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イスラム教コミュのイスラームへの誤解を超えて

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とても勉強になる本を読みました。
カリード・アブ・エル・ファドルという、クウェート出身の法学者が書いた本です。「イスラームへの誤解を超えて―世界の平和と融和のために」というタイトルです。


本来、善と慈愛と美をすすめる宗教であるイスラームが、なぜ、暴力と結びついた危険なイメージをもって語られてしまうのでしょうか?

一般のムスリムの多くは、無差別テロはイスラームの教義とは関係がなく、政治や経済的な問題に端を発していると言います。そして、大規模テロはアメリカやイスラエルやイギリスの諜報機関の陰謀であると言います。

この世に、国家の諜報機関が存在するのは事実であって、テロの動機や手段や経緯が不透明であるにもかかわらず、それがムスリムの犯行であると一方的に断定されているケースは確かにあると思います。しかし、それを理由に、無差別テロを正当化し、かつ、実際に行っているムスリムが少数ながら存在している現実から、目を逸らしていてもいいのでしょうか。

イスラーム初期の時代に発生した危険な過激派集団であるハワーリジュ派に酷似しているとも言われる現代のイスラーム過激派と、彼らの信奉する、寛容に欠け、暴力的・抑圧的で極端な教義がどこで誰によって生まれたのか、そして、それが、本来あるべきイスラームの教えと、どう違うのか・・・。ムスリムもノンムスリムも、意外にこういった思想面での根本的な問題を、知らされていません。報道は、なぜそれに触れることが出来ないのでしょうか?

この本の著者は、こう言っています。
「神は理性と善悪の区別を能力を人間に授けた。神は人間をこの世での神の代理人(現世の管理者)とし、世界を文明化する責任をゆだねた。文明化とは、神の属性である公正、慈悲、憐れみ、善、美などを、この世に広めることである。(ビルの建設や道路の舗装を意味しているわけではない。)暴力、憎悪、報復、醜悪さなどを広め、この世を堕落させ、破壊することは、冒涜行為である。
善行を勧め悪行を禁じるには、善と悪の性質、神性とその欠如について探求する必要がある。法は神性の探求に役立つものだが、神性をそのものをあらわすものとはいえない。法の究極的な目的は、善の実現である。」


法学の歴史を踏まえて、著者はイスラーム世界が抱えている多方面の問題について、考察を行っています。厳格主義と穏健主義の違い、アラビア半島のナジュドで始まったワッハーブ派の教義の分析とそれに対する法学的批判、タクフィール(背教宣告)思想の危険性、サラフィー(イスラーム復古主義)の変遷、「純粋なイスラーム」とは何か、そして本来あるべき法解釈のあり方とその歴史、イスラームにおける人権と民主主義の概念、女性の本質と役割など・・・、幅広い知識を持つムスリムの法学者である著者の現実的な視点や考え方を学ぶことは、他者との共存を考える現代のムスリムにとって、大きな収穫となると思います。


日本で暮らすムスリムは、「共存」について考えておられる方は多いと思います。この本の内容のすべてに同意する必要はないとしても、今まで持ちたくても持てなかった視点を持つきっかけには必ずなると思います。インシャーアッラー。
私は、図書館で借りて読みました。よい本に出会えたことを感謝しています。
ひとりでも多くの方に、ぜひ、読んで欲しい本です。

コメント(31)

ワアライクムッサラーム

コメントありがとうございます。
この本の内容を、素晴らしいと感じるか、受け入れがたいと感じるかは、人それぞれだと思います。

しかし、今まで語られてきたのとは違う切り口・視点であること、「共存」に関して非常に前向きである、という点で、多くのムスリムにとって有益な論説であると、私は思いました。

実際、この本が出版されて以来(日本語版が出る以前の話)、特に中東のムスリムたちから、よくぞ自分の思い----自分が信じ実践しているイスラームの教え----を代弁してくれたという感謝のメッセージが、ひっきりなしに著者のもとに届き、また、ノンムスリムからも、イスラームの内部分裂とその理由を理解できたという称賛の声が数多く寄せられたそうです。

この本を読んで私が感じたのは、未来に対する希望、です。こんな方の思想をもっと深く知りたい、と思いました。残念ながら、彼の著作で日本語で出ているものは、これ一冊のようです。今後に期待したいです。
اَسَّلاَمُ عَلَيْكُمْ

良書、サンクスです。
門外漢ですが、英語版買っちゃいました。日本語で読むよか10倍の時間が
かかるかもしれませんが読破してみまする。
10倍の時間で読破できるんですね。うらやましい限りです。

私なんて、日本語でも普通の人の3〜4倍はかかったかもしれません。(^^ヾ
決して、難解な本本では、ないのですけれども。
おそらく、ここに参加されている方々には聞かされたくない突っ込みだと思います。

「ワッハーブ派」という名称をはっきりと使用して、その教義に踏み込んで批判ができるイスラム法学者、なんてスンニ派にはまだ登場していません。

それはいろいろな事情がありますが、第一に、スンニ派一般信徒の間に「サラフ派(ワッハーブ派の自称)は、もっとも正しいスンニ派である」という素朴な認識が広がっていること、第2に、サウジが国教としているワッハーブ派批判をすることにより、オイルマネーによる制裁を受ける可能性があること、第3に、スンニ派としての結束を固めることを、対シーア派闘争において優先させ、あえてワッハーブ派批判を自粛するという傾向、などなどが指摘できます。

クウェート出身で、しかも、ワッハーブ派を名指しで批判できるイスラム法学者、証明はできませんが、シーア派の法学者でしょうね。

ということで、私はずっと、ワッハーブ派に対し、教義上の優位を認めたり、沈黙して暗黙の了解を与えるばかりのスンニ派一般に対し、失望と憤りを感じ続け、シーア派への改宗をずっと悩んできました。

しかし、今の私の選択は、それより茨を覚悟の上、スンニ派にとどまった上で、明確にワッハーブ派批判を論理的に展開することです。

今は、東地中海地方のムスリムの政治的闘争におけるワッハーブ派のアジェンダの有害さというロジックしか獲得していませんが、イスラム法学を修めた上で、イスラム法学の立場からも批判すること、が私の長期的な目標です。
>「ワッハーブ派」という名称をはっきりと使用して、その教義に踏み込んで批判ができるイスラム法学者、なんてスンニ派にはまだ登場していません。
>クウェート出身で、しかも、ワッハーブ派を名指しで批判できるイスラム法学者、証明はできませんが、シーア派の法学者でしょうね。


いえ、おそらく、スンニー派の法学者です。著者が本の中で自分はスンニーだと名乗っているわけではないんですけれども、全体としてスンニー派世界のことを書いていますし、批判に留まらず、将来有益となるであろう思想とクルアーン解釈のビジョンについても示してあります。
シーア派についても触れてはいますが、二箇所ぐらいだったかな?2〜3行で軽く述べてある程度で、ちょっと分けて話している、という感じでした。

イフワーンのことも書かれてあるんですけれども、サウジの東部州についての記述はなかったですし、ラッパを持っていたエジプトからの巡礼者が宗教警察に殴られた話があっても、サウジ国内でシーア派が弾圧されていることは書いていなかったです。シーア派の法学者がワッハーブ批判をするなら、この点について触れないはずがありません。

アブドゥさんがこの本のことをご存じないということは、やはり、アラビア語での出版は、今の時点では、無理なんでしょうね。ですから、中東から寄せられた賛辞は、おそらく、英語を読める知識層からのものであったんだと思います。
>イフワーンのことも書かれてあるんですけれども、サウジの東部州についての記述はなかったですし、ラッパを持っていたエジプトからの巡礼者が宗教警察に殴られた話があっても、サウジ国内でシーア派が弾圧されていることは書いていなかったです。シーア派の法学者がワッハーブ批判をするなら、この点について触れないはずがありません。

そのとおりです。おそらくスンニ派法学者でしょうね。同意し、訂正します。

>アブドゥさんがこの本のことをご存じないということは、やはり、アラビア語での出版は、今の時点では、無理なんでしょうね。ですから、中東から寄せられた賛辞は、おそらく、英語を読める知識層からのものであったんだと思います。

いいぇ、私が今アラビア語で接しているのはアル・ジャジーラ放送だけというお寒い現実です。

ちょっとアラビア語表記が怪しいのですが、なんとか復元して、アラビア語文献として探してみます。

私が興味があるのは、いったい彼が何者で、どこからの支援を受けてこのような勇気ある著作を書けたのか?という一点です。

少なくとも、彼はもうクウェートには住めないでしょうね。

今の彼がどこに住んでいるか興味があります。おそらく欧米ではないかと思いますが。でなければ、イランしかあり得ませんね。

ちなみに、クウェートはワッハーブ派そのものではないにせよ、サラフ派を名乗るスンニ派原理主義勢力が有力な政治政党の国で、去年国会は大荒れになったのですが、それは真偽は知りませんが、シーア派クウェート国民がイランから招聘したシーア派法学者が過去に正統カリフを中傷したことのある人物で、この招聘に許可を与えた首相の問責決議が、スンニ派原理主義政党によって可決され、総選挙になった記憶があります。その後はガザ虐殺報道でフォローされませんでしたが。クウェートのスンニ派はそれくらい、反シーア派で、親ワッハーブ派です。

ちなみに、アラビア語の新聞はすべてサウジのオイルマネーにより支配され、サウジの騒乱や人権問題程度の記事ならなんとか書けますが、ワッハーブ派批判や民主化運動やシーア派問題についてはほとんど書くことは禁止されています。

唯一、このサウジによるオイルマネーの検閲から自由なのが「アル・クドゥス・アル・アラビー」紙です。これは、編集者のパレスチナ人が、独自の資金ルートを確保したから可能となった離れ業です。

ちなみに、アル・ジャジーラ放送はサウジに対抗するカタルの王族の資金で運営されているので、サウジ批判は、完全なタブーではありませんが、カタル自身が、かつてはワッハーブ派を国教としていた制約があり、ワッハーブ派批判は無理です。

そして、アル・アラビーヤ放送は、そのカタルによるサウジ批判を封じ込めるためにサウジの王族が設立したアラビア語ニュース放送で、目的はサウジ擁護です。

イランが、アラビア語ニュース放送を報じていますが、あまりニュース放送としての評価は高くないですね。

ということで、このハーリド氏の調査は宿題ということで。
本の著者紹介の欄には、、

カリード・アブ・エル・ファドル
Khaled Abou El Fadl
1963年クウェートに生まれる。現代を代表する有力なイスラーム思想家の一人。イスラーム法研究者でありジャーナリスト。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のロースクール(法学校)教授で、イスラーム法のほか、移民法、人権法、国際および国際安全保障法などを教えている・・・・(中略)・・・テレビやラジオにも多数出演・・・・・(後略)

って、書いてありました。

ご自分では、こう書いておられます。
「人生の大半をイスラームの法と神学の研究に捧げてきた私は、その時々で活動家としても研究者としても双方の(穏健派と厳格派の)立場を経験している。・・・・(中略)・・・人道主義的な面がなければ真のイスラームとは言えない、つまり、イスラームは思いやり、慈悲、愛、そして美の教えであり、こういった価値観が信仰の中心だと私は確信したのである。といっても、イスラーム法学者、世俗の研究者、そして弁護士としての経験から、私は自分が同意できない立場や見解をも代弁するすべを見につけている。たとえ一方のグループに同意できず、道徳的な反感を抱いているとしても、私は双方を公平に評価するつもりである。」

あとは・・・ブッシュ前大統領から、世界宗教自由委員会の委員に任命されていますね。(その時は、見ず知らずの人から、否定的なメッセージが寄せられたそうです。「ムスリムが世界の宗教の自由と寛容のためにどんな貢献ができるというのか」と。)

もともと、アメリカで出版された本みたいだし、「この本はアメリカの陰謀だ、著者は裏切り者だ」って、一部のムスリムからは、中傷されるかもしれないです。でも、ムスリム側にも言論を抑圧したり煽ったりする動きはすごくたくさんあることを認識して、そういう部分を差し引きしつつ、冷静に読む必要があると、私は思います。

私は、読んでておもしろかったです。学者にありがちな閉鎖的で近視眼的な論理に陥ってもいないし、神学論の迷宮にも迷い込んではいないし、現実的で、豊かで、知識の深さも感じましたし。

YouTubeに彼のレクチャーがあったので貼っておきます。
Burke Lecture: The Challenge of Islamophobia

YouTubeが開けて、英語得意な方、いらっしゃましたら、感想聞かせてください。
あせあせ
あ〜、わかりました、この人。うちに三冊ほどの著作と、いくつかの論文(エッセーというべきか・・・)のコピー(全部英語)がありました。

kawtharさんには失礼な言い方かもしれませんが、この方のおっしゃっていることは、完全にむちゃくちゃです(あまりにむちゃくちゃなので、本棚の隅の方にうっちゃってありました)。彼の著書Speaking in God's NameやRebellion and Violence in Islamic Lawを読む限り、彼の主張は、過去のイスラム法と今のイスラム法は全く異なるのであり、我々は今のイスラム法を創造的に構築するcreatively construct必要がある、というもの。このあたりで既にヤバい感じがしました。

そして彼の著書The Place of Tolerance in Islamになると、今度は彼は過去のイスラム法をねつ造しはじめます。例えば、「ジハードという概念に聖戦の含意は全くない。コーランにもイスラム法の著作にも、聖戦なんて表現は一切無いし、そもそもイスラム法において戦争は決して聖なるものたりえないし、全く正当化されえない」云々。

ほんのちょっとでもイスラム法や歴史の古典を読めば、こんなのウソだってことがすぐわかりますが、彼はウソだってわかっているのにこういうことを書いているわけです。

ジズヤ(異教徒に課す人頭税)についても、「ジズヤは法的根拠のあるものではなく、特殊な歴史的状況下に暫定的な解決策として徴収されたにすぎない」とか、書いていますが、これもウソっぱちです。

この人は完全に御用学者であり、アメリカの政権にとって都合のいいイスラム論を唱えているだけの人です。イスラムの歴史や伝統を受け止めた上で、新たな解釈をうちたてるのではなく、歴史と伝統を隠蔽しねつ造する人が、真の意味でイスラムの改革者たりえるとは私はとても思えません。「あんたの言ってること、ウソじゃん」と、反証をあげるのは笑えるくらい簡単なことです。

この手の護教論(?)は、W. C. スミスの言を借りるなら、西洋風の暮らしをしつつイスラムを棄教するのもはばかられるというムスリムの良心を慰める役割を果たしてきましたが、「この種の著述のもつ護教的性格こそ、現代イスラムに対する西洋の正しい評価をもっとも効果的に失敗に終わらせ、さらにもっと深刻なことには、ムスリムが現代の宗教的難問と真剣に取り組む道をもっとも効果的に妨げているのである」。
>この人は完全に御用学者であり、アメリカの政権にとって都合のいいイスラム論を唱えているだけの人です。イスラムの歴史や伝統を受け止めた上で、新たな解釈をうちたてるのではなく、歴史と伝統を隠蔽しねつ造する人が、真の意味でイスラムの改革者たりえるとは私はとても思えません。「あんたの言ってること、ウソじゃん」と、反証をあげるのは笑えるくらい簡単なことです。

はあ、本の画像とか、ハーリドさんなのにカーレドさんと表記されていたりとか、あやしなーと思ってはいたのですが、やっぱり飛んでも本なんですね。

>9

>そして彼の著書The Place of Tolerance in Islamになると、今度は彼は過去のイスラム法をねつ造しはじめます。例えば、「ジハードという概念に聖戦の含意は全くない。コーランにもイスラム法の著作にも、聖戦なんて表現は一切無いし、そもそもイスラム法において戦争は決して聖なるものたりえないし、全く正当化されえない」云々。

「イスラームへの誤解を超えて」には、そこまで極端なことは、書いていなかったですよ。
本来「ジハード」という言葉は「聖戦」そのものを意味するのではないというのは、日本のイスラーム団体などが出している書籍にも書いてあることです。本来の意味は「奮闘努力」です。そして、著者はこの本の中で「不正な支配者に武力で抵抗することはジハードだ」とはっきり述べています。

以前の著作がいつごろのものなのか、というのも気になります。ジハードに関して、ノーラさんの書いてくださったような内容しか述べられなかった時期だったのではないでしょうか。上に私が抜書きしたところ、ちょっと語を飛ばして書いてしまっていたのですが、「人生の大半をイスラームの法と神学の研究に捧げてきた私は、その時々で活動家としても研究者としてもその時々で考え方を変えた・・・」と、彼は書いています。
彼のこういう姿勢に、現代のイスラーム法学者の自分の立ち位置に関する労苦を読み取ることはできないでしょうか。語りたいことを存分に語れる環境は、今の世界にはおそらくないのだと思います。

だからトピ立ての際、私は「この本の内容のすべてに同意する必要はないとしても、今まで持ちたくても持てなかった視点を持つきっかけには必ずなると思います。」と書きました。



>この人は完全に御用学者であり、アメリカの政権にとって都合のいいイスラム論を唱えているだけの人です。イスラムの歴史や伝統を受け止めた上で、新たな解釈をうちたてるのではなく、歴史と伝統を隠蔽しねつ造する人が、真の意味でイスラムの改革者たりえるとは私はとても思えません。「あんたの言ってること、ウソじゃん」と、反証をあげるのは笑えるくらい簡単なことです。

アメリカの意向が働いていることは、私も感じましたし、この本の序文を読めば、誰もがそれを見抜くと思いますよ。笑
しかし、この本を笑って反証し、ムスリムたちがサウジの言論抑圧のもとで書かれた書物だけを読み続けていても、同じように、真のイスラムを取り戻すことはできないと思います。

情報に、発信者の主観が含まれるのは当然のことです。読み手は自分の中で咀嚼しなおしがら、理解する姿勢が必要だと思います。情報の益の部分を汲み取る識別能力を培うために、自分の視野を広げることを怠っていたら、一方的な情報に洗脳されてしまいます。0か100かの見方しかできないようでは、いけないと私は思っています。

そういう意味で、この本はとても有益だと思うんです。一読の価値はあります。
イブン・ハキームさん

>私が読む前に内容紹介をして下さりまことに有難うございます。

すみません、私は同書を読んでいません。著者の書いた別の本数冊を読んだことがあるので、それらについての所感を述べただけです。妙なおせっかいでしたね・・・。本当にごめんなさい。

>W. C. スミスなる人物の『現代イスラムの歴史(上下)』(中公文庫)はどのように評価されますか。

私は同書から多くを学びましたし、1950年代までの近代イスラムの歴史について非ムスリムの研究者が書いたものの中では、同書を超えるものはないと思っています。後半部は、まだパキスタンという国家の今後に対する希望があったり、トルコが純粋に世俗化に成功した国家として描かれていたり、今読むと古すぎる感じがしますが、前半部は秀逸です。あくまで私見ですが。
fussyvetさん

>これはウソなんですか?つまり、コーランには聖戦という表現があるのですか?そして、それは正当化されうるものなのですか?

確かめたければご自身でコーランをお読みになることをおすすめします。

一点申し上げたいのは、コーランは(神の)コトバであり、コトバを理解するということは解釈することだ、ということです。コーランからは、自爆や聖戦は絶対に認められないという解釈を引き出すことも、それらは神意にもとづく合法的行為であるという解釈を引き出すことも、同様に可能です。

全ムスリムが認める典拠から、(概ね)全ムスリムが認める方法論に則り、互いに正反対の二つの結論を導きだすことが可能である、というのがイスラム法の特徴です。歴史的にもこのような論争は多々ありました。
アブドゥさん

>やっぱり飛んでも本なんですね。

くどいようですが、私はこの本、読んでません(笑)。
kawtharさん

>本来「ジハード」という言葉は「聖戦」そのものを意味するのではないというのは、日本のイスラーム団体などが出している書籍にも書いてあることです。

原義はそうですね。ただそれがイスラム以後どのような意味でイスラム思想中に位置づけられ、論じられてきたかは、別の問題です。イスラム思想上、ジハードはたしかに武力をともなう戦争(いわゆる小ジハード)の意味で論じられてきました。大ジハードのほうが大切だ、と主張するのは、それこそ今のご時世にあっては大切なことだと思いますが、小ジハードの歴史的存在を抹殺し、隠蔽しようとしても無理です。どんだけ大量の書物を焚書に付しても、抹殺しきれるものではありません。

>「その時々で考え方を変えた・・・」

彼に限らず、私もそうですし、人間誰でも考えは変わるでしょうが、自分の気分で歴史は変えられません。歴史という言い方がおこがましければ、たくさんの本に書き記されてきたことを、私たちが気分で変えることはできません。コーランもハディースも、もちろん、それらの一言一句を変えることなど到底出来ません。私たちは、それらに対する私たちの解釈を変えることができるだけです。

>「今まで持ちたくても持てなかった視点を持つきっかけには必ずなると思います。」

これに対する私の考えを、スミスの言を引用することによって代弁してもらいました。

私は、コーランには異教徒を殺せとかぶっそうな文句がたくさんある、だからイスラムは野蛮な宗教だ、と言いたい訳では全然ありませんよ。私はファトワー研究もやっていますが、ムスリムと異教徒の間で問題がおこると、「ぶっころせ〜!」と主張する学者もいれば、「なにいってるんだ、そんなことして殺戮や内乱が発生して多数の人命が失われたら元も子もない、現状を平安に保つことに全力を傾けようじゃないか」と主張する学者もいます。論拠や解釈論を共有する同じ法学派に属す学者たちが、これだけ真逆の結論にいたるのが、イスラム法の適用の歴史です。

歴史をねつ造したり隠蔽したりしなくても、イスラムという宗教からいわゆる共存思想を導きだすことはできます。なのにこの人のように、ウソをならべつらね、それに喜んでとびつく人が多いからこそ、イスラムはかえって外部者に不信がられ、内部者の思考は停止させられ、事態の進展は妨げられているのだと思います。

私は異教徒ですが、それなのにこういう人の見解を読んでいると、イスラムという宗教の超越性を冒涜しているように感じてしまいます。自身がアラブ・ムスリムであるという事実に立脚し、イスラムが誤解されているという「構造」から私益を得るために、その構造を死守すべく、イスラムへの誤解を増長させようとわけのわからない活動を展開している人にしか見えません。
ノーラさん

彼の以前の著作が、この本以上に偏ったものであったことは、わかりました。
これは、私が知りたかったことでもあったので、情報提供に関してお礼を申し上げたいです。

でも、この本は、未だ穏健思想に大きく偏っている部分があるとは言っても、ノーラさんがおっしゃるほど、ひどくはないと思うんです。

中世にあった対立構造に関する言及もあります。そういった歴史があったことを認めた上で、彼は、ムスリムか非ムスリムかで世界を二分する考え方を否定しています。

ノーラさんの指摘するような以前の著作に対する批判を受けて、書かれている感じもするんですね。

これは私の想像ですが、彼がもともとアメリカに住み、クウェートに帰国できない立場の法学者だったとして、その後9.11に続く対テロ戦争が始まったのなら、ジハード・奮闘努力という言葉に圧制に対する抵抗としての戦闘が含まれることを、彼は意図的に無視せざるを得なかったのかもしれません。

穏健派で、ワッハーブ派に批判的な法学者の立場は、政治的にも「びみょー」ですよね。圧力に負けて、学者としての信頼を損ねるような本を出していたのなら、それは、彼にとって致命的なことだったと思います。しかし、ほかに生きる道もなかっただろうとも、思うんです。

ちょっと、擁護しすぎかなぁ・・・。
でも、批判だけに偏るのも、やっぱ、ちょっと違うんじゃないかと思えて。


本の序文に書いてあったのですが、最近、彼を「隠れイスラーム主義者」として非難する論文が発表されたそうです。穏健派の仮面をかぶった過激派だと言いたいかのような内容だったそうです。この非難は、彼の姿勢の転換を受けて発表されたものなのかもしれない、と私は思います。

それでも尚、穏健派としての偏りを感じる箇所は、正直、なくもないです。
ワッハーブ派批判にしても、シーア派に対する弾圧を意図的に無視しているところとか、気になる点もたくさんあるし。

そういうことをいろいろ感じつつも、「おもしろい」と、私は思ったんです。
特に、厳格主義と真っ向から対立する解釈の部分については、その根拠についてはすごく興味があります。


>論拠や解釈論を共有する同じ法学派に属す学者たちが、これだけ真逆の結論にいたるのが、イスラム法の適用の歴史

これ、「そうそう、私もそう思う」です。
でも、私は、軽いのかもしれないですけど、「それでいいじゃない?」って思うんですよね。人間の社会とか個人の人生も、複雑なものなんだから、画一化された判断に従ってもひずみが起こると思うし。預言者様(saw)も、信徒ひとりひとり、また、状況によって、いろいろなことを語られていたんじゃないかと、感じるし。

もっと極端な言い方をすると、例えば、自分が誘拐犯に捕まって監禁されたとする。その時の対処法はさまざまで、?スキを見て脱出する ?誘拐犯を倒して脱出する ?助けを信じてひたすら待つ ?誘拐犯に善悪を質して改心させる ・・・私的にはどれも「あり」なんですよ。自分の力量と相手の性質によって、対処方法が変わるのは当然のことじゃないかと思うんです。
イスラーム法にそういう選択の柔軟さが含まれているかどうかというのは、法学者の判断するところなわけですが、どの指導者に従うかというのはスンニー派の場合は自分の選択なわけだし、従うべき指導者がいな場合は、自分で考えなくちゃ仕方がないわけですよね。そんな風に私は思っているんです。


この本に関して、歴史認識などで明らかに間違いがあるなど、そういった事実があれば、また、教えて欲しいです。私的にも、ちょっと首をかしげる部分が、あるんですが、自分の知識でははっきりとそれを検証できないので。

この本についてちょっと私は褒めすぎていると自分でも思うので、もう一度書いておきたいんですが、彼の考えに私は、100%賛成というわけではないです。でも、こういう考え方をするムスリムが一人もいなかったらと思うと、そっちの方がこわいんです、私的には。だから、ひとりでも多くの人に、この本を読んで欲しいな、と思ったんです。
もう一度、ぱらぱらっとですが、読み返してみました。
私が一番興味を持ったのは、法学界の空白がどのようにできたか、という歴史的経緯です。
もう少し、踏み込んで内容を紹介してみますね。長くなってしまいそうですが・・・。

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植民地時代以前の、とくに9世紀から18世紀までは、法学者がイスラームにおいて宗教的権威の中心的な役割を担っていた。伝統的に法学派によって見解が異なり、つねに論争や対立が起きていたものの、法学者集団がイスラーム解釈上の権限を握り、何が正統で法にかなっているかを共同で判断していた。法体系が構築される際に法学者が依拠する法源は四つでクルアーン、スンナ、類推、法学者の合意、である。各々の正確な意味や適用については度重なる議論と意見の対立があった。理性も法判断のよりどころだと考える法学者は、シーア派に多い。
18世紀に西欧諸国が植民地主義を導入するとともに、オスマン帝国をはじめとするイスラーム陣営の軍事的敗北によって、イスラームの宗教的権威を構成する複雑なシステム全体が、崩壊し始める。1950年代から60年代にかけては、統治者のほとんどが西洋教育を受け、世俗的なナショナリズムの影響を受けていた。これがイスラームの法制度に対する壊滅的な打撃をもたらすこととなった。法学者の教育機関は国営化され、学校のカリキュラムは知的指導者を輩出しにくい教育内容に変更され、教授陣の任免権を国が握るようになった。・・・・・このようにして、イスラーム世界に宗教的権威の空白状態が生まれた。
19世紀から20世紀の初頭にかけて、シャリーアの権威が失われつつあることに気付いた法学者の中に自由主義的なプログラムに従ってシャリーアを改革し、最悪の事態を食い止めようとする者が大勢あらわれた。タフターウィー、ラシード・リダー、アブドゥ、カワーキビー、アフガーニー、アリー・ジャラール・サヌアーニー、シャウカーニー、マラーギー、イクバールなど。こういった法学者たちは、イスラーム法を解釈し直し、女性の権利、公民権や人権、民主政治、経済的公平といった現代の困難な問題にも対応できるものにしようと考えたが、穏健派のこのリベラルな改革は、当時の政治情勢によって、おざなりにされ、重要なものとはみなされなかった。

宗教的権威の空白を埋めたのは厳格主義を代表するサラフィー主義とワッハーブ運動であった。
1970年代には、エジプト、パキスタン、インドネシア、スーダンetc.といった国々の政府は、さまざまなイスラーム勢力を支援した。これは、マルクス主義と左翼組織を抑える目的があったが、ムスリムに対してシャリーアという旗印のもとに結集を促す厳格主義グループを政府が支持する姿勢を示せば、自らの権力地盤を強化できるという思惑もあった。しかしまもなく、厳格主義勢力は、世俗政権の安定にとって重大な脅威となる。1979年のイラン革命、1981年に起こったエジプトのサダト大統領暗殺事件などがそれである。1980年代初めには、厳格主義グループに対する厳しい弾圧が始まったが、これは、かえって厳格主義勢力を尖鋭化させる結果となる。

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・・・・と言う感じです。ワッハーブ運動に関しては、著者はほとんど批判しかしていません。ワッハーブ派に従わない法学者を虐殺したことや、教友の墓所を破壊したこと(このことは、当時の世界中のムスリムの心を深く傷つけ、各地で激しい論争を引き起こした)、サラフィーの祖であるイブン・タイミーヤさえも禁止していたタクフィール(背教宣告)をワッハーブ派以外のあらゆるムスリムに対して行い、殺害したこと、などです。サウード家との関係、イギリスの支援を得てアラビア半島で勢力を伸ばし、石油の発見によって資金を得たこと(その石油がサウジのシーア派の居住地である東部州で発見されたことについては本文では言及がない)、その資金を使って、イスラーム世界の勢力や団体や個人がワッハーブ派の神学理論を支持するよう圧力をかけていること、20世紀にワッハーブ派批判をした法学者がいたが、サウジからの圧力により著作の発表が不可能になったこと、などです。

テロリズムに関しては、「ウサーマ・ビン・ラーディンはワッハーブ派の環境で育ったとはいえ、厳密にはワッハーブ派とは違う。ワッハーブ派は、権力志向は強いが、主に他のムスリムに対して権力を行使する。それに対して、武闘派の厳格主義グループは、ムスリムにも非ムスリムにも権力を行使しようとする点で、異なっている。」・・・という風に、分析しています。

本の前半で宗教的権威の空白の経緯と厳格主義批判を展開し、中盤であらゆるムスリムにとって共通していることを説明し、後半で穏健派としての自分の思想を述べている構成です。自分の主観が入っている、という前置き的な記述もあるので、あくまでも一意見として読むべきなのでしょう。それ以外の穏健派の考え方(ハッド刑に対する判断)も、数通り紹介してあるので、その部分のほうが、知識としては価値があるのかもしれません。

女性の問題に関しては、サウジアラビアの女性差別や生命の重さを無視した人権侵害について実際に起きた事件の例を挙げ(2002年の公立学校での火災事件。校舎から逃げてきた女生徒がニカーブ・アバーヤを着用していなかったという理由で、ムタワ(勧善懲悪委員会)が女生徒の避難を阻止、消防隊が彼女らを救出することも妨げた。出入り口には錠までかけ、外に出たければ校舎に戻ってヴェールを取って来いと指導。取りに戻った少女は焼死した。)、厳しく批判しています。

こんなところです。これらをどう読むかは、読む方の立場や持っている信念によって、さまざまだと思います。サラフィー・ワッハーブ派支持の方からは、当然、糾弾される部分が多いでしょうね。
また、本文に、学校の講義でもパレスチナ問題は取り上げていない、と書いてありますし、アメリカ政府寄りの法学者であることは、ノーラさんのご指摘の通りだと思います。サウジアラビアという国家とワッハーブ派を批判する学者は、こういう形でしか存在し得ないということか、と、思いました。
>2002年の公立学校での火災事件。校舎から逃げてきた女生徒がニカーブ・アバーヤを着用していなかったという理由で、ムタワ(勧善懲悪委員会)が女生徒の避難を阻止、消防隊が彼女らを救出することも妨げた。出入り口には錠までかけ、外に出たければ校舎に戻ってヴェールを取って来いと指導。取りに戻った少女は焼死した。

確か、2003年だったような気もしますが、サウジ好きな人のトピに記事を掲載しましたのでご参照ください。

で、補足です。

この火災の犠牲者のほとんどが、この錠のかかった出入り口で、窒息死した学生さんたちでした。

確か数十人が、この宗教警察によって見殺しにされたはずです。

布切れを取りに戻って命を失った犠牲者の話は、初めて聞きました。勉強になります。

だって、布切れつけずに公共の場所を歩けば、逮捕されて、前科ものになるのが「イスラーム」ですから、逮捕が怖くて、炎の燃え盛る校舎に布切れを取りに戻ったんでしょうね。

マーシャーアッラー!

ひげひげのおじさんたちは、きっと「彼女らは、その立派な善行により殉教者として天国に召され、永遠の童貞の美少年によって慰められるだろう」と解説して満足するんでしょうね。

それが、「純正なイスラーム」らしいですよ。
>確か、2003年だったような気もします

検索かけて、複数のソースで確認してみましたが、2002年の3月の事件のようです。場所はマッカの第三十一女子高等学校。

あと、亡くなった女学生は少なくとも14人で負傷者が数十人と書いてあるところが多かったのですが、死者が数十人という情報もあるのでしょうか?

こちらのサイト(http://cyborg.relove.org/thought/saudiarabia.html)に、サウジの宗教警察は「一部『ボランティア』により運営されているようで」と書いてあったのですが、これは事実ですか?ボランティアで殴られたのではたまらないです・・・。統制が取れていない組織なのなら、暴走するのもうなずけますね。

本の著者は、人命保護が何よりも最優先されるべきであったこと、また、ムタワがヒジャーブの着用にこだわったとしても、その場から男性を立ち退かせれば少女たちは男性の目にさらされずに避難することができたし、男性が自分の被り物を外して少女たちにかぶせてやることもできたはずだ、と指摘しています。
当たり前すぎる話ですが・・・・。

サウジの新聞各紙でもこの火災事件は報道され、アブドゥッラー皇太子は、「政府が責任者を調査し処罰する」と発表しましたが、この件で告発されたり免職になった者は今のところ誰もいないそうです。

この事件には、ワッハーブ派の教義以上にサウジの体質・性質が顕著に現れているんでしょうね。
>サウジの宗教警察は「一部『ボランティア』により運営されているようで」と書いてあったのですが、これは事実ですか?

さすが、シスター、知的強度が高いです。

この問題に着目されましたか。

これは、「ムタワ」という通称をめぐる大きな問題です。制度の問題であり、アラビア語の問題です。

まず、いわゆるサウジの「宗教警察」の組織名は、「hai"at al amr bi l ma3ruf w nnahiy 3an l munkar」 直訳すれば、「善を命じ、悪を禁じる組織」で、「勧善懲悪委員会」として日本語で定着しています。

しかし、このメンバーのことは、通称「ムタワ」と呼ばれます。

アラビア語では、

「muTTawwa3」

これは、「T w 3」という「従う」という動詞の第2形の受動分子です。

この動詞の第5形はよく使用される動詞で、「ボランティアをする」で、能動分子のmutaTTawwi3で、「ボランティア」です。

「T w 3」の語根の動詞でもっとも使用されるのは、第4形で、第1形と同様に「従う」という意味です。

で、問題の第2形は、文法上は想定されるものの、動詞としては辞書に収録されませんし、言語としても使用されまん。

で、この「ムタワ」を言語学的に解釈すると、

「ボランティアに志願された者」

いや、ボランティアって自発的なのに、なんで受動態なん?って突っ込みたくなります。

一方、3年間、この言葉の意味に疑問を持ち続けて、もうひとつの解釈にも出会いました。

まあ、第4形(および第1形)で、「従う」なんですが、これを単純に第2形にすると、他動詞の「A(誰か)を、B(何か)に、従わせる」という意味になります。

で、ここで、第4形でよく宗教的に使用されるのが、「主の命令に従う」という用法。

だから、第2形は、「人間を、主の命令に従わせる」という用法が想定される。

で、「自らを、主の命令に従わせた者」という受動分子が、

「muTTawwa3」

なんだよ、という解釈も聞きました。

どっちが正しいのか、きっとどっちの意味もあるんでしょうね。

で、最大の制度的・社会的な問題は、ですね、

あのひげひげ伸ばし放題で、すその短いベドウィン服をきて、黒いワッカを着用せず(根拠をしりませんが、ハラームらしいです)に、あの赤い頭巾を頭に載せているドレス・コードのワッハーブ派信者は、すべからく、その外見上の特徴から推測される、あの暴力的で教条的で排他的な信仰のあり方も含めて、「ムタワ」と呼ばれるのですよ。

だから、自分で選択した「ムタワ」なのか、勧善懲悪委員会の職員としての「ムタワ」なのか、そもそも区別することが、言語的にも、社会的にも不可能なんです。

だれでも、上記のドレスコードを獲得すれば、明日から「ムタワ」になって、他人に「イスラーム」を暴力で強制できる権利が、社会的に認められるんです。

ま、ここまで日本語で語られるのって、少なくともネットでは初めてでしょうね。

では、シスター、続きをかんばって探してください。
僕は、様々な哲学、宗教にも興味があります。

イスラムの勉強になりそうな本の情報提供、

有難うございました。
>アブドゥさん

知的強度って言われて、思わず牛乳瓶のメガネを想像してしまいました。笑

自分は、人間のちょっとおバカなところが、けっこう好きだったりします。
むしろ、愛すべきおバカに可能性を感じるんです。

かつて“天才”と呼ばれた人々も、例外なくおバカなことをしていますしね。秀才にはけして越えられない壁がありますが、おバカな人々はいとも軽々と力強く進んで行くのです。花も嵐も踏み越えて。

パソコンは理知的でお利口さんですが、矛盾だらけの人間は、それを超越しますしね。

バカって、素敵ぴかぴか(新しい)

自分は、そういうところに、「人間の本質」を感じたりするのです。そして、人間が犯す罪をある程度許容している(と、私には思われる)イスラームの教えが好きです。

ムタワのおじさんたちには、怒られてしまいそうですが。(^^ゞ


>ナ−ラダ−スヒッキ−さん

コメントありがとうございます。イスラムにはいろいろな思想があります。ミラーボールさながらです。私も、いろんな本を読んで、いろんなことを知ろうと思っています。考えていると、楽しみでするんるん

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