ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

Professor Longhairコミュのフェス物語 (第6話)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
プロフェッサー・ロングヘア物語 [第6話]

 ほとんど61歳が近かったけれど、それまでにバードは彼自身の複雑な音楽に何か特別な価値があるといった意識をしてレコーディングをしたことは無かった。旧いヒット曲は 今尚宝石を散りばめたような輝きを持ったブルーズである。しかし、彼の音楽キャリアの進展にも関わらず、現在リリースされているLPは彼の音楽を公正に取り扱っていると言えない。1977年アリソン・カスロウがマネージメントを引き継いだとき、彼女はレコード会社を探し始めた。ライターのアルバート・ゴールドマンによってプロデュースされたライヴ録音は、1978年のマルディグラの間に作られた。ロングヘアーには予め十分な金銭が支払われていたが、そのテープは1983年に、「ラ スト・マルディグラ」という作品がリリースされるまで陽の目を見ることは無かった。

 アリゲーター・レコードは都会的なブルーズの製作や配給で評判を確立していた。会社の設立者であるブルース・イグローアは何年もの間、バードの作品をレコーディングしたがっていた。1979年の夏の間、予約代理人としても働いていた イグローアは11月に開催されるノートルダム・ブルーズ・フェスティヴァルに登場するバードを予約することについてカスロウに話しかけた。イグラーは直ち にニュー・オーリンズに飛んで、バードがブルーズ・スカラーズと演奏するのを聴い た。そしてそのときの同意の結果が1枚のLPとなって届けられることになる。

 レコーディング・セッションの日取りは1979年11月のニュー・オーリンズでということになっていたが、ブルーズ・スカラーズにはギタリストが必要だった。当時ロサンゼルスにいたマック・レベナックがこのことを最初に聞いたと き、素早く助力を申し出た。バード、イグローアそしてカスロウはレベナッ クの参加は、彼のギター・プレイだけでなくスタジオ録音においても策略的なセンスで価値あるものをもたらすだろうと賛成した。エスプラネード・アヴェニューの音楽ユニオン・ホールにおける最初のセッションは夜は凍てつくようであった。飾り気のない開かれた部屋には1台のピアノ、数台の折りたたみ椅子、 そこに閉じ込められたミュージシャンは寒さを紛らわすために彼ら自身を平を合わせたりしていた。
 ティモシー・ホワイトはローリング・ストーン誌の中で「プロフェッサー・ロ ングヘアーはリズムの収集家」 と記している。彼のバンド、ブルーズ・スカラーズ もまた彼のコレクションだった。ジョニー・ヴィダコヴィッチは多くの都会的なジャズやR&Bのアーティストと一緒にドラムを叩いて来た。彼の緩やかな四肢の演奏は早くキビキビしたシンコペーションによって特徴付けられている。 コンガ・プレイヤーのアルフレッド・ロバーツはルンバの色合いを仄かに感じさせる音楽に、他には無いようなトロピカルなフレイヴァを与えている。彼はバードとほとんど10年近くも一緒に活動を共にしており彼はその複雑なリズムをどのように補足していけば良いかをよく知っている。ベース・プレイヤーのデイヴ・ワトソンはバン ドに合流して1年ほどだがなかなかの評判だ。ブルーズ・スカラーズには3人のサクソフォニストがある。バリトンのジム・ムーア、テナーには技巧的ジャズの現代派で あるトニー・ダグラディ、そしてテナーにはもう一人、アンディー・カスロウ、 (アリスンの夫でもある)。コロンビア大学で人類学の博士号を取得するために勉強していたが、バードの復帰に最終的に大きな役割を果たした。

 数日のリハーサルで、レベナックのシャープで、噛み付くようなギター・リズムがより大きなサウンドの中へブレンドされていった。アルバム「クローフィッシュ ・フィエスタ」は、シーセイント・スタジオで録音された。シーセイント・スタジオは、ピアニストであり作曲家でもあるアレン・トゥーサンと、ビジネスマンである マーシャル・ショーンによって所有されている。セッションは、当日の夕方7時に予定されていたのだが、人々は午後4時頃から到着し始めた。 NBCがそこに合流 したのは、地方のドキュメンタリー用にバードとアレン・トゥーサンが出演した短 いヴィデオ・テープを制作するためであった。 カメラが立ち去ると直ちに、イグローアのエンジニア、フレディ・ブレイトバーグはマイクの調整を始め、そこには グランド・ピアノを移動した。セッションはほとんどオーヴァ・ダブ無しのライヴ録音で行なわれた。思想はスタジオの録音技術に依存したものでなく演奏されたものをそのまま録音するというものであった。このことはブレイトバーグの長所であった。彼はドラムセットを閉じられたブースから引っ張り出してピアノの丁度左横に配置した。オイスター・ポーボーイを食した後、ピアノの前に腰掛けた。すると イグローアはコントロール・ルームから怒鳴った。「最初の曲は、何にする。フェス?」

 「欠けてしまった歯を取り出せ、ポパ!」♪「何故ってママがガムドロップを 混ぜたがっている」♪ という歌声で口火を切ったのは、部屋一杯の笑いで彼の1957年の録音「ノー・ バッツ、ノー・メイビー」の活気に満ちたヴァージョンであった。数曲が3テイク 以上要したのを除いてアルバムは相対的に簡単に形作られて行った。バードはスタ ジオでの録音を5年間行なっていなかった。しかし、彼の余裕と音楽への指揮は、 ミュージシャンや技術家を静かにさせた。1点だけ、「イン・ザ・ナイト」の途中 で、ヴィダコヴィッチはリズムを取り損なったがバードは暖かくも、自分からピアノの椅子を離れて若いドラマーの胸の上で軽くリズムを取っただけであった。

 レベナックとバードの関係は特別で、マックがバードの「ゴー・トゥー・ザ・ マルディグラ」と「カッティング・アウト」でプロデュースしてギターを弾いたと いう1959年に遡る。何年ももの間、彼はフェスと一緒にレコーディングを演りたかったのである。マックとバードはセッションを通じて会談した。そしてもし小さな問題で修正が必要な場合、レベナックはバードのシャイさを感じとって、ブルーズ・スカ ラーズの面々にアイデアをはっきりと伝えた。「これはマックからフェスへのギフ トだよ。」と後にアリソン・カスロウは観察している。 そのバンドはバードのレパートリーを次から次へと演奏していった。彼が幾年 もかけて演奏してきた歌々は今最高の状態で録音されている。これらには、最初 のヒット曲「ボールドヘッド」、「ホール・ロッタ・ラヴィン」そして無愛想な 歌詞の「イッツ・マイ・オウン・フォルト」 もし俺が、君が会社を持っていることを知ったら、君は俺が昼御飯としてウィンナーを食べておいた方がいいということを知っている。
その男は俺の体の2倍もの大きさ。ジョー・ルイスの拳も包み込むほどの手のひら。

 その曲には3日間のセッションが費やされ、アルバム・タイトルは「クローフ ィッシュ・フィエスタ」で、アンドリュー・シスターズのヒット曲が緩やかにベー スとなっている「ラム&コカ・コーラ」の旋律に乗って緩やかにベースがあり、 重いラテンのフレイヴァの調子である。その曲は丁度3人のミュージシャンだけ で録音されている。シンコペイトされたラグタイム・ピアノをバードが、アルフ レッド・ロバーツはアイランド・コンガ、そしてウォルター・ペイトンは誤って アルバムのクレジットから省略されてしまった活気のあるセカンドライン・チューバで登場する。その曲自体バードによる演奏への一連の夢を託されたもので2 回この曲は自分にレコーディングを促したマック・レベナックへの歌だと口にして いる。

 そのアルバムの完成後、独立したテレビ・プロデューサであるスティーヴンソ ン・パルフィは、ティピティナスでの、バード、タッツ・ワシントン、アレン・ トゥーサンのコンサートのヴィデオ・テープ・アレンジを手がけた。3つの世代のニュー・オ−リンズのブルーズ、ブーギ・ウーギ、そしてトゥーサンのよりファ ンキーでモダンな3人のピアニストの由来を追跡するといった主旨のドキュメン トをバックにするというものであった。そのショウは1980年2月30日、突出した音楽家としてバードの最後の登場を予兆する。そしてこの模様 はアルバムとPBSの番組で長年彼から離されることを余儀なくされていた視聴者に彼の音楽を見せることになる。彼は、1978年までに、32000ドルという相応な金銭を手にし、彼自身のグルーヴを発見することになったのだ。
(掲載2007/05/19〜)

原著:UP FROM THE CRADLE OF JAZZ (現在廃刊です)
(New Orleans Music Since World War II)
著者:Jason Barry, Johnathan Foose and Tad Jones

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

Professor Longhair 更新情報

Professor Longhairのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング