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【その時歴史は動いた】コミュの忠臣蔵(2003/12/10放送)

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忠臣蔵・お裁き始末記〜忠義か、犯罪か?幕府をゆるがした50日〜

■ 「その時歴史が動いた」の要約 ■
 元禄15年12月14日深夜、江戸の吉良上野介の屋敷に赤穂浪士47人が討ち入り、上野介を討ち取った。その後、浅野家の菩提寺泉岳寺に向かって、浅野内匠頭の墓に討ち入りを遂げたことを伝えた。同じ頃、2人の浪士が大石に命じられ、幕府大目付の屋敷に出頭し、討ち入りの理由を示した口上書を提出した。その内容は、将軍綱吉に伝えられ、忠義と褒めたという。幕府では、浪士たちを拙速に断罪すべきでないという空気が流れていた。協議の結果、4つの大名家にお預けとし、結論を待つよう命じた。討ち入りは、瞬く間に江戸の町に広がった。一方、討ち入り直後から上野介の息子綱憲は、赤穂浪士を討つ準備を進めていたが、裁きは幕府が取り仕切るから手出しは無用と、幕府の使者に押しとどめられた。

 事の起こりは、元禄14年3月14日、殿中松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介に突然斬りかかった。浅野はすぐに取り押さえられ、吉良は軽傷だった。取調に浅野は恨みがあったと釈明したが、知らせを聞いた綱吉は激怒し、即刻内匠頭に切腹を申しつけた。綱吉は、原因を調べてから処分すべき
という声を聞き入れず、あくまで厳罰を臨んだ。同日、内匠頭切腹。一方、吉良にはお咎めはなく、手向かいしなかったことを綱吉は褒めた。この裁定は浅野家の家臣には理不尽なもので、吉良に内匠頭の恨みを買うような言動があれば、喧嘩両成敗で両家が罰せられるが、浅野は有罪、吉良は無罪。無罪となれ、仇討ちも認められなかった。

 赤穂藩の取りつぶしも決定する。大石は、幕府に嘆願書をしたため、吉良の処罰を要求し、聞き入れられなければ、行動を起こすことをほのめかす。しかし、吉良へのお咎めはなく、浅野家は断絶。主君の無念を晴らすには、吉良を討って喧嘩両成敗を果たすしかない。しかし、忠義の行ないと認められなければ、単に将軍の裁定に逆らって高官を殺害した犯罪となり、汚名を晴らすことは出来ない。討ち入りは、赤穂浪士の綱吉に対する命がけの異議申し立てだった。お預けとなった浪士たちは、固唾をのんで裁きを待っていた。


 討ち入りまでは苦難の連続。大石は血判状を作って浪士たちをまとめた。脱落する者も多く出たが、江戸へ下った浪士たちは町人や商人に姿を変えて、時間をかけて吉良の動向を探った。しかし、こうした行動を批判する意見が会議で現われる。最大の意見は徒党を組み、誓約をなすことを禁ずる武家諸法度に違反するので、処罰すべきと言うものだった。さらに、決行前の行動は、武士として扱うのはいかがなものかと、打ち首にすべきという意見も現われる。打ち首は武士にとって最も屈辱的な刑で、犯罪人として処刑される。忠義として認められないばかりか、主君の無念も晴れない。これは、大石らにとって耐え難いもの。

 一方の綱吉も、浪士たちをうかつに罪人として裁けなかった。当時、江戸の人々は綱吉の治世に不満を抱いていた。生類憐れみの令を実施して生類を憐れむ一方で、人間には厳しかった。全国の大名を厳しく監視し、法律に違反する大名家を次々取り潰し、江戸には食い扶持を無くし、不満を抱えた浪人達であふれかえっていた。そこに、討ち入りが起こり、不満のはけ口を求めた人々は喝采した。浪士への安易な裁きは、人々の将軍への怒りを買う恐れもあった。もし、大石らを罪人として裁けば、江戸は争乱になるかもしれない。

 判断に窮した綱吉は、儒学者林信篤に意見を求めた。林は真っ向から忠義を説いて、大石らを擁護した。儒学は、主君や親への忠孝を柱とし、幕府の法律の基盤となっていた。そこで、忠義を軽んずれば、幕府の存亡に関わると訴え
た。また、浪士たちを預かる大名家からも、助命の声が挙がった。綱吉は将軍就任に当たって、自ら武家諸法度第一条を修正し、主君や父祖に真心を尽くす忠孝を柱とした。綱吉は、赤穂浪士を罪人とすることにためらいを感じ始めて
いた。

 しかし、新進気鋭の学者荻生徂徠は、これに真っ向から反論し、仇討ちの名のもとに殺し合いが続き、世が争乱となるから、一刻も早く死罪とすべきと主張した。さらに、本懐を遂げた浪士はすぐに切腹すべきで、幕府に訴えたのは忠義の士として生き延びて、仕官先を得ようといるこそくな真似だという意見まで飛び出した。幕府の判断が揺れる中で、大石の元をお預け先の細川家の家臣の子どもが訪れた。武士の鑑たる浪士たちらどうしても会いたいという。大石と浪士たちは年を尋ねたり、お菓子を与えたりと楽しい時間を過ごした。


 年が明けても一向に決まらない裁定に、世間はいらだちの声を上げ始める。元禄16年1月下旬、幕府高官達の間で投票が行なわれたとある。『三島氏随筆』によると、将軍以下幕閣総勢60人余が、それぞれ思うところを書面に記して提出した。これが事実とした場合、極めて異例である。島流しにすべき、大名家に永久にお預けすべきという2通は、浪士を罰しはするが忠義を認め助命するものだった。しかし、残りの意見は特に意見を表わしていなかった。柳沢吉保は、白票を投じた理由で、将軍の意見に従うと答えている。結局、投票は綱吉に判断を委ねるという結果に終わる。最後に綱吉の切腹を申しつけるのがよいという意見が読み上げられる。切腹は、大石の臨む武士としての死を意味していた。しかし、綱吉は、浪士を切腹させることは義を重んじることにならないかと迷う。

 2月1日、日光輪王寺宮の公弁法親王が年賀の挨拶のため江戸城を訪れる。綱吉は、法親王に赤穂浪士を切腹させることをどう思うか尋ね、切腹させることは忠義を否定するどころか、浪士たちの忠節を全うさせてやる事という言葉
に綱吉は決断した。そして、4日に切腹という裁きが申し渡された。この時、使者が内密の話として、吉良上野介の跡取りが討ち入りの対応を咎められ、領地召し上げの上お預けとなったという待ち望んだ知らせも届けられた。その数時間後、赤穂浪士切腹。吉良上野介を討ち取ってからおよそ50日、赤穂浪士は見事宿願を果たして、世を去った。


 赤穂浪士の討ち入りから47年の後、文楽や歌舞伎になって爆発的人気となる。『仮名手本忠臣蔵』では、切腹の場面は、幕府に気兼ねしてか描かれていない。しかし、義に散った浪士を慕う民衆の思いは、その後も消えることはなった。

 東京港区高輪の中学校の敷地に、大石ら17人の浪士がお預けとなた熊本細川家の屋敷跡がある。塀で囲まれた一画は、浪士たちの切腹した庭をそのまま残したもの。浪士たちの切腹の後、庭を清めるための役人が遣わされた。その時、藩主細川綱利は、赤穂の勇士達は屋敷のよき守り神なので、清める必要はない。そのままにしておくようにと言ったという。

(melma!「日本史なんて怖くない」より引用http://www.melma.com/backnumber_10441_267371/)

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