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大谷専修学院コミュの学院葬

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先日学院葬に行ってきました。
行ってない方のために、憶えてる限りの事を書きたいと思います。(忘れないうちに;;;)

誰がどの言葉を言ったとかの記憶が曖昧なもので、間違ってたり、足りない所があったら、行った人訂正頼みます;;


岡崎別院に入ってすぐ右側にテントが並んでいて、来た方が記帳されていました。
大きなテントが幾つかあってパイプ椅子がたくさん並べられていました。
あちこちで久しぶりに会った同窓生や、知人と話す声が聞こえました。

参列者の人は、全部で200〜300人くらいだったと思います。
椅子をたくさん用意してあったのですが立っている方もいました。


勤行をして、その間に前のほうから順番にお焼香をしていきました。
竹中智秀大谷専修学院長を憶いて。ということで、いろいろな方が、お話をしてくださいました。

児玉先生は、竹中先生はとても優しくて、とても厳しい方だと言っておられました。
亡くなられる前の日に、お体大丈夫ですか?と児玉先生の体調を労っておられたそうです。

西田先生や、他の先生、在学生代表の方や竹中先生の奥さんもお話をしてくださいました。
が、あまりよく憶えていません;;m(__)m

竹中先生はお亡くなりになる前の日まで、院長講義の原稿を書いていたそうで、書きかけの原稿があったそうです。
竹中先生は私達の為のに、最後の最後まで、命がけで念仏相続に勤めくださったそうです。

後、竹中先生の先生からの手紙をその息子さんが読んで聞かせてくれた内容がとても印象的でした。

竹中先生は学院の第一期生で、信国先生や他の先生方と手探りで学院を作っていったと言う事、
最初は、即席で立てた学舎で、食器の買出しとか色々と大変だった事。
しばらくして就任した信国先生の家に毎晩話を聞きに集まった事、
その中で、先生のあり方は教師ではなく、指導として、他から講師の先生を招いて一緒に教えを学ぶ、呼応の教育やブラザーシステムを作っていったことや、なにか問題が起った生徒を竹中先生が親身になって相談に乗っていた事、
2月の一番寒い日に学院の歌を作ったことなど、昔の話を色々としてくださいました。

最後に弧野先生が、竹中先生は最後まで自坊の住職にはならずに学院に尽くして下さった。
学院に来たみんなが、竹中先生の門徒なのではないかと言っておられました。

当日は雨が少し降る予報でしたが、降らずに、テントの外にいた人は少し日差しが暑いくらいでした。



受付で記帳した時に渡された袋の中には、竹中智秀先生大谷専修学院葬厳修委員会の御挨拶と竹中先生の息子さんからの御挨拶とハンカチ、それと、「虚往実帰」(虚シク往キテ実チテ帰ル)(浄土論註巻上)と書かれた色紙が入っていました。
この言葉は、2006年3月、藤尾(鳥毛)麻奈美氏が学院退職する際に竹中先生より餞の言葉として贈られたもので、先生のお心をよくあらわすものとして学院葬のしるしとしたそうです。

式が終わって、皆さんそれぞれ帰っていきました。

コメント(3)

行ってきました。
学院の変わらぬたたずまいに泣けてきたね。ここ(別科)を出て14年、たたずまいは変わらへんけど、竹中先生がいてへんねやなぁ、としみじみ思った。

別院の山門のご遺影からは、「選ばず 嫌わず 見捨てず」という先生の声が聞こえてくるようやったね。 合掌。
私も参列させていただきました。
天気にも恵まれてよかったですね。
涙を浮かべすすり泣く方の姿にもらい泣きしました。
狐野先生の震える声がまだ耳に残ってます。

それにしても、偉大な先生の葬儀が
こんなにアットホームで、アナログで、
とても人間らしさを感じるものとなっていたこと、
学院のすばらしさがここにあると思いました。

落ち着いたら院長講義ノートを
もう一度振り返ってみようと思います。

南無阿弥陀仏。
同期が10数人、知り合いもその位、知ってる方はいっぱい、血族5人。
先生を縁として集まった中に、こんなにもつながりをみつけるとは…。

ずっと実感わかんかったけど、さすがに泣けてきた。

「たけるぅ」元気そうで何よりです。何か男前になってたな。会えてよかった。

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