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日本中世史コミュの鎌倉仏教の僧で、誰が好きですか?

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鎌倉仏教の僧(もう少し広く、平安から室町でも良いです。)で、お気に入りの僧がいれば教えて下さい。
ちょっとマニアックなテーマですが、好き嫌いに正解も何もないので、気楽に書き込んでいただければ嬉しいです。

私は、一遍が好きです。
昔は「へらへら踊る、世捨て人」といったイメージを持っていたのですが、水軍で有名な河野一族の武士らしく、困ったときには武断的な思い切った行動をするところが良いです。

浄土教に共通する「南無阿弥陀仏さえ唱えれば、信心がなくても浄土へ行けるのか?」という根元的な問題にも、はっきりとイエスと答えていて潔いです。

一遍上人絵伝(一遍聖絵)に描かれた、意志の強そうな太い眉、ずんずん一人で歩いてゆく姿も魅力的です。

コメント(10)

お気に入りの僧ですか。これは仏教学を専攻していた身としては答えないわけにはいかないですね。一人に絞るのはちょっと難しいので三人で勘弁を。

・禅林寺永観(三論宗/浄土教) ←修論で扱いました
・法然房源空(浄土宗開祖)
・明恵房高弁(華厳宗)

好きな理由は…簡単な言葉で表すことができないです。勉強不足でスイマセン。

一部分だけ挙げるならば、永観,明恵の自身に対する厳しさや自覚と他者への慈しみ、法然教学のもつ包容力などに惹かれます。
朝さん、早速の書き込みありがとうございます。

永観さんって永観堂の方ですよね。昨年紅葉を見に行きました。みかえり阿弥陀像も拝んできました。でも永観さんのことは良く知りませんので、魅力のさわりでも語っていただければ幸いです。

うちが浄土宗なのと、浄土宗系の幼稚園に行っていたので、法然さんについては良いイメージが刷り込まれています。大変頭が良い人だけれど、社会性もちゃんとある、同時に信念を曲げない強さも持ち合わせているところが好きです。

明恵さんについては、河合隼雄氏の「明恵 夢を生きる」を読んで好きになり、高山寺にも行きました。黒い犬の像(当時は国宝ではなかった)が可愛かったです。

しかし、三人とも選択本願念仏集がらみですね。(^-^)
>イリエ(兄)さん
永観さんはおそらく、一般の方は知っていてせいぜい「みかえりの弥陀」くらいだと思いますが、南都浄土教(叡山を中心にした天台浄土教に対する、奈良を中心とした浄土教)を考える上では最重要人物の一人だと思っております。もっとも、まだあまり研究されていませんが…。

ご存知かもしれませんが、南都仏教は学問にスポットがあたることが多く、実践面では鎌倉新仏教と比べるとどうしても地味です。

永観さんはその南都仏教の中でも特に理論的な三論宗に属していまして、その三論宗の宗義に基づいて末法の凡夫が救われる法を真摯に求めていた人です。時代はだいたい恵心僧都源信と法然さんとの中間くらいです。

で、問題の魅力なんですが…これが簡単に言うのが難しいんです。なんせ著作も史料も少ないですんで。誤解を恐れずに言うならば、永観さんのスタンスは

【今まで教えられてきた行では成仏はおそらく無理。そこで功徳が大きく簡単な行である称名によって往生を願うも、それでも難しい。そこで、皆で助けあいながら称名などの往生のための修行をしていきましょう。】
というような感じです。横川の二十五三昧会と比べ、より一般民衆に近い教化をしていたようです。また、永観さんの行っていた念仏講は非常に人気があったようです。

法然さんやそれ以降の方と比べると少々見劣りする部分があるように思われるかもしれませんが、それは法然さんの力によるものが大きいです。
所属する宗派の関係上、非常に理論的な人ですが、それを踏まえてかなり民衆よりの活動をされていた人です。

イリエ(兄)さんが法然さんに対して懐いておられるのと同様に、「大変頭が良い人だけれど、社会性もちゃんとある、同時に信念を曲げない強さも持ち合わせている」人です。

・・・やっぱり上手く説明できませんでした。もっと勉強します。


最後に一つ訂正を。永観さんは選択本願念仏集には出てこないです。というか、沢山ある法然さんの著作の中に10数箇所しか永観さんに関する記述はありません。 選択集の中に影響はないことはないですが、非常にマニアックな視点になりますので、普通に考えるならば、永観さんと選択集との関連性は薄いです。


以上、小難しいことばっかりで失礼しました。
>普通に考えるならば永観さんと選択集との関連性は薄いです。

ご指摘ありがとうございます。
永観堂のページ
http://www.eikando.or.jp/eikando.htm
をいい加減に読んでいて、静遍僧都のしたことを永観さんのことだと勘違いしていました。

>南都仏教は学問にスポットがあたることが多く、
>実践面では鎌倉新仏教と比べるとどうしても地味です。

鎌倉中期になると、叡尊、忍性ら律宗の僧は結構活動的になりますね。
さらに、末期になると、(南都仏教といえるかも怪しいですが)怪僧文観も出てきます。
この辺が好きな人はいないかなあ?
あと、禅僧とか西行とかも好きな人はいませんか?
はじめまして。私は山岳宗教から中世庶民信仰の勉強をしている者です。

大原の良忍さんとほぼ同時代に、南都の永観さんが、融通念仏に近い
考え方の実践をしていたのは、寡聞にしてしりませんでした。
いい勉強をさせてもらいました。
しかしそうなると、どうして永観さんの派は勢力をもてなかったか、
知りたくなりますね。
「迎え講」はやってなかったんでしょうか。
非常にマニアックな話題になりますが、お教えいただければと思います。
えーっと。僕なんかが答えてしまって良いのでしょうか。

まずは答えやすい方から。
・永観さんは迎講はちょくちょくやっていたようです。没後すぐに成立している『拾遺往生伝』永観伝にも「…於中山吉田寺。修迎接之講。」とあります。どれくらいの頻度で修していたかはちょっとわかりませんが、割とちょくちょく行っていたようですよ。

次に、融通念仏云々について。
・良忍さんの融通念仏の考えは、『華厳経』の所説に基くものだと思われます。ここまで書くと想像できるかもしれませんが、そもそも華厳教学は南都系の学問になります。叡山で華厳教学が学ばれていなかったというわけではありませんが。
・永観さんは華厳宗の中心寺院の一つである東大寺の別当もわずか二年間でありますが任命されています。
・南都は諸宗兼学が普通だったことを考えるに、華厳の影響があること自体は全く不思議ではありません。
・事実、主著の『往生拾因』の中にもいくつか華厳経(六十華厳・八十華厳)が引用されています。
・これは僕の説明が悪かったのかもしれませんが、永観さんの思想の中には良忍さんの融通念仏に近い思想はほぼありません。"皆で助けあいながら…"というのはあくまで「皆で助け合って念仏をする」ということで、良忍さんの言うところの「一人一切人 一切人一人」というような感じではありません。
・永観さんの「助けあいながら…」というのは華厳系の発想というよりも、菩薩行の一環としてとらえたほうが良いと思います。

最後に「どうして永観さんの派は勢力をもてなかったか」ですが… 正直、これは非常に難しい問題でして、僕にはまだ歯がたたない内容なんですが、あえて僕なりの意見を書かせて頂きますと、
・永観さんが所属していた三論宗は、良忍さんの所属していた天台宗とはそもそものタイプが異なっていて、今でいう宗派のようなものではなく、むしろ学派と呼ぶほうが近いということ。(=元々の所属する宗派のタイプの違い)
・永観さんは禅林寺に籠居していまして、時々「○○講」のために外には出ていましたが、良忍さんのように各地を回って勧進するというようなことはしていない。
・永観さんからそれほど時を隔てずに布教した法然さんとその門下の影響力が非常に強かった。
・永観さんの行っていた「往生講」は当時、非常に流行ったようです。事実、往生講の式次第とでも言うべき『往生講式』は講式の中でも特に一般民衆にひろまったようで、仮名書きのものも作成されています。
・その講は後に禅林寺が浄土宗西山派の寺院になるに従い、西山派の僧侶がよく修していたようです。ですが、禅林寺の属していた浄土宗西山派本山義(今の禅林寺派との関係は僕もよく知りません。この派は天台の影響が強かったとされています。)が室町以降に衰退したこともあり、今はその形をとどめていない。
というようなあたりが理由として考えられるかと思います。

ただ、永観さんの近くで一緒に念仏講やらをしていたいわゆる「念仏衆」と呼ばれていた方たちが永観さん亡き後、どうなったのかという事を僕も勉強不足で知りませんので、正確なトコロはわかりません。何か史料がありましたら教えていただきたいです。

と、迎講どころでないマニアックな説明になってしまいましたが、こんなところでどうでしょうか。マニアックすぎてすいません。
さっそく御丁寧にありがとうございます。
念仏の功徳の倍加というような意味ではないのですね。
良く分かりました。

往生講式は、往生要集とか、何か経典解説が下敷きなのでしょうね。
御存知なら教えてもらえませんか。
いろいろすみません。;)
帝塚山大学の浜田全真先生(融通念仏宗僧侶でもある)の講演で、
来迎会は恵心僧都創始というけど、実際に執行したのは勧進聖と
おっしゃってまして、その際のレジュメが行方不明なのですが、
清水寺に迎え講のための娑婆屋があり、そこで勧進聖が
京都五三昧の一つ・船岡山に向かって迎え講をしたという記録が、
迎え講関係の史料では一番古いとおっしゃってたような・・・
曖昧ですみません。
往生講式は、往生要集と同様に様々な経典の内容を踏まえた上での説示となっていますので、経典解説というと少しニュアンスが違うかと思います。

ちなみに参考にしていると思われる経典は沢山ありますが、少し挙げますと、『無量寿経』『観無量寿経』『安楽集』『往生要集』等の浄土系文献に加え、『華厳経』『法華経』『涅槃経』などの経典からも引用しています。

迎講関係は僕もよく知りませんので何とも…
ありがとうございました。
本題からずれているので、ここらで戻します。

ちなみに私は増賀上人ファンです?

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