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梅棹忠夫コミュの文明の生態史観 (5)

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古代文明が発達したのは、この6本の大河沿いです。農耕には大量の水と広大な平地が必要だからです。長江とガンジスではコメが、その他の大河ではムギが栽培されました。四大文明というと、コメが栽培された長江とガンジスを含みません。しかし、最近の考古学的調査で長江流域に古代文明が存在したことが確認されました。またガンジスについては、考古学的調査が進んでいない、あるいは出来ないというだけで、インダス文明に匹敵する文明が築き上げられたことは間違いないといってよいでしょう。

これらの大河文明は、成長し大きくなると、隣の大河文明と融合します。これを収斂と呼びます。黄河文明は長江文明と、インダス文明はガンジス文明と、ナイル文明はチグリス・ユーフラテス川のメソポタミア文明と融合します。ただ、強力な統治機構の存在なくして収斂は起きません。東アジアにおいては秦の始皇帝が、南アジアにおいてはインド・アーリア人が、西アジアにおいてはアッシリア人が収斂の政治的原動力となります。

以後、東アジアにはシナ文明、南アジアにはインド文明、西アジアには地中海文明が「発足」します。シナは「秦の国」という意味です。それぞれにおける中心地は、両大河の中間のややどちらか寄りになります。シナの中心地は長安の辺りで、黄河寄りです。インドの中心地はデリーの辺りで、ガンジス寄り、地中海文明の中心地はエルサレムの辺りで、ナイル寄りです。これは両方の大河文明を支配する必要性からくるものです。

融合の後は、支配者の交代と支配地域の拡大の歴史です。秦はすぐ倒れ、漢、唐、元、明、清、現代に至ります。元以前は、王朝が倒れると必ずシナは分裂しました。また、漢と明以外は、征服王朝です。アッシリア帝国の後は、ペルシャ人、マケドニア人(アレキサンドロス大王)、ローマ人、アラブ人、トルコ人と異民族の支配が続き、そのつど領域は拡大しました。インドでも幾度の王朝が交代し、多くは異民族による支配でした。現代では各文明とも目一杯拡張して、隣の文明と国境を接するようになりました。

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