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立正大淞南コミュの「岡崎功先生を偲んで」 新聞掲載

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かなり前ですが、新聞に掲載されていたので紹介します。

H18.4.26(水)山陰中央新報より

「岡崎功先生を偲んで」
〜戦後世相に強い危機感〜

〈潮 嘉文  元立正大学淞南高校校長〉

連日報道されるほとんど理解不可能な凶悪事件や不祥事を前にして、人は今、
呆然自失の態でいるに違いない。なぜ、どうしてこうなったのかと。
しかし、私が初めて公立高校の教壇に立ったのは昭和40年代の初めであったが、既にそのころから、今のさまざまな事態の予兆ははっきり現れていたのである。
ただ、私のようなものさえ、現場でその異様な風潮と孤立無援の過酷な戦いを強いられたくらいであったから、著名な評論家や知識人の中にも当時そういう危機意識を持った人はまれであったとしか言いようがない。
そんな中、若くより吉田松陰を愛し西郷南洲(隆盛)を心の師と仰いでこられた岡崎先生は、早くより戦後の世相に強い危機感と憂慮を持たれ、学園を創設されるや、徳育をモットーに不動の信念と理想をもって、営々40余年にわたって、
多くの青少年の育成に当たってこられた。

その性恬淡(てんたん)として豪放磊落(らいらく)、莞爾(かんじ)として一笑すれば自ずから人の心を溶かすがごとく、その気は剛毅果断、あらゆる毀誉褒貶(きよほうへん)にも動ずるところなく、ひとたび不条理な言動に遭えばいかなる著名人ともいえどもこれを許さず、かつての財界の大御所として権勢をふるったさる人さえ敢然一喝、大御所は謝罪したという話もあった。
そういう至誠の人であったからであろう、その人となりを愛する人すこぶる多く、その人脈の広さは私などには不思議でさえあった。学園の古いアルバムには、学校建築時の鍬(くわ)入れ式に、戦後の名宰相岸信介氏と荒木貞夫元文相の姿が見え、学園顧問にはかの日産自動車創業者鮎川義介氏をはじめ当時のそうそうたる人々の顔が写っていた。

私が奉職していたわずか十数年の間にも、幾多の政治家をはじめ著名な評論家や文学者、スポーツ選手に至るまで、さまざまな人の学校訪問があったが、先生と談笑されるその雰囲気には独特のものがあって、まさに「また楽しからずや」の風景があった。
親には感謝を、家族は大事に、友人には思いやりを、国や郷土には誇りと敬愛を、先生は実はごく当たり前のことを説いてこられたのだが、人々の耳にはなかなか届かなかった。 その挙げ句、今や狂気のような社会に直面することになって、ようやくにして各界の良識ある人々から、この国の土台から立て直さなければならないとい声が上がり始め、一般の人々も、何かがおかしいと感じ始めたように見える。

学園創設以来半世紀、至誠一貫、ひたすらに国と人のあるべき姿を訴え続けられた先生の生涯は、今ようやくにして人々の耳目に届き始めたように思われる。

「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人とは始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは大業は成し得られるぬなり」(南洲遺訓)とは先生の座右の銘であった。

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前淞南学園理事長岡崎功氏は3月20日死去、85歳。

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