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分離派史学会コミュの紀元節小史

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 昭和41年(1966)、佐藤栄作内閣により「建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)」により、毎年2月11日を「建国記念の日」とすることが定められた。かかる日付は、大日本帝国下における紀元節と同日であったため、今なお賛成・反対の議論を巻き起こすこともあるが、その内実を問わず、一応、一般的にも国民の祝日として受け入れられているのが現状であるだろう。
 もともと、紀元節は明治政府、大日本帝国政府によって定められた四大節(紀元節=建国記念日・四方節=元日・天長節=天皇誕生日・明治節=明治天皇誕生日)の一つであり、太陽暦(グレゴリオ暦)2月11日に固定されている。明治5年(1872)に始まった紀元節制定の動きは、紆余曲折を経ながらも明治6年(1873)10月14日、太政官布告第344号によって正式に2月11日に定められ、現在の建国記念の日へと連なるのである。
 欧米列強へ近づき、その仲間入りを果たそうと努力を重ねる明治政府にとって、建国の記念日を定めることは急務であったと思われる。しかし、幸いにして独立記念日を持たない我が国にとって、建国記念日を定めることは、畢竟、神話時代に助けを求めざるをえないのである。『日本書記』によれば、初代天皇とされる神武天皇の即位は「辛酉年春正月庚辰朔」であり、無論、これは正月元日に決まっている。しかし、明治6年(1873)から新暦(太陽暦=グレゴリオ暦)への改暦を予定していた明治政府にとって、旧暦正月を一年の始まりとする固定観念を再び広めかねない紀元節の制定は避けねばならなかった。そこで編み出されたのが、新暦で換算し、特定日に固定するという手法なのである。当時の文部省天文局の説明も「干支に相より簡法相立て」と平易であり、多くの変遷をみた暦法によらず、60周期で単純に繰り返す干支をひたすらに逆算したのであった。神武天皇即位年である「辛酉年」は、計算により西暦紀元前660年に当たる。また、即位日は「庚辰」であるから、「春正月」すなわち立春に近い庚辰の日を探すと、西暦2月11日となるのである。ちなみに、『日本書記』の「朔=新月」との記述も、実際に朔(新月)であったことが確かめられている。これは偶然の結果とよく言われるが、あるいはそこまで計算に入れた制定した可能性も決して否定はできない。
 なお、『日本書記』における神武天皇即位年は、記紀の編纂者である奈良時代の学者たちが、支那古代で流行した「辛酉革命説」に則って、推古9年(601)を基点に1260年を遡って紀元前660年に仮定したとの学説が流布されているが、これもひとつの可能性に過ぎないのであって、論争が結着したわけではないのである。そもそも、記紀に特記されない限り、当時の即位年算定方法が分かろうはずもない。かかる学説はたしかに傾聴に値する有力な見解ではあるが、これをもって記紀の多くを創作と断定することや、紀元前660年は野蛮な縄文時代だとする一方的な理解は、まさに武断と言わざるを得ない。記紀や神話時代を論じることは、無論、想像力に依拠する部分は多いが、記紀や神話が人の手によって編まれたものである以上、それはすでに歴史的存在なのであり、弥生時代の開始を5世紀も遡らせようとする見解が提出される昨今において、記紀や神話の持つ歴史的意義を、より深く考究する姿勢こそが求められているのである。

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