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鳥居強右衛門コミュの鳥居強右衛門とは?

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鳥居強右衛門(とりい すねえもん)1540〜1575
戦国時代の武将・奥平信昌の家臣。名は勝商(かつあき)。

天正3年(1575)5月、
武田勝頼は1万7千の大軍を率いて城兵500人の守る
長篠城を攻め始めた。
長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、食料も乏しく、苦戦していた。

猛攻に継ぐ猛攻で風前の灯火になりかけたとき、
織田・徳川連合軍が必ず来てくれると信じる城主奥平貞昌は、
降伏を強く進める家老達を前に偵察を城兵に呼びかけた。
しかし、城の周りは武田軍がびっしりと取り囲んでいる。
誰も申し出ることなく静まりかえった中で
「そのご使者のお役目、
それがしにおおせつけられましょう」と申し出た者がいた。
それが鳥居強右衛門だった。

徳川の援軍は来るのか・・・
長篠城の命運を確かめるべく、
家康のいる岡崎へ一人向かう強右衛門。
強右衛門は本丸の不浄口(下水口)から城外に出た。
城を脱け出すと川に張られた鳴子を必死で掻い潜り、
激流の中を4kmほど下り、山道を急いだ。
休むことなく一昼夜走り続け、
ついに武田軍の包囲網の突破に成功する。

そして岡崎へたどり着いた強右衛門は、
目をみはる光景にでくわす。

炎々たる篝火と地上にみちみちた4万の兵の姿だった。
このとき織田信長は、
武田家を一気に根元からゆさぶりつけようと、
家康のもとへ大軍をよこしていた。
奥平信昌の手紙を家康に渡し、
武田軍の状況を報告した強右衛門は家康や信長に
「武田の包囲を突破して帰城するのは危険だから、
岡崎でゆっくり休み軍勢と同行せよ」と言われたが、
城の状況を考えると休んではいられない。
強右衛門は周囲の反対を押し切り、
疲れをとらぬまま立ち上がり長篠へ向かって走り出した。
早くこのことを殿に知らせたいという気持ちと、
先程の脱出の成功が強右衛門に自信を持たせていた。

しかし強右衛門の幸運もここまでだった。
やがて城近くにたどり着いた時に武田方の足軽たちに
取り押えられてしまう。
強右衛門は下帯一つの裸にされ、
長篠城から対岸にある岸辺の磔刑柱に縛り立たされた。
「援軍は来ない、降伏しろ」と伝えれば、命の保証ばかりか
身分ある士分に取り立てようという取引をされる。
援軍の大軍が来る前に城を落としてしまおうと考えた
勝頼の考えであった。

胸ものとに槍を突き出され、勝頼から取引をもちだされると、
強右衛門の気持ちが揺らいだ。
そのとき、城の塁上に、黒の鎧に陣羽織をつけた
奥平信昌が現れたのが遠目にもわかった。
そのとたん強右衛門に強烈な衝動が走り、自然と言葉を叫んだ。
「近く、徳川・織田連合軍が助けにやってくる。
早まって城を明け渡したもうな。もう少しの辛抱でござる!」
そこで激怒した武田の兵に槍で刺し殺されてしまう。

そして、直後にやってきた織田徳川連合軍と設楽ケ原で激突。
これが日本で初めて本格的に鉄砲が使用された戦いとして有名な、
長篠・設楽原の戦い。
ここで3000丁の鉄砲を使用した信長軍が
当時無敵を誇った武田騎馬軍団を破った。
またこの戦いに勝利して、織田信長は天下統一に大きく前進した。
そういう戦いだった。

コメント(2)

長篠の戦いっていうと、強右衛門の事よりも織田軍の鉄砲隊の話ばっかり出てくるんだよね〜。
たまには強右衛門にもスポットライトを当てて欲しいね。

それにしてもかっこいいぜ、強右衛門!!

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