kawtharさんには失礼な言い方かもしれませんが、この方のおっしゃっていることは、完全にむちゃくちゃです(あまりにむちゃくちゃなので、本棚の隅の方にうっちゃってありました)。彼の著書Speaking in God's NameやRebellion and Violence in Islamic Lawを読む限り、彼の主張は、過去のイスラム法と今のイスラム法は全く異なるのであり、我々は今のイスラム法を創造的に構築するcreatively construct必要がある、というもの。このあたりで既にヤバい感じがしました。
そして彼の著書The Place of Tolerance in Islamになると、今度は彼は過去のイスラム法をねつ造しはじめます。例えば、「ジハードという概念に聖戦の含意は全くない。コーランにもイスラム法の著作にも、聖戦なんて表現は一切無いし、そもそもイスラム法において戦争は決して聖なるものたりえないし、全く正当化されえない」云々。
この手の護教論(?)は、W. C. スミスの言を借りるなら、西洋風の暮らしをしつつイスラムを棄教するのもはばかられるというムスリムの良心を慰める役割を果たしてきましたが、「この種の著述のもつ護教的性格こそ、現代イスラムに対する西洋の正しい評価をもっとも効果的に失敗に終わらせ、さらにもっと深刻なことには、ムスリムが現代の宗教的難問と真剣に取り組む道をもっとも効果的に妨げているのである」。
>そして彼の著書The Place of Tolerance in Islamになると、今度は彼は過去のイスラム法をねつ造しはじめます。例えば、「ジハードという概念に聖戦の含意は全くない。コーランにもイスラム法の著作にも、聖戦なんて表現は一切無いし、そもそもイスラム法において戦争は決して聖なるものたりえないし、全く正当化されえない」云々。