、笑顔で踊る鈴木京香。そして村雨が持ってきた荷物―。

 机の上に置かれた、『廣嶋』の生首だけであった。

 それに向けて村雨は、懺悔のように言葉を続ける。

「…みんなオレを置いて先に逝っちまいやがる。いつだってそうだ。結局残るのはオレだけなんだ。なんだよ。みんなしてオレに押し付けやがってよ。ふざけんなよ。なにが心残りだ。オレだってお前らと一緒に死にてぇんだ…馬鹿やろう…」

 村雨は再び煙草に火をつけると、そのまま腕をまぶたに乗せた。

「なぁ廣嶋。オレはまた、大事なものを失ってしまったよ。…これでも、オレはオレなりに努力してきたんだぜ。今度こそは護ろう、ってな。その結果がこれだよ。誰かさんの気まぐれで、あっという間にこのザマさ」

 乗せた腕に、涙が伝わる。

「…オレはさ。この世界がどうなろうと知ったこっちゃなかったんだよ。終わるんだったらそれはそれで良かったんだ。好きな連中に囲まれてさ。それまで笑って過ごせればそれで良かったんだ。それだけで満足だったんだ…」

 指から灰が、崩れて落ちる。

「…世界の終わりに独りは嫌だよ…」

「オ前ハマダ 独リジャナイ」

 突然の声に村雨が顔を上げると、机の上で、廣嶋の左右色の違う瞳がかつて無い色で輝いていた。そして、雑音交じりの音声が再び聞こえ出す。

「オ前ハ 独リナンカジャナイダロウ ケンヂ」

 その言葉に、村雨は涙をぬぐうと、ぎこちないけれども、笑顔でこう返して見せた。

「…ロボットは数にいれねぇんだよ。廣嶋」
何処かで音がする。

僅かに覚醒し始めたその頭が段々とその音とともに覚醒していき、それと共に苛立ちがむくむくと頭を擡げて来る。

ドンドンドン、ドンドンドンというその音は自分のすぐ目の前で起きていた。

「そんなに急かすなよ…」

目の前にふさがっているドアを押上げる、その先にいたのはやはりいつものうんざりする顔だった。
草臥れた緑のベレー帽、ボサボサの髭の上に乗った酒焼けした赤い野卑な鼻、獣の様なにごった瞳。大嫌いな顔だ。

「仕事だ」

男は開口一番そういった、愛想も糞も無い。ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら男はそう言い、足元に写真を放り投げた。写真を拾い上げターゲットを確認する。

「なかなか美人ですね」

お世辞ではなく、そう思った。年のころは20代後半だろうか?意思の強そうな瞳が印象的な女だった。

「手段は問わん、とにかくやつを連れて来い。」

「しかし少しは休ませてはもらえませんか、前の仕事は豪く…」

言葉を最後まで続けることはできなかった。いきなり男が殴りつけたからだ。口の中に血の味が広がる。

「前に教えなかったか?口から糞をたれる前にイエス・サーだ」

この男の血の味はどんな味だろう?きっと最低の味に違いない。だが、この男の喉笛に牙をつきたてたなら、きっと最高の気分にはなれるだろう。

「今回の作戦チームは?」

「フルメンバーで望んでもらう。」

驚きを隠せなかったのだろうか?男は此方の顔を見ながら尚もニヤニヤしながらそういった。

「前回に引き続き、ですか?ずいぶんとまた最近は物騒になりましたね。」

「なあに、お前も聞いたことは有るだろう、終わりの時期が近いのさ。あっちもこっちも大忙しだ。」

辺りを見回すと、他にも四つの棺桶がズラリと並んでいる。本当にフルメンバーで当たるらしい。

「しかし今回のターゲット、そんなに危険なんですか?」

「上からは細心の注意を払えとよ。」

男は少しだけ嫌な顔をした。嫌な顔をしたいのは此方も同じだ。

「こいつらを起こしたら直ぐに出発だ」

「…了解しました。フルメタル・ジャケット軍曹」
「・・・ということなの。つまり、『ネコ』についての情報はこれまで私達が『同盟』から聞いていたものとは全く違っていた。良い、私の話しは理解できた。」


 1999年4月30日、ここは「梁山泊」の食堂。そこの壁掛け時計の針は午後11時を少し過ぎたところを指している。
 日ノ本岬が言うところの『地獄の合宿』はこの時間になっても未だ第一日目を終えてはいなかった。
 和泉、廣瀬、静、弓川そして風太郎は遅い食事を取った後そのまま「梁山泊」の食堂でミーティングを行っていた。事前に作成してきた資料に基づいて現在の状況確認と、日ノ本から『ネコ』について先日ミレディから齎された新しい情報が説明されている。一同は黙ってその報告を聞いていた。

「・・・ちょっと、反応が無いと説明する方もやり難いですけど。疲れてるのは分かってるけどまだ合宿は一日目なんだし、これは重要なことなんだからしっかり聞いてよね。『同盟』は私達にまで嘘の情報を流していたのよ。何のためかは分からないけど、きっとこれには理由があるはずだわ。何でもいいから思いついたことを言ってちょうだい。この合宿ではみんなの体力や精神力を鍛えなおすのも目的だけど、これからの具体的な方針を決めることも勿論重要な目的の一つなんだからね。」

 沈黙し続けている一同に向かって日ノ本が少し強い口調で言い放つ。しかし、誰も反応することは無い。「なんでも私に頼らないでよ」そんな言葉が口から出掛かったが、すんでのところでそれを飲み込む。そんなことを言ってもどうにもならないことは分かっている、自分が投げ出してしまっては世界はそれで終わってしまう、しかし。


 彼女は焦っていた。
 
 やらなくてはならない事は山のようにあるというのに、何一つ事態が進展していない。普段は飄々としてマイペースを崩すことは無い彼女だが、実際に「危機管理研究会」のメンバーの前で現在自分たちが置かれた状況を説明してみると事の深刻さに押しつぶされそうになる。街の喧騒から離れ、こうして自然の静寂の中に身を置いてみるとさらにこの圧迫されるような感覚は強くなった。

 日ノ本は右手で髪を掻き揚げながら皆をゆっくりと見回した。そして風太郎に眼を留めると溜め息をついた。ここまで風太郎のことをまったく忘れていた。無論彼が参加していることは知っているが、彼がこの合宿に参加しているということは、彼に理解して貰わなくてはならないことがあったではないか。自分が説明しなくてはならないことは分かっていたが、あれこれと理由を勝手につけてそれを避けていた。「自分は何もできていない」あらためて彼女はそう思う。


「恭司、あなたならどうしたの。」


 日ノ本は心の中で呟いてみる、応えなど返ってくるはずも無いのに。

 「V作戦」の日以来、恭司は日ノ本岬の前から完璧に姿を消してしまった。彼女は必死で彼の消息を追った。しかし、どんなに手を尽くしても最後に行き着くのは「同盟」からの回答、「『V作戦』は失敗。本作戦の被験者は全員死亡」という決まり文句だった。最初から彼女はこの報告を信じてはいなかった。「恭司は生きている」という根拠の無い自信を日ノ本は持っていた。この自信だけが彼女の生きる糧だったといっても過言ではなかった。しかし、時間が徐々に彼女の自信を殺していった。そして彼女の自信が完璧に崩れ去ったとき、彼女は自らも死を選んだ、はずだった。しかし彼女は生きている。死の間際恭司の声が聞こえた気がしたのだ。「お前は生きろ」と。だから彼女は生きている。恭司の為に、彼が守ろうとしたものを自分も守る為に。

 「V作戦」の前日。恭司と最後にあった時、別れ際に彼が言った言葉を日ノ本は今でも鮮明に覚えている。それは良く晴れた日の夕方、夕日がとても綺麗だった。

「いよいよ明日ね。」

「ああ。」

「緊張してるの」

「ああ。」

「・・・『ああ』『ああ』ってちゃんと聞いてるの。」

「ああ。」

「・・・今からでも辞退できないの。なにも進んであんな作戦に参加しなくたってあなたは十分に」

「十分になんだ。ろくな力も持たない俺が十分にやっているっていうのか。このままじゃダメなんだ。俺はもっと強くならないといけないんだ、もっと強くならないと。」

「強さなんてあなたには必要ないわ、今だって皆あなたを慕ってる。あなた以外誰が「梁山泊」の子達を引っ張っていくのよ。」

「・・・だから。だから強さが必要なんだ。本当に世界が終わるなら俺は皆を守りたい。でも今のままじゃ足りないんだ。」

「そんなこと・・・」

「・・・俺は、世界で一番大切な人よりは強くなりたいんだ。本当は。」

 全身に夕日を受けて、恭司は日ノ本に微笑んだ。

 それが彼を見た最後だった。十文字大学で変わり果てた恭司に会うまでは。

「恭司・・・あなたはまだ・・・生きていてくれたのね。」

 もう一度心の中で彼女は呟いてみる。


「岬さん。」

 突然呼びかけられて、日ノ本は驚いた。呼びかけたのは和泉だった。

「このままこうしていても、いたずらに体力を消耗するだけです。初日ということもあってみんな疲れています。明日も早いですし、今日はこの辺で切り上げては。」

 和泉以外は誰も口にこそ出さないが、考えていることは和泉と同じのようだった。日ノ本は壁に掛かっている時計を見た。もう11時になる。

「そうね。和泉君の言うとおりだわ。ここで焦っても何にもならないわね。出来ることを一つずつこなしていきましょう。それじゃあ、今日はこれで解散。明日は朝6時に講堂に集合。よろしくね。」

 「危機管理研究会」のメンバーは日ノ本の言葉を待ちかねていたように一斉に立ち上がるとほとんど言葉を交わすことも無くそれぞれの部屋へ戻って行った。ただ、風太郎だけは食堂に残っていた。もはや食堂に居るのは彼と日ノ本だけだ。「やっぱりね」日ノ本はそう思い、風太郎と対峙することを決意した。

「岬姉」
「『チビ隊長』応答願います、こちら『ファングワン』。『チビ隊長』応答願います、こちら『ファングワン』。」

 意を決したように風太郎が日ノ本に話しかけたのと、彼女の後ろにある旧式の無線機から間野の声がしたのはほぼ同時だった。

「風太郎ゴメン。通信が終わったら話聞くから。」

 風太郎は日ノ本の言葉を受けると目線を落とした。「また私は逃げている」彼女はそう感じたが今は無線に出るほか無かった。

「こちら『チビ隊長』。『ファングワン』どうしたの。何、緊急事態。」

「ああ岬さん、それが本当に緊急事態ですよ。もう大変なことになったんです。」

「落ち着いて。『ファングワン』間野君。具体的に言ってくれないと分からないわ。何があったの。」

「それが『一刻館』が、『一刻館』が・・・。」

「『ファングワン』、『ファングワン』。『一刻館』がどうしたの。」

「・・・ここからは私が話すわ。実際にこの眼で見てきたのだし。もしもし岬さん。」
 
「あなたは・・・」

 無線から聞こえてきたのは、この合宿に参加したいと言いながら、未だ姿を見せていなかったミレディだった。
 1999年。5月1日。
 歴史の終焉まで、残すところあと60日あまり―。


 ―AM00:00。―中央線沿い某ホテル。

 「カシャッ」と軽い音が鳴って、黒から青へと色が変わる。土曜日。思いのほか硬かったベットの上で、貴志崎峰鷹は日付と、そして月が変わったことを確認した。

 「五月か…」

 峰鷹は溜息と共に声を漏らす。深い溜息と共に。それは自らの思考の停滞への苛立ちによるものだった。一刻館の炎上。征服者達の消去。恭司との再会。予想外の変化を見せた今回の状況を把握し直し、それに伴って自らの方向も修正しなければならない。だが、この数時間、峰鷹の思考は一向に先へと進まなかった。認めたくないことではあったが、日付からきた焦りの所為なのか、彼はとうとうそれを言葉にしてしまう。

 「…『超伝導(コルシカ)』…」

 そう、こんな時はいつでも、それを使ってやってきた。二人で考え、二人で決めてきた。あの日が訪れるまで、いつだって二人で道を見つけてきたのだ―。
 そこまで考えてしまうと、峰鷹はベットから起き上がると冷蔵庫へと向かった。そしてミネラルウォーターを取り出して、口に含む。不思議とカラカラに渇いてしまったものが、それだけで潤された気になった。そしてツルリと手の平で顔を撫でると、それで一気に感傷を切り離した。さぁもう一度だ。自分に激を入れ、峰鷹は再び思考の汲み上げへと戻った。

 状況を把握する時、まずしなければならないことは、現実に発生した事実だけを信じて、事実に関わった何者の言葉も信用しないこと。それが第一歩だと峰鷹は叩き込まれてきた。そしてその上で、直感という名の独断で判断していくのだと。そう、師であるアルベールに叩き込まれてきたのだ。…思い出せ峰鷹。お前はあそこで何を見た?お前自身で見たものを、残らず全て思い出すんだ…!
 まず『結界』があった。あれは内と外とを完全に遮断する局地戦闘用結界。「平和の園」―『ブレイダブリク』と呼ばれるそれだ。音の遮断。光の遮断。外界への影響を遮断する方法は数多くあるが、あれはその中でも最上位。外側からでは内側の真実を決して見通すことができないと言う―いむべきことさらになし―「平和の園」だ。あれの使い手ともなるとかなり限定されるはずだ。数十年という歳月をかんがみたとしても、あれを扱える才能はそう易々と出てくるものでは無い。…同盟の中でもその使い手は数えるほど。かの十傑集とてわずかに一人が扱うのみ。恭司には…使えなかったはずだ。ならば協力者?他の誰かがあの場にいたのか?「平和の園」を用いればそれも可能だが…。
 峰鷹はそこで再び感傷に囚われそうになる。そして心が乱れる。だが彼はいよいよ、それを信念によってねじ伏せる。―それがたとえ龍洋でも、もはやかまうまいと。
 貴志崎龍洋は数少ない「平和の園」の使い手であった。それにより、彼らがどれだけの危機を乗り越えてきたかことか。絶えず傍で見てきた峰鷹ほど、その結界の価値、そして恐ろしさを知るものはいないのである。またそれが、彼に結界を見抜けた所以でもある。

 「…お前はあそこにいたのか?」

 峰鷹は記憶の中に龍洋の姿を探す。だが燃える一刻館にはその姿は無い。恭司も飛び去り、空き地には自分ひとり。峰鷹はそれでも探す。誰もいない。そこには何一つとして存在しない。・・・・・・!?

 「何も…無い…だって?」

 峰鷹は目を開いた。やっと、見えなかった事実に気が付いた。あるべきものが、ないことに気が付いたのだ。一刻館の空き地に、村雨の、あの単車が無い。峰鷹は、それを確認するように、声に出してその名を呼んだ。

 「『黒王号』が、無い」


 ―AM06:00。―池袋某所。

 まどろみから覚めた村雨は暗闇の中にいた。向こうの暗闇に声をかける。

 「今、何時だ?」

 すると暗闇に二つ、光が差した。

 「ロクジチョウドダ」

 村雨はその言葉を聞くとソファーから起き上がった。

 「イクノカ」
 「そりゃあ行くだろ」

 村雨は部屋を縦断する二筋の光線を頼りに、ソフト帽を探し当てると、光源に向かってこう言った。

 「借りは必ず返すのがオレの主義だ」
 「キョウジハオレタチノ身内ダゾ」

 村雨はソフト帽を目深に被る。

 「そうだな…。だからまず、あの女からだ」
 「BOWノデータハ無事ダ。アノ黒フードノオンナハ、オレタチカラ何モ奪エテイナイ」
 「だがあいつはオレの仲間を切り刻んだ」

 部屋に差す光が、少しぶれる。それに村雨は悲しそうに微笑んだ。

 「オレは主義としてそういうのは許せんのだ」


 ―同時刻。―梁山泊。

 「おはようみんな!地獄の合宿二日目よ。午前中には全員、結界の生成ぐらいは出来るようになってもらうからね!」

 日ノ本岬の激が講堂にこだまする。とても三十分前まで、夢遊病者のようにうろつき回っていた人物とは思えない。牛乳を求めてふらふらと見当違いに歩き回ることも、そして飲み終わった後に女性とは思えない気合をいれることも、すべて懐かしいな。そう風太郎は思った。だが他のメンバーはそうはいかない。先程から現状についていけず、いまだ呆然としているものも少なくない。仕方ないといえば仕方ないか。いきなり乱れた寝巻き姿で部屋に入ってきて「お願い白いの頂戴」だもんなぁ。

 「ちょっと風、なに笑ってるの?あなたが一番危ないんだからね?」
 「あ…うん。がんばるよ岬姉」

 その返答に溜息で返しながら、日ノ本岬はこう続けて戒めた。

 「今日は後からゲストもくるんだから。私に恥をかかせないでよ?」
 部屋には明かりと呼べるものは何一つなかった。その入り口から最も近い席にムッシュ・ムラムラが座っている。彼はこの闇がそもそも存在しないかのごとく自然な振る舞いでその席に座っていた。
 にわかにスポットライトがムラムラに当てられる。彼は微動だにしなかった。そしてそれに続いてムラムラの右手側に3つ、左手側に3つ、最も奥に当たる正面に1つ、人間の身長ほどのモノリスが浮かび上がった。
 正面のモノリスが流暢なフランス語でムラムラに語りかける。

「ムッシュ・ムラムラ、今日はご苦労である。早速だが報告を聞かせてもらおうか。なにしろ時間が限られているからな。」

「御意にございます。議長。すでに『プロジェクトX』は最終段階に入っております。全ては順調でございます。2%も遅れてはおりません。」

 ムラムラは慇懃に答え、頭を垂れた。右奥に当たるモノリスが語りかける。

「十傑衆の方はどうだ。最後のピースを埋める当てはあるのか。」

「全く問題ございません。我が『美食倶楽部』の面目にかけて、必ずや良いご報告を。」

 左手前のモノリスが語りかける。

「聞けば『真夜中のロックンロール』を失ったとか。信用してよいものか。」

 右中のモノリスが続ける。

「聞けば、彼の『双璧』、貴志崎峰鷹とやり合ったそうではないか。おまけにあの忌まわしき『覇王』、扇賢央の『力』を持ち帰ってきたそうだな。夜沢をぶつけたのは尚早だったのではないか」

「確かに夜沢に代わるものがそうおるわけではございません。しかしご存知の通り、全て『BOW』に書かれたお導きの通りです。全て定められた通りに、事は運んでございます。」

 正面のモノリスが再び語りかけた。

「それならば良い。我らがノートルダム猊下の御心がためにも万に一つの失敗も許されぬことを肝に銘じておけ。」

「御意のままに。」

「既に人類の歴史は終焉の後に等しい。今回の歴史も甚だ醜悪なものであった。最早、この歴史は別の時空のものとするより他ない。今回は『BOW』も全て揃い、猊下の念願も改めて果たせるというもの。」

 しばしの沈黙。

「1999年、7の月。偽りの歴史は途絶え、全ては『再生』されるであろう。そのための『BOW』、そのための『プロジェクトX』であることを努々忘れてはならぬぞ。」

「ははっ。」

「全ては一なるモノのために、一なるモノは全てのために。」

「全ては一なるモノのために、一なるモノは全てのために。」



 その日、日ノ本岬は道場で和泉、広瀬と共に組み手に励む風太郎の姿に目を見張っていた。
 鬼気迫る、とは正にこのことだろうか。元々、結界生成の基礎としてのトレーニングを行うことを日ノ本家での日課にはしていたが、風太郎にとっては理論も実践も昨日初めて耳にしたものである。にも拘らず、わずか1日で彼は既に結界についてのコツを見事に物にし、最も初歩となるものではあるが、結界をその身に纏うに至っていた。
 彼女にとって弟に等しい風太郎のこんな顔を見るのは初めてのことだった。いつも他人事のように達観する彼が、これほどまでに打ち込んでいる姿など。
 しかし、その姿は岬を喜ばせるどころか、逆に重く、暗い気持ちにさせた。

 『一刻館』炎上の報告をあんな形で知らせるのはマズかった。

 見せたことのない風太郎の様子はそのショックを隠しきれていない証拠でもあった。岬はつくづく自分の間の悪さを呪った。
 しかし・・・岬は思う。風太郎は『一刻館』の行く末を知らなかったのか。彼にとっての未来は既に決められたことのトレースに過ぎないはずだ。だからこそ、今までも感情をあらわにせず、何においても距離を置いてやってきたはずだ。
 今回の合宿にしても、同行することに酷く狼狽していた様子だった。岬からすれば、ここへ来ることも当然『知っているもの』と思っていたため、ほとんど説明らしい説明をしなかったのだが。

 岬の疑念の通り、風太郎には既にこの先のことがわからなくなっていた。いつからだったろうか。彼の未来の記憶は全く見えなくなってしまっていたのだ。
 『神の左手』が見せる既視感はなりを潜めていた。『危機管理研究会』のことも、合宿のことも、そして『一刻館』で出会えた8人の家族のことも、その『死』のことも。
 未来が見えない生活は風太郎が望んだことだ。しかし実際にそれが突然訪れた時、風太郎には今までとは違う新たな感情が生まれていた。
 朝の6時から始まった「梁山泊」合宿二日目、8時過ぎに朝食は挟んだもののかれこれ5時間以上扇風太郎以下「危機管理研究会」メンバーは日ノ本岬の指導の下訓練を続けていた。

 「一刻館」の事件については未だに日ノ本によってメンバーには伏せられたままだった。それは一同に余計な動揺を与えないためとういうよりは、これからここに訪れるゲストに詳しい報告をさせた方がより効率が良いであろうと言う彼女なりの判断ゆえだった。日ノ本は左手に嵌めた腕時計で時間を確認する。もう11時を過ぎている。そろそろ、例のゲストが到着しても良い頃だった。
 そのとき鈍い「ドッ」という音に続いて何かが倒れるような大きな音が講堂内に木魂した。

「風太郎。」

 一瞬静まり返った講堂内に広瀬の声が響く。何の気なく放った広瀬の拳が風太郎の顔面を捉えたのだった。風太郎は派手に後ろに吹っ飛んで倒れたまま動かない。空かさず岬静が駆け寄る。先ほどまで組み手に集中していたのに何があったのか。日ノ本は何が起こったのか俄かには判断できないでいた。
 駆け寄ってきた静の手を振り払うとよろよろと立ち上がりながら風太郎が切れた唇を拭きながら言った。

「すいません。ちょっとボーっとしてしまって。広瀬さん続けてください。」

「続けるって、お前。手当てしてからでも。」

「そうよ。血が出てるし。せめて消毒くらいしてからでも。」

 心配そうに静が手に持ったハンカチを風太郎に差し出すが、彼はそれを無視するように再び広瀬に向かって構えた。これまで見せたことが無い風太郎の積極的なその姿に、日ノ本はなぜか頼もしさではなく危うさを感じていた。彼女がこのまま稽古を続けるべきか否か判じかねていると、「午前はこのくらいにしよう」というあまりに落ち着き払った和泉声が耳に入った。彼女が和泉に顔を向けると彼はこう続けた。

「そろそろみんなも集中力が切れかけているはずです。このまま続けてまた事故になっては元も子も無いでしょう。それに、お客様も見えられたみたいですし。」

 講堂の入り口にはいかにも登山をするための装備に大きなリュックを背負って息を切らせた間野と彼とは対照的に一切の荷物を持たずに顔を半分以上漆黒のローブで隠した人物が立っていた。
 一同の注目をたっぷりを集めてからローブの人物は、顔に掛かったローブを取りながらゆっくりと話し始めた。それはミレディだった。

「ごきげんよう、『危機管理研究会』の皆さん。」



 食堂は緊張感に満ちていた。それは昨日の夜から食事の献立がずっとカレーライスであるからなのではなく、ほんの30分前に到着したゲストのせいだった。一同の食事を取る手は重かった。それぞれに体は疲れていて栄養を補給しなくてはならないことは分かっているのだが、この場の空気が食欲を奪っていた。
 席に着いたときお互いに簡単な紹介は済ませていたが、それは信仰を深めるどころかお互いの間に不審の芽を植えつけただけだった。
 沈黙が続く食堂に少し鼻に掛かった、妖艶な声が響いた。

「皆さん、食事が進まないようね。若いのにもそんなに疲れ果ててしまったのかしら。こんなことならば何か精の付くものを差し入れればよかったかしら。」

「気を悪くしないで聞いて欲しいのだけれど、食事が進まないのは疲れよりも貴方のせいだと思うわ、ミレディ。」

「相変わらず、はっきり言うのね。日ノ本岬さん。」

 ミレディは微かに笑っている。

「皆、貴方に聞きたいことが山ほどもあるはずだけど。まずは私から聞かせてもらうわね。貴方『一刻館』で何を見たの。あそこであったことはきっとこれからの私たちの行動に大きな影響を及ぼすはずよ。」

 日ノ本岬がミレディの目を見つめる。彼女は思っていた。風太郎には耐えてもらわなくてはならない、ここで何を聞いてもそれを乗り越えてもらわなくてはならないと。しかし、ミレディの口からは意外な言葉が返ってきた。

「私も誰が『一刻館』を襲ったかは見ていないのよ。あそこから出てきた男は見たけれど。それが襲撃者であるかどうかははっきりしない。ただ、私があそこに着いたときある音を聞いたわ、はっきりとね。」

「ある音。」

 日ノ本は訝しんだ。ミレディは何を言うと言うのか。昨日の報告にこんな事は無かった。

「昨日は報告するのを忘れていたけれど、あそこに着いたとき聞こえてきたのよ『ボラー』」

 日ノ本は絶句した。
ゴトゴトという落ち着きの無い車の揺れ方。どうやら余り綺麗な道ではないようだ。

手持ち無沙汰にトレーラーのコンテナ部分である待機室を見渡す。車の中には自分を含めて5人、それぞれがバラバラの事をしながら待機していた。

一人目はまばたきを全くせずにルービックキューブを黙々と回している少女だ。年の頃は14.5だろうか?任務に支障の無いよう長い髪は三つ編みにして背中に押し込んで有る。まだ何処か幼さを感じさせる顔立ちと、この年代特有のなんともいえない儚げな大人びた表情が見て取れる。
任務を遂行するのは前回に引き続き2度目だが、前回での仕事振りを見る限りその外見に惑わされたものは不幸な末路を辿るであろうことは想像に難くなかった。

二人目はガタゴトと落ち着きの無い車内でジャグリングをしている道化師だった。面長の顔を白と赤というけばけばしい色で飾り立てている。身につけているのも他のメンバーは殆どが黒のピッタリとした戦闘用のスーツだが、奴のだけはド派手な紫色をしている。鼻にはつけ鼻、ジャグリングしているにもかかわらず、明らかに何処か遠くを見つめている空虚さを感じさせるどぎついマスカラで隈取された瞳。耳まで裂けているのではとさえ思う大きな口。骸骨のような細く、そして異様なまでに白く長い指。なんとも異様な風体をしていた。ジャグリングしているものは特殊手榴弾のようにも見えるが、おそらく此方の気のせいだろう。この道化師とは何度か任務を遂行しているが、一度も話したことは無い。そもそも与えられる任務は専ら殲滅戦であるから、余り話す必要も無いのだ。

三人目は小柄なミイラ男だった。いや、正確には男か女か区別はつかない。全身をグルグルと小汚い包帯で隠している性別不詳の生き物だった。何度か言葉を交わしたことが有るが、金属をすり合わせたような嗄れ声で、性別の判断は勿論、大人か子供かの区別も曖昧なイキモノだった。

4人目はルービックキューブを一心不乱にやっている少女の直ぐ脇でタバコをふかしている2mは有るだろう大女だった。女版フランケンシュタインと言えば分かりやすいだろうか?なんだか巨人の男に女の首を移植したようなごつい体と太い首、妙な子顔とミスマッチな体型をしている。初めて見たものには威圧感を与えずにはいられないような体躯の持ち主でありながら、異様なほどの潔癖症で、常に除菌剤入りのウェットティッシュを携帯している。神経質なほど灰を携帯灰皿の中に落としこみ、灰が散らばらないように気にしているのが滑稽だった。

そして五人目、顔を巡らせ磨き上げられたコンテナの壁はおぼろげな輪郭をその身に写した。考えてみると自分は鏡というものを見たことが無いような気がする。まあ最もそれで苦労した覚えもないし、特に必要も感じないので、恐らく死ぬまで自分の姿を客観的に見ることは無いだろう。任務の時も滅多に外さないゴーグルに手をやり、倍率を上げたり下げたりしながらそんなことを考えてみた。このゴーグルは既に自分の顔の一部のようなものだ、気づいた頃には既に自分から切り離せない存在。組織と同じか、それよりも大切かもしれない。

なんともいえない沈黙の中、男たちを積んだトラックは何処へかと彼らをいささか乱暴にゆすりながら目的地へと走っていった。
 5月に入ったとはいえ、『梁山泊』のある鳳凰山の夜は冷えた。山の更に上の方を見上げると申し訳程度ではあるが、未だに残雪が目に入った。
 『梁山泊』の道場の裏手側、正門から最も奥にあたるそこには山から谷側に突き出るように20メートル四方程度の舞台があった。舞台には屋根こそついていたが、夜風を遮るような壁はなく、相当に冷える。
 そんな中、舞台を取り囲む手摺にもたれかかる人影があった。扇風太郎である。
 他のメンバーは既に寝入ってしまったようだったが、風太郎は上手く眠ることができず、昨日見つけたこの場所へとやってきていた。特に目的があったわけではなかった。何となく夜風に当たってみたかっただけのことだ。
 ミレディという女性の話を聞いてから、日ノ本岬は沈黙を決め込み、早々に自室へと戻ってしまった。他のメンバーはしばらく食堂でボソボソと話をしていたが、岬がいなくなっては午後の訓練もそれ程身にも入らず、そこそこに終了し、夕食の後は三々五々、となってしまっていた。
 一日中行われた訓練によって体は疲れ切っていたが、それとは逆に頭はすっかり冴えてしまっていた。
 風太郎は未だ信じられない気持ちだった。あの『一刻館』の皆が全員――いなくなってしまったなんて。そしてそれ以上に信じられないのが、これほど重大な出来事なのに、自分にわからないはずがないのに、それを見通すことが全く出来なかったのだ。
 風太郎は失われている自分の左腕を見た。未来を見通す力――貴志崎教授はこれを『神の左手』と呼んだ――僕は見たくないものをたくさん見てきた。そしてそれを拒み続けてきた。
 先がわからない世界。それはかつて風太郎が心から望んだものだった。しかし、それが不意に訪れた時に真っ先に感じた感情は歓喜ではなく、恐怖だった。

「こんなところで何してるんだい」

 後ろから声をかけられて風太郎は咄嗟に振り向いた。長身、隻腕の影。和泉慎一だった。

「大分冷えるな、ここは。」

 和泉は風太郎のすぐ隣まで来て、風太郎と同じように手摺にもたれた。

「眠れないのかい?」

「ええ、ちょっと。疲れてはいるんですけど。」

「今日は無理してる様子が見え見えだったからね。」

 風太郎は驚いたように和泉の顔を見た。和泉は山の方を見やったまま、ハハッと笑った。

「大事な人たちだったんだね。」

 風太郎は視線を外した。一瞬、どうしようかと逡巡したが、つい言葉が口をついた。

「家族・・・だったのかも知れません。」

 和泉は風太郎を見やった。

「僕はあの人達のことを何も知らない。教授に紹介してもらって、そこでただ一緒になっただけだった。でも・・・。」

「でも・・・?」

「皆、とても良くしてくれた。僕を『身内』だと言ってくれてたんです。」

「・・・・・・」

「僕はあの人達を救えたかも知れないのに・・・、いや、もしかしたらあの人達を巻き込んだのは僕のせいかも知れない。」

「風太郎君・・・」

「僕は知っていたんはずなんです。いつかこうやって何かに巻き込まれていくことを。それはこの『左手』を手にしたときからわかっていたし、『知っていた』。でも、それから目を逸らし続けてきた。」

 風太郎は何故自分がこんなにも昂ぶってきているのだろう、と考えていた。しかし、一旦溢れてきたものを塞ぐ術はもうなかった。

「もう、僕には『見えない』。見えなければいい、とずっと思ってきたけど、今はとても悔しい。何で、何で見えなくなってしまったのかもわからない。僕は・・・!」

「いいんだ。」

 和泉はそう言って風太郎の言葉を遮ると彼の肩に、唯一の左手をかけた。

「見えなくていいんだ。それが本当なんだ。」

 風太郎は黙って和泉の顔を見やった。

「見えないものなんだ。ただそれを見てしまったことを拒絶することはない。そして見えないことを嘆く必要もない。」

 和泉はフッと笑う。

「十分苦しんできたんだ。受け入れていいんだよ。そして一人で悩んだり、悲しんだりしなくてもいい。僕達はもう仲間なんだから。」

 和泉は風太郎の肩から手を下ろした。

「今こんなことを言うのは酷かも知れないけど、君には強くなってもらいたい。色んな意味で。僕らは諦めてはいないんだから。」

 風太郎は振り返って和泉を見た。その目は真っ直ぐに風太郎を見詰めていた。

「未来は『未だ来ていない』からこその未来なんだよ。それはきっと変えることができる。」

 和泉は確信を込めたようにそう言った。そしてそう言うとクルリと後ろを向き、入り口に向かい始めた。

「しかし、本当に冷えるな。風邪を引かないうちに部屋に戻りな。」

 和泉は後ろ向きのまま左手で手を振り、宿舎の方へ戻っていった。風太郎はぼそりと呟いた。

「未来は、変えられる・・・。」
 弓川真莉は静かに寝息を立てている岬静の隣で今夜何度目かになる寝返りを打った。彼女はどうしても寝付くことが出来なかった。この合宿に来て以来、体は疲れきっているはずなのだが、今夜はどういう訳か神経が張り詰めてしまっていた。理由はいくらでも考えることが出来た。普通の生活を手に入れるために始めた就職活動とそれとは全く逆に今もこうして非日常を生きているギャップ、今日になってこの合宿に現れた自分の叔母が十河陽子だと知るミレディの存在。そして、何もあるわけは無いと頭では分かっていても和泉との間に何かを期待してしまう自分への失望。考えれば切りが無い、でも考えずには居られない。
 弓川は思う、合宿は後二日で終わるがその後はどうなるのか。これまでのように自分は就職活動をし、和泉に対しての秘めた思いを誰にも告げられぬまま広瀬たちと大学を卒業するのか。それとも日ノ本岬の言う様にこの世界は今年の7月で終わりを告げてしまうのだろうか。それを防ぐために自分たちは勝ち目の無い戦いを「同盟」に挑まなくてはならないのか。

「スー、スー。」

 目の前にはなんの不安も無いようにぐっすりと寝ている静が見える。弓川はそんな静を直視することが出来ずにまた寝返りを打つ。今度は窓が暗闇の中にうっすらと見える。窓の向こうから微かに雨音が聞こえる。今まで気づかなかったがどうやら外では雨が降り始めて来たようだった。

「雨粒が頭の上に落ちてくる、だからといって目が赤くなるわけじゃない。」

 勝手に口が動いた。これは弓川がこれまで何度と無く口ずさんできた詩だった。もう意識しなくても最後までそらで言う事ができる。

「泣くのはいやだ、文句を言っても雨はやまないし、僕は自由なんだから心配事なんてなにもない。」

 彼女はいつからこの詩をこうして口ずさむようになったのかを思い出す。これは小さい頃、泣いていると十河陽子がよく口ずさんでくれた詩だ。そしてあの日、初めて自分の能力に気づいた日以来悲しいこと、辛いことがあるといつも彼女はこの詩をこうして口ずさんで来たのだった。
 小さい頃弓川はいつも泣いていた。理由は簡単だった。それは余りに人の目を引きすぎるその容姿のためだ。今でこそ他人からは羨望の眼差しで見られるが、子供の頃、それは単に同級生からのいじめの対象でしかなかった。思い返せば、いじめの原因は彼女への憎悪ではなくやはり羨望の裏返しでしかなかったのかもしれないが、子供のときの反応には容赦が無かった。常に集団からは阻害され、事あるごとに髪や目や肌の色を理由に馬鹿にされた。持ち物を隠されたり、ちょっとした事で抓られたり叩かれたりすることは日常茶飯事だった。そしてあの日もそうだった。
 小さい頃弓川はいつも泣いていた。理由は簡単だった。それは余りに人の目を引きすぎるその容姿のためだ。今でこそ他人からは羨望の眼差しで見られるが、子供の頃、それは単にいじめの対象でしかなかった。思い返せば、いじめの原因は彼女への憎悪ではなくやはり羨望の裏返しでしかなかったのかもしれないが、子供のときの反応には容赦が無かった。常に集団からは阻害され、事あるごとに髪や目や肌の色を理由に馬鹿にされた。持ち物を隠されたり、ちょっとした事で抓られたり叩かれたりすることは日常茶飯事だった。そしてあの日もそうだった。
 その日彼女は叔母の十河陽子と公園に来ていた。夏の昼下がり、4歳の誕生日に母に買って貰った麦藁帽子を被って真莉はいつに無くはしゃいでいた。全てが満ち足りていると感じた。しかし、その笑顔が長続きすることは無かった。
走り疲れてふと振り返るとそこに居るはずの陽子が居なかった。真莉は急に不安になり辺りを見回すが、どこにも陽子を見つけることは出来なかった。そしてその代わりに彼女が見つけたのは、その時一番会いたくない相手の顔だった。真莉が出会ったのは近所のいじめっ子達だった。彼女は何とか目をつけられないようにその場を離れようとしたが、それは叶わなかった。 いじめっ子達は真莉を取り囲むと彼女が被っていた麦藁帽子を取り上げ走り出した。真莉はそれを必死にそれを追った。公園を出て角のクリーニング店を曲がり、泣きながらいじめっ子達に付いて行った。ただどうしても麦藁帽子を取り戻したかった。走りつ疲れ始めた頃いじめっ子達は唐突に白い塀の家の前で止まった。そして麦藁帽子を高く投げ上げた。麦藁帽子はゆっくりと中を舞って、白い塀の内側に消えた。そしていじめっ子達も笑いながらどこかへ行ってしまった。
 夕日が西の空に傾きかけた時、彼女はその白い塀の家の前に一人取り残された。今考えれば誰かに助けを求めればよかった。しかしこのときの真莉にあったのはただ麦藁帽子を取り戻したいという気持ちだけだった。両親にも十河陽子にも誰にも心配は掛けたくない、彼女はその家の正面に回ると恐る恐る門にある柵を開け庭に入ると以外にも直ぐに探していた麦藁帽子は見つかった。「あった」そう思い一気に駆け寄ろうとしたとき、彼女の目に黒いものが映った。それは当時の彼女の身長よりも大きな、牙を剥き出しにしたドーベルマンだった。狡猾なそのドーベルマンは獲物が自分の間合いに入るまで身を潜めていたのだ。彼女はその瞬間全身が硬直し、悲鳴すら上げることが出来なかった。「死ぬ」そう思ったときだった、夏の夕日に照らされて大きく伸びた彼女の影から巨大な顎が飛び出し、襲い掛かってきたドーベルマンを噛み千切った。ドーベルマンの血が彼女の顔や体を赤く染める。そしてそれまで経験したことのない絶対的な恐怖感が彼女を包んだ。
 弓川真莉は訳も分からずに走った。もう帽子の事は頭には無かった。ただそこに居ることが恐ろしかったのだ。どこをどう通ったのかは分からないが、気づくと自分の家に居た、彼女は安堵猊下からか泣き崩れた。すると不意に何か暖かいものが彼女の肩に触れた。そして同時に聞き覚えのある声が彼女を呼んだ。

「真莉ちゃん、今から私の言うことを良く聞いてね。」

「陽子おばさん。」

 彼女の脳裏に焼きついた先ほどの光景こそ弓川真莉の能力だった。彼女の能力は「ティンダロスの猟犬(マイフレンド)」と呼ばれる。それは自分の影の上にいる物すべてを食らい尽くす顎の怪物を召還する能力である。だが、この時の弓川にそんなことが分かるわけは無く、ただその恐ろしさに震えるばかりだった。

「逃げちゃ駄目よ。それはあなたが呼び出したものなの。」

 陽子はそう言いながら弓川をやさしく抱きしめる。

「いい、真莉ちゃん。あなたには他人に無いものが有るわ。誰がなんと言おうとそれは誇れるものよ。恥ずかしがったり、嫌いになったりする必要は無いわ。今目の前にあるものもあなたのすばらしい力よ。」

「ち・か・ら」

「そう、今は難しくて分からないかもしれないけれど、どんなに恐ろしいものでもそれは使い方次第なのよ。あなたならきっと使いこなせるわ。いいえ、使いこなさなくてはならないの。」

「でも、でも・・・」

「大丈夫、真莉ちゃんなら出来るわ。私は真莉ちゃんの事を信じてる。それにどんな時でも前を向いていれば必ず光は見えるわ。」

「陽子おばさん。」

「これからもきっと沢山辛い事はあるわ。でも、決して下を向いては駄目よ。あなたの目は前を向いて未来を見るためにあるのよ。どうしても辛くなったら、ほら。この前私が教えてあげた詩を思い出して。真莉ちゃん覚えてる。雨粒が頭の上に落ちてくる、だからといって目が赤くなるわけじゃない・・・」

「泣くのは、いやだ・・・」

「文句を言っても雨はやまないし、僕は自由なんだから心配事なんてなにもない。幸せが訪れる日は・・・」

「・・・それほど遠くないはず」

「その力を大切にしなさい。」

 
 それが弓川真莉が覚えている十河陽子の最後の姿だ。
 以来、弓川は余り泣くことは無くなった。いじめは相変わらず止むことは無く、私立の中学校に入るまで続いた。中学校に入ってからはいじめこそ無くなったがその代わりに両親の離婚など辛いことがなくなったわけではなかった。しかし彼女は辛いことが有る度に陽子が教えてくれたこの詩を思い出した。すると不思議と辛いことを忘れることが出来たのだ。そして今もまた弓川は何度と無く口ずさんで来たこの詩を口に出している。

「幸せが訪れる日はそれほど遠くないはず。」

 言い終えると弓川は少し落ち着いた。陽子の言うように前さえ向いていれば何とかなるはずだ、これまでもそうして何とかなってきたのだ。やっと眠気の差してきた頭で彼女はそう考えた。そしてその時ふと、和泉の顔が頭に浮かんだ。

「そういえば彼と仲良くなったのもこの詩が切欠だったっけ。」

 弓川は一人ごち、なんだか嬉しくなって来た。彼女が始めて和泉に出会ったとき彼は個の歌のCDを聞いていた。有名な映画に使われた曲であることは知っていたが実際に聞くのはそれが初めてだった。和泉はかの歌が大好きなのだと言ってやさしく笑った。そしてこのときから弓川は和泉に惹かれ始めたのだ。彼女は思う、あれこれ考えるのは今日はここまでにしよう、と。それに愈々何かを考えるのには意識が睡魔に負けそうだった。そして程なく彼女は強くなり出した雨の中眠りについた。

 弓川が眠りにつき日本の日付が5月1日から2日に変わろうとしていた時、喜志崎龍洋は考え込んでいた。
 猊下ここはバチカン宮殿の一室、世界一小さな主権国家であるバチカン市国の中心にしてローマ教皇の住居でもあるこの宮殿で龍洋はもう3時間以上もある人物に待たされ続けていた。彼を待たせているのは他ならぬローマ教皇その人であった。
そもそも彼が日本を離れこのバチカンに来た理由はローマ教皇に会うことであった。事の経緯はこうだ。3日前龍洋に突然ムッシュ・ムラムラから命令が下った。「ネコ」の動向を探っていた『同盟』の情報部が「ネコ」の最高指導者である預言者サライとローマ教皇が会談を行ったと言う情報を掴んだ。会談の内容は分からなかったがこれは異常な事態である。事の真相を究明するためムラムラによって龍洋は此処に遣わされたのだ。信じ難いが教皇は「同盟」裏切ったのかもしれなかった。もし本当に教皇が「同盟」を裏切ったのならば正直にそう話すはずは無いが、反応で何か掴める筈だと龍洋はそう考えた。龍洋がバチカンに来た表向きの理由は「BOW」の調査でローマに立ち寄った際の表敬訪問ということになっていた。
 しかし、「同盟」の一組織であるバチカン、ローマカトリック教会の反応は冷たかった。あれこれと理由をつけて訪問を断ろうとし、仕方が無く龍洋がムラムラの名前を出すと渋々訪問には応じると言っては来たが今日こうして訪れてみれば何の説明も無いままこうして待たされ続けたのだ。彼の考えは確信に変わりつつあった。「ネコ」の最高指導者との密会と「同盟」のムラムラの使者である自分に対するこの扱いを見ればそれは明らかに思えた。

「しかし、なぜ。」
 
 「同盟」が推進する「プロジェクトX」は教皇も十分納得し、協力してきたことではなかったのか。それにいくら「ネコ」と手を結ぼうと「同盟」に刃向う事は自殺行為である。それが分からないローマ教皇、カトリック教会ではないはずだ。だとすれば逆転の一手が彼らにはあるということなのか。今はまだ何も分からない。すべては実際に教皇に会い少しでも情報を得てから判断することだ。龍洋がそこまで考えたと時、左手の扉がゆっくりと開き緋色のマントにこれも同じく緋色の角帽を被った男が入ってきた。顎の下と泥鰌のように左右に伸ばした髭が印象的である男はここバチカンにおいて教皇に次ぐ位である司祭枢機卿のロシュフォールである。
 龍洋はいつもそうするように教皇と教会に敬意を表する為ロシュフォールの指輪にキスをしようと椅子から立ち上がろうとする、がロシュフォールはそれを手で制するとゆっくりと話し始めた。

「大変にお待たせして申し訳ない。何分多忙なものでね。」

「それで猊下にはいつ御会いできるのですか。ロシュフォール枢機卿。」

「その件だがね、此処までご足労願って何なのだが。猊下は御会いにならない。いや、なれない、と言った方が正しいな。」

 ロシュフォールは大げさに表情を曇らせながらそう言った。

「それはまた何故ですか。」

 龍洋の口調に少し力が入る。

「猊下は今朝体調を壊されたのだ。ご自身は貴方に御会いすると仰っておられたのだが何せ御年が御年だけにね、我々が御止め申し上げたのだ。と言うわけで残念だが今回はお引取り願いたい。」

 言い終わると直ぐにロシュフォールは踵を返して部屋を後にしようとする。

「御待ち頂きたい。猊下の体調はそれほど御悪いのか。私もムラムラ様の命令でここまで参ったのだ。猊下の体調がそれほど御悪いならそれできちんとした報告をしなくてはならないのです。猊下は・・・」

「御心配には及びません。症状は軽い発熱だけです。ただ御年と心臓の持病を考えまして今回は大事を取ったまで。ムラムラ様にもそのように御報告ください。」

 そういうとロシュフォールは部屋を後にした。

「決定的か。だが、なぜ・・・」
 
 龍洋は改めてカトリック教会の離反を確信した。だが、その理由については全く分からなかった。
岬は夢を見ていた。

それはいつだったか自分がまだ小さい頃、大好きな骨董屋の父親と一緒にお気に入りの喫茶店で、ミルクと砂糖をいっぱい入れたコーヒーを背伸びして飲み、苦い顔をしていた彼女に語りかける父親の言葉だった。

「お前もそろそろ年頃だから、家の仕事に関することを知っておいてもよい頃だな」

彼女のしかめっ面をニコニコしながら彼女の父はブラックコーヒーを旨そうに一口啜り、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「まずはあれを見て御覧」

岬が父親の指差すほうを見ると、ガラス越しには通りの木にもたれかかってきつく抱きしめあっているカップルが目に入った。彼女が幾ばくかの気恥ずかしさを感じ、父親の方へ目を戻すと、父は次にこう尋ねた。

「岬はああいう二人のことをなんていうか知っているかな?」

「まうんとぽじしょん?」

父は少し笑い、いいや違うと答えた。

「岬は聞いたこと無いかな?二人の世界に入っているって言葉」

岬には心当たりがあった、言葉くらいは知っていることを伝えると父は笑みを絶やさずに次の質問をした。

「じゃあ、あの二人はお父さんと岬に気づいていると思うかい?

岬がううん、と首を横に振ると父親は満足そうに頷いた。

「じゃあ岬は、お父さんが指差すまで、あの二人に気づいていたかい?」

岬は全く気づいていなかったことを素直に伝えた。

「そうだね、つまりそれは、岬の世界の中にあのカップルが入ってきたって言うことだね?」

よくわからなかったが、岬は多分そうだと思うと答えた、今まで父は間違ったことを彼女に教えたことは無かったと岬は考えていたから、殆ど意味が分からなかったのだが殆ど反射的に首を縦に振っていた。

「世の中にはね、誰もが持っている自分の世界を、切り離することが出来るんだ。」

ますます意味が分からない、岬が首をかしげると、辺りの雰囲気が突然変わった。何か今までかんじたことの無い、奇妙な感覚だった。そしてその感覚は彼女の目の前に居る父親を中心に縁を描いて広がっていくようだった。
岬は父親から放たれる不思議な感覚に圧倒され、父親から目を離すことが出来なくなっていた。父親は笑みを崩さずに岬に言った。

「周りを見回して御覧」

父に言われようやく視線を父親から離し、周囲を見回す。そこには岬と父親、そして店の外のカップルしか存在しなくなっていた。先ほどまでいたであろう窓の反対側の客はおろか、コーヒーを運んでいたウェイトレスも、飲み物を造っていた店員の姿も何事も無かったかのように消えていた。突然岬は無性に寂しくなり、泣きたくなるような気持ちが彼女の心を占め始めた。嗚咽が彼女の喉まで上り、今にも口から飛び出しそうになった時、ふとその奇妙な感覚は父親に吸い込まれなくなった。

突然、喧騒が彼女の耳に入ってきた、食器のなる音、店内を忙しく動き回る足音、店の外をせわしく行き交う群集。

どうやったの?とたずねた岬に父親はあの笑みを崩さずに答えた。

「言語、文化、宗教…人を分かつものは沢山あるけれど、結局人を分かつものは個人という単位だ。世界と言うのはその人の数だけ存在するんだよ。…岬には少し難しかったかな?」

それだけ言うと、父親は先ほどまでの彼女の見たことの無い男ではなく、いつもの通りの父親に戻り、買い物を楽しんだ。

そう、それはとても楽しい夢だった。

突然岬は目を覚ました。夢ではない、今ではもう慣れ親しんだ現実の違和感。

何者かが侵入してきた。彼女の頭はそう彼女に伝達し、見る見る頭がさえていくのが自分でも分かった。
 5月10日。前期の大型連休も明け、十文字大学にも平常通りの活気が戻ってきていた。
 前学長、飛騨博義の不審な死については警察より『業務中の心臓発作による病死』、と公的に発表され、後任に予定されていた夜沢栄作は諸事情により就任を固辞、当面は学長不在にて学校運営を行うことが大学当局により決定した。
 『危機管理研究会』も合宿から戻り、メンバーはそれぞれの生活に帰っていった。勿論、現状が大きく進展していない今、メンバーが置かれた立場に大きな変化はない。ただ一人、扇風太郎が帰る場所を失くしてしまった、ということを除いては、だが。

 日ノ本岬は学内の食堂『南風』で和泉慎一と対面していた。

「岬さんの目から見てどうでした、合宿は。」

 和泉がいつも通りの笑顔で問いかける。パスタを食べることに夢中になっていた岬は一旦手を止め、少し考えてから質問に答えた。

「収穫は十分だったわ。全体的な能力の底上げにもなったしね。それに・・・」

「風太郎君もその気になってくれたし?」

 岬は和泉の顔を見た。とびきりの微笑。岬は食事を再開しながら答える。

「風太郎を預かってくれることは感謝する。一刻館がなくなった今、風太郎を適当な場所に住まわせるのは危険すぎる。貴方のところなら当面の危機に対しては安全だわ。」

 岬は皿のパスタを平らげると、キャスターに火を点ける。和泉もラッキーストライクに火を点け、煙をくゆらせた。

「『神の左手』の潜在能力は底知れませんよ。風太郎君自身がまだ扱えていないのも頷けます。実際に生活を共にするとその凄さが伝わってきます。」

「それは私も良く知っているわ。これでも姉弟としてやってたこともあるから。確かに『あれ』はまともな代物じゃない。少なくとも『同盟』に渡してロクなことになるとは思えないわね。」

 和泉はニヤリと笑う。

「いいんですか、そんなこと言って。僕達は『まだ』一応、『同盟』の一部ってことになっているんですよ。」

「それもいつまで続くかしらね。Dr.貴志崎も水曜日には帰る予定だし、『同盟』も『美食倶楽部』もそろそろゆっくりしていられない時期だから。」

「次の一手は考えてあるんですか。」

 ごく当然の質問だった。切り札となり得る『神の左手』は手の内にあるものの『同盟』、『美食倶楽部』、そして『ネコ』と、それぞれの思惑がハッキリしないことも確かなのだ。

「私たちは表立っての行動はできない。そうなるとどうしても行動が後手になるわね。当面は様子を見ていくしかないけど・・・」

「余りにも消極的過ぎる指針、ということになりますね。」

「そうね、実際にはそう上手くいくとは思えないし。であれば折角の幸運に沿って進むってのも悪くないのかも。」

「幸運?」

「『ネコ』に接触するわ。」

 岬はさらりと言ってのけた。和泉は意外な言葉を聞いたように、思わず声を荒げた。

「『ネコ』に!?」

 今度は岬が微笑み返しをする番だった。

「そうよ。可笑しい?」

 和泉は暫し言葉を失う。一つ咳払いをして冷静さを取り戻すと再度話し始める。

「それは共闘、という意味で、ですよね。」

「勿論。今、『ネコ』は『同盟』においても不穏な動きを見せている。それはミレディからの情報でも明らかだし、いざという時の後ろ盾がないよりはあった方がでしょ。」

 和泉は溜め息をついた。岬は続ける。

「それに『同盟』の真意はわからないけど、『ネコ』は世界を終わらせるつもりはないわ。そのために風太郎が必要な部分も共通している。敵が『同盟』であることもね。

「確かにそうですけど・・・。彼らは『同盟』内でも有数の過激派ですよ?そう上手くいくものですかね?」

 岬が和泉を睨みつける。

「答えはやってみてから。先をとやかく言える『能力』は私たちにはないわ。さあ、とにかくすぐに動く!行動は常に素早く美しく!じゃあね、お勘定お願いね。」

 岬は席を立つと『南風』を後にした。


 外に出た岬はすぐさま携帯電話を取り出し、発信ボタンを押す。

「あ、間野君?日ノ本だけど。ちょっとお願いがあるんだけど・・・。」

 岬は逡巡したが気を取り直して電話の向こうに話を続ける。

「しばらく和泉君をマークして。」
「い、いきなりどうしてですか。岬さん。なんで和泉君を。」

「・・・カチャ、シュボッ・・・ふぅー。」

間野の質問に日ノ本岬が答えるそぶりは全く無かった。
ただ、タバコの紫煙を吐き出す息遣いだけが、電話口から聞こえている。

「そ、それに暫くって一体どの位ですかぁ。そもそも、今僕は風太郎君の周りを監視するのでかなり能力(ちから)を使っちゃってて・・・」

「・・・ふぅー。・・・」

「・・・分かりましたよ。やりますよ。やれば良いんですよね、やれば。」

間野の言葉には諦観が現れている。

「間野君は、いつも話が早くて助かるわ、アリガト。」

「”いつも”って。まぁやりますけど、でも後で必ず理由を聞かせて貰いますからね。それから、ちゃんと報酬と経費も請求しますからね。」

「ああ、その辺は精神的にお返しするわ、”いつも”通りネ。それじゃ。」

「あっ、ちょ、ちょっ」

岬は、間野の最後の言葉を遮る様に電話を切った。


顔を上げて、5月の少し靄が掛かった様な日差しに、岬は目を細めた。
眩しいからと言うよりは、顔を上げる事に疲れた様に目線を足元に向けた彼女は、大きく煙を吐き出した。
その彼女の顔はしかし、先程までの間野との軽妙なやり取り嘘の様に暗鬱な影が射し、
吐き出した煙は彼女の重苦しい気分がそのまま圧し掛かったように空には立ち上らず、足元に長く漂っているのだった。


日ノ本岬が間野と電話をしている丁度その頃、和泉 慎一も携帯電話を手にしていた。
左手で器用にボタンを押して行き、携帯を耳に持って来る。

和泉の相手は1コールで電話に出た、まるでこの電話を待ち構えていた様だった。

「和泉です。突然の電話失礼します。」

いつもは年齢よりもずっと大人びて、冷静な和泉の声が少し高くなっている。

「いや、私は一向に構わん、よ。」

相手の声には説得力と包容力が同居した不思議な響きがある。

「そう言って頂けると幸いです、ムラムラ様。一刻も早くお伝えしたい事がありまして。変に能力を使うより、かえってこの方が安全かと思いまして。」

「貴方が言いたい事は分かっていますよ。ムッシュ・イズミ。『危機管理研究会』が『ネコ』に接触しようとしているのでしょ。」

「はい。」

「貴方も素直な方ですね。電話の声が上擦っていますよ。クリスマス前夜の子供の様にはしゃいで。」

「申し訳ありません。つい、気持ちが声に出てしまいました。」

「いやいや、謝る事はありませんよ。嬉しいのは私も同じです。全ては決まっている事とはいえ、ここまで完璧に事態が進行するのは、やはり”神の手”のは素晴らしさを改めて認めざるを得ませんね。」

「はい。これでやっと始められます。やっと。」

「一から始めるのではありませんよ、ムッシュ・イズミ。在る時止まって仕舞った時計の針をもう一度、動かし始めるのです。そう時計の針は戻す事は出来なくても、自らの手で進める事は出来るのです、よ。」

「はい。心得ています。」

「なら宜しい。やはり貴方は優秀な生徒です。もっとお話していたいのですが、私もなにぶん忙しい身ですので、これで失礼します、よ。」

「はい、それでは。」

電話はそこで切れた。
だが、和泉は中々電話を仕舞おうとはしなかった。
彼は今にも大声で笑い出しそうになるのを、携帯電話を持ったままの左手で、口を押さえて堪えているのだった。
身体が小刻みに揺れ、抑えても口の端から笑い声が漏れる。
どんなに押さえ込もうとしても、身体の内から押さえ切れない衝動が、破壊的な衝動が湧き上がって来る。

和泉は思う『この衝動に身を任せたらどんなにか気分が良いだろう』
この思いは彼にとってとても蟲惑的だった。少しでも気を抜いたら、今にも理性が粉砕され、この衝動に身体が支配されて仕舞うだろう。
長い間押さえ込んできたこの衝動は彼の中で、彼自身でも信じられないくらいに巨大に成長していたのだ。

「まだだ、まだ。もう少し。もう少しだ。だから待っててくれ。なあ、風太郎。」

和泉は一人ごちた。
凶悪な笑みを浮かべながら。

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