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メコンプラザ・コミュニティコミュのメコン川の水運(第2回)

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みなさま

メコン河委員会の水運レポートを翻訳しました。
30ページほど。

>母なる大交通路
>メコン川水系における過去、現在、将来の水運
>2004年4月に「メコン河委員会」がプノンペンで発行

地名、人名の読み方など、指摘いただければ幸いです。
よろしかったら、10回ほど続けて見ますね。

 土筆の子

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九世紀から十五世紀にかけて、カンボジアの王たちはアンコールの町からメコン川流域のほとんどを支配していた。トンレサップ湖に流れ込む支流群に囲まれて作られたアンコールの町で、人々は輸送手段として恐らくは舟よりも象や馬に頼ったと思われる。中国の使節チョウ・タクアンは、1296〜1297年にアンコールを訪れた時に中国人の商人がいたと記しており、商業的水運が引き続き重要であったことを示唆している。トンレサップ湖に近かったということは、アンコールがベトナム中部の国チャンパ(林邑)からの侵略を受けやすかったことを意味する。ある時チャンパのチャム族は首都アンコールを攻略するために、膨大な数の戦闘用カヌーを使ってメコン川とトンレサップ湖を遡上した。トンレサップ湖におけるクメール族とチャム族の戦闘の模様はアンコールの各寺院に生き生きと描かれている。しかし王国の最終的な終焉は、現在のラオス、ミャンマー、タイの3国国境が交差するメコン川北部のチェンセンから出現したシャム族の王国によってもたらされた。1431年にシャム族に攻略された後、カンボジアの王朝はアンコールを放棄して、メコン川の二つの大きな支流が合流、分派する交易の中心地であったプノンペンに新しい王朝を設置した。

1511年のポルトガルによるマラッカ海峡の占領のあと、ヨーロッパ人もカンボジアやメコン川のことを引用し始めた。実体験に基づく描写をした最初のヨーロッパ人はポルトガルの宣教師ガスパル・ダ・クルスで、この宣教師は1555〜1557年にプノンペンとその周辺地域を訪れ、遠く離れたラオス王国の商人たちがプノンペン北部のローヴェクと交易するのにメコン川を使っていることに気が付いた。ポルトガルの宣教師達は約30年後に本国へ戻り、その後ポルトガルとペルーからの何人かの冒険家がカンボジア王朝の治世に積極的な役割を演じ、この王朝をフィリピンにあったスペイン王国の出先と接触させた。

同じ頃、日本人も1585年に始まったキリシタン迫害にともなってメコン川をさかのぼり始めた。日本人キリシタンの東南アジアへの集団的大移住に続いて、徳川幕府の御朱印船による交易が急増した。十七世紀の初期に、御朱印船はカンボジアへ44回もやってきて、プノンペン及び旧都ウドンに近い河川港ポンヘアルに多数の日本人が定住した。1635年にそれら交易が禁止されるまでに、類似の日本人社会がベトナム、タイ、フィリピンにも出現した。この時期に、日本は銅、銀、鉄、硫黄をこの地域へ輸出し、絹、香辛料、薬剤を持ち帰った。

コメント(2)

>>北部のチェンセンから出現したシャム族の王国

ランナー王国(チャンマイ)
:狭義では南部のアヨドヤ王国(後のタイ王国)とは別の国(ムアン)で
ランナーとは100万の水田の意味。
同じシプッソンパンナである、ラオスのランサー王国、
や南部のアヨドヤ王国ともネットワークを持った。
16世紀になるとしかしネットワークの内紛により衰退し、
ビルマのトゥングー朝に服属した。

---------------
>> カンボジアの王朝はアンコールを放棄して、
>> メコン川の二つの大きな支流が合流、分派する
>> 交易の中心地であったプノンペンに新しい王朝を設置した。

1431年にクメール王ポニャートはバサンに都を建設する。
しかし洪水による破壊のため翌年対岸のプノンペンに新都
を建設する。
 しかし、すぐに、クメールはストレイサートを中心とする
メコン河水系とロンヴォークを中心にするトンレサープ河水
系の2つの勢力に分裂する。
 16世紀のポルトガルの史料は、ロンボークとスレイサートを同格の都市とみている。


>>ポンヘアルに多数の日本人が定住した
河川港ポニュールには日本人やオランダ人が集まって
居留地を作っていた。ポニュールには数百人規模の
日本人町があった。メコン下流部は日本河とも呼ばれてた。

>>絹、香辛料、薬剤を持ち帰

カンボジアの産品は、鹿皮、漆、象牙、蝋、黒砂糖
水牛角、犀角、鮫皮など。

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急に時代がすすみました。
ジャーバルマン7世の活躍の話を期待してたのですが
いっぺんに進んでしまいました。
Cosmoさん

コメントありがとうございます。
この歴史の部分は、ミルトン・オズボーン氏の本を参考に
しています。駆け足で、おさらいする感じ。
コラムの部分も訳してますのでご紹介します。
アンコールに「首都移転の場面を描いた絵画」もあるようです。

 土筆の子

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東南アジア最大の王国の王室を300キロメートル下流へ移動させるのは容易な水運事業ではなかった。アンコールにおける人々の生活に関する中国人使節の記録、残された絵画、及びカンボジアの年代記に基づいて、オーストラリアの歴史家ミルトン・オスボーン氏は当時の様子を想像して次のように述べている。「この移動は間違いなく大事業だった。王は王室のはしけに乗り、その周りを兵士と従者たちの護衛船団が取り囲んだ。また伝説によるとアンコールで最も神聖な仏像を新しい首都に設置し直すための特製の運搬船も作られた。色とりどりの衣服をまとった宮廷人が船体を金色に塗ったはしけの上に旗幟を掲げて船出する時は太鼓やほら貝の音が鳴り響いたであろう」。

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